innocent until proven guilty









 「むねが、くるしいの」

 銀の鈴が鳴るような、澄んだ「声音」が耳に届いた。

 「せつなくて、ねむれない」

 灯りの抑えられた夜の展望スペースに、いま在る人影は二つ。

 「さみしいよ」

 静やかな囁きを連ねるのは、ほんのりとした灯を自身に纏う「少女」ばかり。

 「いますぐ、あいたいのに」

 並んでベンチに腰かける華奢な少年へと「彼女」は遠慮がちに、それでも懸
命な訴えかけを繰り返していた。

 「コウジ」と二度名を呼ばれて漸く、隣り合う少年は硬く結んでいた唇を開
いた。

 「う・・ん---確かに、そう・・・なんだ、けど」

 薄い照明の死角に座しているせいで、彼---コウジの表情は窺えない。

 「いつもの売り言葉に買い言葉だって。あいつにもそんな深い意味なんか、
なかったんだろう・・・って。そうは思うんだけど、さ」

 その話振りや声音から、少年が体型から受ける印象より幾分年嵩の者である
ことが知れた。人の良さそうな、それでいてどこか頑迷さを感じさせる彼を説
得するつもりでか、

 「でも「はんせいしてる」よ?ユウキも---」

 「少女」はなおも言葉を継いだ。途端、

 「ネーヤ」

 コウジはぴしゃりと「彼女」の言を遮った。決して声を荒げるでなく、けれ
ど断固とした口調で。

 「俺以外の誰の気持ちも、決して口にしたり、他の人に話しちゃいけない。
約束したろう?例え俺がそれを知りたがってても。それが俺にとって肉親の気
持ちであっても、だ」

 まるで教師が教え子に説くような、父親が幼子を諭すような、本来であれば
穏やかで心温まる情景。

 けれどいま目前で起こっているそれは、とても常識では考えられない、まさ
に有り得ざる事態でしかなかった。少なくとも、自分にとっては。

 何故ならば。

 単なる実習生の少年が当たり前に教えを与えている相手は、紛れもなくこの
航宙可潜艦リヴァイアス号の制御システムたるスフィクス、即ち異種生命体ヴ
ァイアという所謂ただの物体だったから。

 艦の長たる者とのみ「リンク」と呼ばれる精神感応で繋がり、そのリンク者
の意思のみをもって艦を制御する---スフィクスとは本来、そんな機能を有す装
置であらねばならなかったから。

 操舵以外の、指示以外のコミュニケーションを人間と---ましてリンク者でも
ない対象と、しかも会話を成り立たせるなどという事象が起こる筈はないのだ。

 如何にこの「黒のリヴァイアス号」が、特異な例であろうとも。

 「・・・ごめんなさい・・」

 叱られた子犬のように項垂れたスフィクスは、作り物の表情を今にも泣き出し
そうに崩してみせた。

 「ごめんなさい、コウジ。もうしない、から・・・きらい、ならないでっ」

 言って少年の首筋に両の腕でしがみつく。重力の影響を決して受けない生物で
あるから、いかに細身のコウジもその勢いにたたらの一つも踏むことはない。

 「まさか」

 コウジは縋りつくものの肩を優しく、撫でるように二度だけたたいた。おずお
ずと視線を合わせるスフィクスに笑いかけたのが、夜の暗がり越しにも見てとれ
た。

 「ネーヤを嫌いになんて、なるはずないだろ。分かってくれたら、それでいい
んだからさ。俺こそ、きつく言ってごめんな」

 「よしよし」と頭を撫でられて、未知なるヴァイアから生み出されたものが、
大層嬉しげに破顔する。子供のようにはしゃぎながら、コウジの利き腕にぶら下
がる。

 それはどこにでもある、仲睦まじい親子の日常だった---勿論、相手が「彼女」
でさえなかったら。

 「そこの、君!---コウジくん」

 我慢がならず、思わず口を開いた。

 深夜のこんな場所で、いきなり背後から声を掛けられたことに驚いたのだろう。
少年は慌てて振り向きざま目を凝らし、夜闇の中に不躾な傍聴者の姿を探った。

 彼との距離は会話を交すのに適したものではなかったが、敢えて近付くことを
せず言を継いだ。スフィクスの様子をくまなく観察する為、何よりその精神感応
範囲内にむやみに踏み込まぬ為の当然の処置だった。

 「私はヴァイア工学部の者だが。少し話しを聞かせてくれないかね。その---
「ネーヤ」のことで」

 先の航海を体験した生徒らが、スフィクスをそんな固有名詞で呼んでいること
は知っていた。

 言ってしまえば下らない遊び心だが、子供は何にでも名前をつけたがるものだ。
一々目くじらを立てるほどのことでもない。

 それよりも。

 この艦に派遣された栄えある学者として、またれっきとした公人として、いま
為すべき事を実行すべく面識もない実習生へと最初の質疑を投げかけた。

 居心地悪げにスフィクスと顔を見合わせる少年を安心させる為、精一杯の笑顔
を向けて。

 凡庸な学生にも理解し得るだろう程度の、自分なりに出来るだけ易しい言葉を
用いて。

 

 

 

 






 ---- act.1 「Shower and Weather rain ---
 

 


<1>

 地球標準時間でいえば、5月の中頃。

 人類の遠い未来を担う「黒のリヴァイアス号」は、再出発から約9ヶ月が経過
しようとする今かねてよりの航路を外れ、急遽月の宇宙港に着岸した。

 その事由はといえば、艦の基盤たる「スフィクスの不調」に関する調査及び調
整。

 もっとも主たる乗組員ら---中でも当のスフィクスに近しい者にとっては、今
回の仕打ちはただ「科学者のみの見解による不当な強行法」でしかなかったのだ
けれど。

 

 現在リヴァイアスを実質的に動かしているクルーの面々が、初航海でやむなく
その術を身につけた者ら---即ち、その殆どが実習生である若者たちで占められ
ている事実は、関係者の間ではすでに周知のことだった。

 が、少数とはいえ監修者として同乗している大人たち---いわゆる公人らにとっ
て、その事実は甚だ遺憾な成り行きでしかなかったのだろう。

 とはいえ再搭乗からこっち、何につけそんな感情論をもって対応され続けては、
彼らともっとも関係せざるを得ないツヴァイやリフト艦担当生らも正直堪ったも
のではない。

 文句があるなら自分でやれ、と啖呵の一つも切りたくなるのを先の航海で養っ
た忍耐力で胸に収めていたのだから、どちらが分別有るはずの大人だか等と、呆
れた溜息を洩らさずには居れない子供たちであった。

 それでも困った「大人たち」は、彼らなりの義務と権利の遂行に---学生たち
にとっては、いっそ「精神鍛錬の為の機会作り」に---日々励んでくれていた。

 そうして。

 そんなあれこれの中でも極めつけに厄介な「大人たちの認識間違い」こそが、
今回の月基地寄港の起因となったのだ。

 

 



 「昴治!月の研究所に暫く行くって本当?病気のネーヤに付きそって?」

 リヴァイアスが月の港に入って3日目。管理統括課の窓口が、1日で一番賑わ
うランチ休憩時間だった。

 朝から受付業務についていた相葉昴治は、今日だけでも何十回聞かれたか分か
らない同じ問いに、些かどころではなく辟易とした表情で黙り込んだ。

 たった今昴治の口をへの字に曲げさせたのは、フラアテ課にて班長を務める蓬
仙あおいである。

 幼馴染みの向ける恨みがましい視線をものともせず、あおいは自分より一足先
に駆けつけて来たのだろう、苦笑を浮かべて隣りに立つ彼の人の親友に矛先を移
した。

 「何、尾瀬はもう聞いたの。事態の真相?」

 「いや・・・真相、っていうか・・」

 言い憚るというよりも、笑いを堪える素振りの青年の名は尾瀬イクミ。

 昴治の弟の祐希と同様、操船課に籍はあるものの又ぞろリフト艦作業に任命さ
れ、学者方の課す過酷なノルマに日々追われる生徒らの長まで請け負った、哀れ
な身の上の男であった。

 「行くわけないだろ、そんなとこに。俺が行ったところで、どうなるっていう
んだよ。大体!ネーヤは病気でも故障でもないんだからなっ」

 興味津々な幼馴染みへの憤慨も露わに受付席から立ち上がり、昴治は友人らに
対するにしては少々大袈裟な声で言い放った。

 もしや、と心づいて振り返ったイクミとあおいの視線の先には。

 はたして、何時からいたものやら両手の指に余るほどのギャラリーが、思いが
けない昴治の剣幕に肩を竦めたところであった。 

 

 いい加減仕事の邪魔だ、と十把一絡げに総括課窓口を追い払われた後、各々の
実習場所へと戻る道すがら、あおいはイクミが僅かな時間で親友から仕入れたば
かりの「情報」を聞き出していた。

 「つまり---「病気のネーヤに昴治が関わろうとしてる」んじゃなく、「ネー
ヤの病気が昴治に関わってる」っていうワケ?科学者の皆サマは?」

 憤慨よりもいっそ呆れ果てたあおいの口振りに、全く同感であるイクミは苦笑
するしかない。

 「まあ、要約するとそうだね。勿論言い掛かりも甚だしいんだけど」

 大体にして、リヴァイアスが急遽航路を変更し月に入港したことに関しても、
当初はその「科学者の皆サマ」の指示により、学生たちにはただ「公な理由で」
などという、れっきとしたクルーである彼らを小ばかにした説明しか与えられて
いなかった。

 ツヴァイの---正しくは副艦長と一部の良識ある教官らの配慮で昨日、各担当課
班長に事情が明かされはした。が、「その真相」をもっと後に知ることになった
場合子供たちが抱いただろう、当局への不信感というリスクを少しも慮らない、
彼らの厚顔さにイクミなどはいっそ感動を憶えたものだ。

 そうして。

 誰の口からどう洩れたかはとにかくも、どうやら入港直後から生徒らの間に猛
スピードで広まったのが、「相葉昴治が故障したスフィクスの修理に付き添って
月面ラボに入局する」という---イクミやあおい、その他のギャラリーが総括課に
押しかける原因となった---誠しやかな噂なのだった。

 「それにしても---昴治といるネーヤがあんまり人間臭いのが不調のせいだ、な
んて。ばかみたい。学者なんてホントに何も分かっちゃいないのね。そりゃあの
子があんなに変わったのは、確かに昴治によるところが大きいんだろうけど」

 あおいは肩を竦め、それからふと何かに思い当たったように小さく笑った。首
を傾げる同行者を見上げて更に頬を緩め、

 「あのね。これがもし昴治じゃなくて・・・例えば尾瀬やユイリイや、そうだなあ、
あと祐希とかだったら、科学者さんたちの反応も違ったのかな、って思ったら---
何だか可笑しくて」

 自分の思いつきにくすくすと無邪気な笑みを雫す。

 真っ先に名を連ねられたイクミはといえば、さりげなく扱き下ろされた親友を庇
うべきか、高々と持ち上げられた我が身に恐縮するべきか、浮かべる表情の選択に
困るばかりであったが。

 ともあれ確かに大人たちにしてみれば、「スフィクスに影響を及ぼしている対象」
が無名の一実習生などよりも、名実ともに「当局」に認められた有能な者らである
方が、まだしも納得はしやすかっただろう。

 けれど実際にスフィクス・ネーヤ自身が常に共に在ることを望んでいる者が、た
だの平凡な学生---イクミの最愛の親友たる、相葉昴治その人だという事実は変えら
れはしないのだ。

 だからこそ。何事に対しても慎重に過ぎる性質の昴治がああもはっきり「違う」
という以上、リヴァイアスの帆たる少女の身に某かの障害があると考えるのは、イク
ミたちにして至極難しいことだった。

 「噂だとネーヤの「入院」ってもうすぐらしいけど・・・「故障」もしてない子、ど
うしようっていうんだろ」

 リフト艦との分岐点で足を止め、あおいは綻ばせていた表情を改めた。

 特別な遣り取りを始終交すわけではなくとも、昴治と共有する時間が長い分だけ、
二人とネーヤの関係は他のクルーに比べ格段に深いものであったから。

 「なんか・・・心配。でも昴治はきっと、もっと心配だよね」

 感情の目覚めからまだ日の浅い少女に対し、昴治が幼い妹を愛おしむような情を
注いできたことを知っているから。

 そうして---家族同然に近しい幼馴染みという、まさに馴染み深くも新たな絆を紡
ぎ始めた相手である---昴治の安寧は、あおいにとってもやはり重要事項であったか
ら。

 「いっそ、ホントについて行ってあげられたらいいのに」

 昴治の気持ちを慮れば、確かにフラアテ課班長の言には肯くしかない。

 「それは・・・そう、かもね・・」

 その瞬間---イクミの脳裏に小さく、けれどはっきりとした警鐘が鳴り響いた。指
し示す方向も、その意図さえ定かでない「道標」に珍しく動揺するあまり、あおいの
二度の呼び掛けにも気付くことが出来ない有り様だった。

 「どうしたのよ」と明るい口調で囃しながらも、不安げに顔を曇らせるあおいに無
理に笑ってみせたのは、彼女をごまかすことでイクミ自身の困惑を打ち消したかった
からに他ならない。

 「いや別に。それより---そう、昴治が学者さんに立ち聞きされた「故障」云々の
騒ぎの原因。ネーヤ相手に愚痴ってたっていう「悩み」の事だよね。それが一体、何
だったかと言うと・・・」

 ここにはいない親友の、羞恥に紅潮した怒り満面の顔が瞼に浮かんだ。心中で昴治
に手を合わせ、イクミはひとまずの保身にはしる。

 何故ならば。

 今あおいを煙に巻いたところで、後で本人が問い詰められてしまえば結果は同じだ
ったから。

 あおいの曰く、昴治が学者さんに立ち聞きされた「故障」云々の騒ぎの原因。

 何時の間にか「ネーヤ相手に愚痴っていた」ことにされている、ここ数日の昴治の
気鬱の理由。

 どうしても、と望んで問い質したイクミさえ含み笑いを洩らしたほど、あまりにも
他愛ない「それ」こそは。

 ほんの先だってまで激しい諍いを繰り広げていた、いまや当人たちですら評し難い
関係を形成してしまった実の弟との---古来より「犬も食わない」と呼ばれる類の、
所謂「アレ」であるのだった。

 

 



 「黒のリヴァイアス号」に課せられた使命---その重要事項の上位であるV・Gのシン
クロ率向上に携わるチームメンバーにして、操船課を誇るエースパイロット。名を祐希
という昴治のたった一人の弟は、ここ数日何時にも増して不機嫌な面持ちを微塵も隠す
ことなく、身に馴染んだ己の操縦席で鬱鬱とノルマの消化に励んでいた。

 「やれやれ、もう何日目かしらねえ。今度のは一体何が理由なの。お兄さんの「付き
添い下艦」はデマなんでしょ、尾瀬くん?」

 相棒の見慣れた仏頂面に呆れて肩を竦めたのは、チームの紅一点---歴戦の女戦士カレ
ン・ルシオラである。

 これまでは何処のステーションであれ艦が入港した際には、実習生たちにも順番に「上
陸休暇」が与えられていた。が、今回に限って全員に居残りが指示された為---それが何
者の命であるかは想像に難くない---他の部署同様、彼らV・Gチームも揃って平素と変わ
りない作業に勤しんでいるのだった。

 「ええ、まあ。噂の真相に関してはその通りなんですけど」

 カレンに倣って肩を竦め、イクミは親友の弟の不貞腐れていてもなお端正な貌を眺めつ
つ苦笑した。

 正面に位置する指揮席に座したチームリーダーの視線に気付いたのだろう、祐希は顰め
た眉間の皺を益々深めて立ち上がる。

 「ああ、なんだ」とカレンが手を打ったのと、操船課の暴れん坊が所属課班長に声を荒
げたのは同時のこと。

 「ひとの顔ジロジロ見てんじゃねえよ!さっきから何だってんだ、ウザってえっ」

 「近頃には珍しく、お兄さんとケンカしたんだ。っていうか、単に祐希が怒らせた」

 疑問文でも仮定形でもない断言に、おそらくはイクミへと踏み出し掛けた足を祐希はそ
の場で凍りつかせた。すでに舌上に乗せていたろう言葉を飲み下し、一層険しくなった相
貌を伏せ再びシートに腰を沈める。

 「うわ・・・カレンさん、超直球・・」

 先だって聞き出した昴治の話振りからして、どうやら今回のソレは一方的に祐希が悪い
訳でもないらしい。それでも反論を返すことなく黙り込んだところから見て、祐希が兄と
の諍いを本気で悔いているのは間違いなかった。

 委細を知るイクミとしては、些かの同情を感じないでもなかったけれど。

 (・・・ま、タマにはいいか)

 弟との関係が日々好転していくことに、昴治がどれほどの喜びを抱いているか。傍目に
は素っ気なく振舞う祐希が、そんな兄にどれだけ感動を覚えているか。

 何につけそれを目の当たりに見せつけられている身としては、ささやかな意趣返しくら
い許されて然るべきだろう。イクミは心中で勝利の握り拳を高く掲げてみた。

 頭の中にこだまする---「親友の幸せを邪魔するなんて、ホンっト子供のヤキモチだよ
ねっ」---聞き慣れた呆れ口調には気付かぬ顔で。

 「確かに・・・今朝も、昴治の機嫌はかなり悪かったかなあ」

 物見高いギャラリーに対して、と口に出さなかったことに他意はない。今朝も、の部分
につい力が入ったのも、ただの成り行きだから致し方ないだろう。

 常よりも数段勝るスピードで端末のキーを叩いていた祐希の両の手が、そんなイクミの
揶揄の故にかピタリと動きを止めた。次いで再び、今度は至極物静かに席を立ち、祐希は
無言のまま班長の前に進み出る。

 相手の顔も見ずに手にしたデータチップをイクミのデスクに半ば叩き付け、リヴァイア
ス第2の英雄は唇を引き結んだまま、軽い驚きに目を見張る戦友らに背を向けた。

 傷心を抱えた風情を有り有りと漂わせた後ろ姿がゲートの向こうに消えてから、

 「今日のノルマは遂行した。これなら文句ねえだろ!---ってところね。もう、尾瀬くん
があんまり苛めるから」

 自分の仕打ちを棚に上げ、カレンは大仰に溜息をつく。

 「あらら、言いますねえ。キミこそ面白がってたじゃありませんか」

 「まさか。私は祐希に反省を促しただけよ」

 置き土産のチップを指先で摘まみ上げ、ひらひらと目前に翳し見る満足げな班長に、心
外そうに眉を顰めて紅一点は嘯いた。

 「「いつまで駄々をこねていても許される、いつでも取り戻せる」なんて自惚れていい
レベルには、まだまだ達していないんだから」

 兄弟の初航海当時の確執は勿論、ここ最近の大層な親密振りをも、祐希と常に行動を共
にするカレンならば当然熟知していただろう。出逢った当初から祐希に向けられていた彼
女の真剣な想いが、その臆することのない態度から周知の事実であったように。

 だからこそ、なのか。

 「じゃあ---さっきのはつまり・・・応援歌だった、ってコト?」

 諦めてしまうの、とは聞けずにお茶を濁した。カレンの苦言の示唆する先---それがイク
ミの危惧する事柄と同一であることをただ、認めたくなくて。

 どうかしら、と言い置いて、カレンは苦笑ともつかない笑みを残し自席へと踵を返した。
潔いその背が物語る剛さには、掛け値のない敬意を抱くけれど。

 (そうそう認めてはやれないよ、祐希クン。カレンじゃないけど、今のキミじゃあまだ
まだ)

 今朝だけでなく、ここ数日の昴治が見せる不機嫌というよりは、どこか遣る瀬無く沈ん
だ表情。

 勿論野次馬にウンザリしていたのは紛れもない事実だろう。けれどその気落ちの殆どが、
あおいの曰く「大切に想う「妹」に対する、一部の大人たちの理不尽な扱い」であること
は想像に難くない。

 そして、そんな憤慨の中に時折覗く---知り合ってからつい先だってまでのイクミが見た
ことのない、切なさを滲ませた淋しげな昴治の憂い顔が、祐希の行為の故であるのもまた
間違いないことだと思うから。

 (簡単にあんな顔させるようなヒトに、お兄ちゃんを任せてなんかあげません)

 昴治から半ば無理矢理聞き出した「明らかな痴話喧嘩」の他愛なさに、思わず笑ってし
まった自分を今は戸棚の奥深く丁寧にしまい込む。

 遠くて近い過去の日。イクミが彷徨ったのと同じ名の迷宮に、むざむざ愛おしい親友を
迷い込ませたくなどなかった。

 もしそれでも---どうしてもと昴治が望むなら、せめてその共犯者にはより以上の覚悟と、
イクミに否やも言わせぬ程の証しを示させておきたかったのだ。

 愛し求めるだけでない、ふたりが共に在る為の---強固な証しを。

 

 

 

 

 

 

 
<2>

 世界を賑わせたかの「リヴァイアス事件」の折り、奇跡の生還を果たした相葉家の長男
と次男は、新しく芽生えた互いへの深い感慨を胸に8ヶ月振りの生家へと帰省した。

 瀕死の重傷を負った兄、昴治は即座に3ヵ月もの入院生活を余儀なくされた。

 一つ違いの弟の祐希は、一通りの検査の結果体調に問題なしとの診断の故に家に戻され
---それから3ヵ月の間、一度も兄を見舞う事をしなかった。

 退院した昴治が自宅療養をしていた頃も、リヴァイアスへの再搭乗を決めリハビリに励
んでいた日々にも、祐希は一貫して兄との生活パターンを違え尽く接触を回避し続けた。

 弟の冷淡に過ぎる態度に、けれど昴治は何一つ異議を唱えたりはせず、そんな昴治を慮
った母や幼馴染みの度重なる苦言にも、祐希の行いは少しも改められることはなかった。

 本当のところはただ、改める術が見つけられないだけだったのだけれど。

 優しくありたいと願うほどその方法さえ解らずに躊躇する自分が、物知らずな子供のま
まだったのだという事実。

 二度と傷つけたくないが為にとる行為が、闇雲に距離をおくことでしかないという自分
の臆病さ。

 思い知るほどに尚更、祐希は昴治の視線さえをも怖れていったものだ。

 しかし。

 そうして再び始まったリヴァイアスでの毎日の中で、唐突に祐希は識ることとなった。

 「リヴァイアスにもう一度乗ったあの日にね、昴治に聞いたの。「祐希はどうすると思
う?」って。」

 かつては淡い想いを向けたこともある、今は家族そのものといえる幼馴染みの口から。

 「そしたら昴治ね、何だか照れ臭そうにも見える顔で「多分」って。「どうするかは聞
かなかった。でも、多分」って言ったの。信じてたんだよ、きっと待ってたんだ。祐希が
一緒に行くこと」

 狂気に塗れた艦を守るため共に闘った---今は癪に触る事この上ない、兄の自称親友の
よくまわる口から。

 「ここだけの話ですけどね、カレンさん。昴治が言うんですよ。救出後も祐希はずっと
愛想なしだったけど、それは照れ隠しっていうか、ともかく何だか「あったかい素っ気な
さ」だった気がする、なんてノロケをね」

 何時の間にか子猫のように兄に懐いていた、今はこのリヴァイアスの要と知れたスフィ
クスとやらの「口」から。

 「なかなおり、したい。コウジ、いってた。ユウキ、ちがうの?」

 堪らずに、気付けば押しかけていた。この旅で持ち場を新しくした兄の元へと。

 突然の思いもよらない来訪者に当然の如く驚愕したその小さな手をとり、用意していった
走り書きのメモを些か強引に握らせた。

 昴治がくしゃくしゃの紙を開いて見るまでのほんの数十秒の間、祐希の全身は緊張と畏れ
に情けないほど震えていたことを覚えている。

 決死の、玉砕も覚悟で伝えたのは、個々に与えられている自室のルームキー・ナンバー。

 最初の怪訝な様子から、見る間に解けていく昴治のまろやかな貌を前髪の間から窺いつつ、
祐希は自分の願いがようやっと叶えられる時がきたことを知ったのだ。

 「サンキュ・・・あ、いま俺のも教えるな」

 大切そうに折りたたんだメモをジャケットの胸ポケットにしのばせた兄の、祐希を見上げ
る眼差しの穏やかさ。含羞んで浮かべた微笑みの温かさを祐希は、たった今のことのように
覚えている。

 

 

 ---それなのに。

 尾瀬イクミをして「明らかな痴話喧嘩」と言わしめた、一連のことの発端たる昴治との諍
いを思い出す度、祐希は何とも言い難い無力感と焦燥感に苛まれずにはいられなかった。

 いまは心底大切に想う兄と、何故自分はいつまでたっても下らない揉め事を繰り返してし
まうのか。

 祐希のこんな自問自答をもしイクミあたりが耳にすれば、「キミの器のモンダイでしょ」
などと一言の元に断じられることは明白であったが。

 (大体---あいつが細か過ぎるんだ。イチイチ誕生日とか、母の日とか・・・女やガキじゃあ
るまいし・・)

 十日程前に終わった、遠く遥か古代ギリシャを起原とするらしい「母親を尊ぶ風習の日」
の前夜。

 関係修復を果たしてから以降、当たり前のように通い詰めている兄の部屋を訪ねた祐希の
顔を見るなり、昴治は大層楽しげにこう切り出したものだ。

 「母さんに感謝のメールを送ろう。今度は、本当にふたりで」

 その前月にあった母の誕生日には、昴治が祐希の名も連ねた祝いを贈っていたらしい。

 「事後承諾で悪い」と申し訳なげに告げられた時、「次からは協力する」と良い恰好をし
たのは確かに自分だった。

 弟の、思ってもみなかったのだろう言葉に嬉しそうに微笑った兄の顔を目の当たりにして、
いっそ祐希の方が感動を覚えたりもしたのだけれど。

 (・・・やっぱ「下らねえ」はマズかったか・・・いや、「面倒くせえ」って言ったんだっけ?)

 もはや「原因となった一言」の詳細さえ定かではないが---何しろ十日も前のことだ---言
い換えればたったその程度の、他愛ない戯れ言に過ぎなかった筈なのに。

 何とアレ以来、昴治の祐希への態度はほんの少しも緩まる兆しを見せないままだった。

 誰でもつき合ううち容易に分かる事だが、一見大人しげな昴治の「怒りの沸点」は実は驚
くほどの低さで設定されている。

 怒りの対象が弟の場合さらにそれが顕著であること、仲違いを経た今でさえ、昴治の中で
の己のスタンスは一向に変わっていないらしいことを祐希は、今回望まずして思い知らされ
る羽目になったのだ。

 そうしてまざまざと脳裏に甦るのは、幼い頃の兄と自分。

 祐希は何につけ人一倍よく愚図る子供だったし、たった一つしか歳の違わない昴治が、そ
れでもやむなく折れてくれるのは二人にしてごく当たり前の日常だった。

 勿論それもある程度までのこと。一旦昴治の「怒りのスイッチ」が入ってしまえば、あと
は祐希がどれだけ泣き喚こうが取り縋って許しを請おうが、例え母が宥めすかそうが、自身
の感情が冷めるまで兄は決して弟を一顧だにしてはくれなかった。

 「厄介なとこだけよく似た兄弟」とは昔からあおいが口にする常套句だが、ほんの時折現
れるからこそなのか、兄の「頑固さ」は弟の「毎度の天の邪鬼さ」などとは決して比べもの
にならない程、まさに厄介極まりない代物なのである---少なくとも、祐希にとっては。

 だからこそマズいのだ。このままでは、大変に。

 (・・・冗談じゃねえ・・)

 実習帰りの通路をひとり自室へと辿りながら、祐希は苦い独白を奥歯できつく噛みしめる。

 堅く繋いでいた手を一度は自ら手放した。互いを疎んじ、4年もの時間を費やして尽く傷
つけ合った。その間中---抱き続けてきた胸を穿つ孤独感と、半身を裂かれるような凄まじ
い喪失感。

 あんな思いをもう、二度と繰り返したくはない。

 こうして今改めて兄の温もりに包まれる幸福を実感した以上、こんな下らない口喧嘩など
でまたぞろ失う訳にはいかないのだ。もう二度と、決して。

 とは言いながらこの状況の中、祐希に見出せた手立てはただ1つ---即ち昔のように「泣
いて縋りつく」ことだけだった。

 自身の幼少時を何より厭う身には、大層手痛い選択には違いない。けれど。

 結局のところリヴァイアス第2の英雄たる男にとって、兄に優先させるべき事由など元よ
り有る筈もないのだから。

 

 



 夕食時の混雑も大分落ちついたカフェの一角で、昴治はひとり「和風パスタのサラダセッ
ト」なるものを注文した。

 セットの内訳はメインのパスタとミニグリーンサラダ、カップに注がれたコンソメスープ。
その上食後には、コーヒーか紅茶がつくものであるらしい。

 もともと特にそれに食指が動いたというでもなく、ただメニューの巻頭に謳われていた文
字をカウンターで読み上げたに過ぎなかった。が、調理されたものが目前に並ベられてしま
えば、後はもちろん僅かながらでも食す他に昴治に途はない。「こんな時」でも食事くらい
はきちんと摂らなければ、と折角ここまで足を運んだ以上は。

 そう奮起してスープのカップを持ち上げた。グズグズしている間に程よく冷めたそれをち
びちび飲み進めるうち、遠慮の無い足取りで昴治の席に近付いてきた者が、やはり遠慮無い
口調で頭の上から言い放った。

 「まったく!ホントーに兄弟揃って失礼なやつらねっ」

 聞き慣れた声に気圧されて振り仰いだ先には、見るまでもない幼馴染みの呆れ顔。

 「・・・何だよ、いきなり」 

 「自分で注文しといて、その迷惑そうな顔は何?って言ってるの」

 弱気な反論を歯牙にもかけず、あおいは制服の腰に両手をあて昴治を見下ろした。次いで
苦笑めいた溜息を雫しつつ、テーブルの上に放置状態だったセットメニューを躊躇なくトレ
イごと持ち上げ、

 「もー、しょうがないなあ。ちょっとだけ待ってなさい。すぐにテイクアウト仕様にして
あげるから」

 「客」の返答も聞かずに踵を返しカウンターへと歩き出す。

 己の不躾さを自覚していた昴治であったから、そのバツの悪さ故に口応えも出来ぬまま、
スープの残りをすすりながら自然あおいの厚意を待つ運びとなった。

 別に頼んでないだろ、等と胸中にボヤいたのはただの負け惜しみ。食欲がないのは本当だ
ったから友人の些か強引な親切はまさに渡りに舟で、今更に幼馴染みのありがたみを噛み締
める昴治なのだった。

 いま、こんなふうに昴治の気持ちを塞ぎこませている要因は、大きく分けて2つある。

 1つは勿論、どこにも異常などあるはずもないのに「入院」させられようとしているネー
ヤのこと。

 実のところ昴治はここ数日なにやら噂になっていた通り、ユイリイ経由で「彼女に付き添
ってやりたい」旨を艦の管理部門へ申し出ていた。けれど「スフィクスの故障」云々を取り
沙汰したあの夜の学者先生を初めとした大人たちは、昴治如きが最重要機密に関わる事に当
然良い顔を見せはしなかったのだ。

 当局の許可が下りない以上、一介の実習生にはもはや成す術はない。

 そんなわけで昴治は、リヴァイアスに再搭乗して初めて体験する「何日もネーヤに会えな
い」状態に、いや増す心配を持て余す日々を送るしかないのだった。

 そうして---ネーヤの一件が起こる少し前から、やむなく引き摺ったままの---もう1つの、
要因。

 (「兄弟揃って失礼なやつら」って、さっきの・・・あれってやっぱり、祐希も今の俺と似た
ような感じだったってコト、だよな・・?)

 飲み終えたスープカップを握ったまま、昴治は今さっきあおいがさらりと口にした台詞の
一片を反芻してみた。

 (ホントにそう、なのか。祐希も同じ・・・こと・・)

 だったらいいのに。昴治は強くそう祈る。

 心に抱えた気鬱の故に、眠りは浅く思考はそぞろ。何を見ても聞いても、身体が空腹をう
ったえているはずの時刻になっても、望むものは湯気を立てた料理などではなく、ただ---あ
いつの・・・。

 そこまで思いを馳せた途端、急に恥ずかしさと何とも評し難い胸の疼きが一気に押し寄せ
てきた。自分の願ったそれが「兄弟に対して求めるには、些かどころではなく不適切な」シ
ロモノである事に今更ながらに気付いたからだ。

 どうかしている。心身とも疲れ果てたこの状態で、それでも必要なものの重要度順位のト
ップが歴然として睡眠でも食事でもなく、ただ---祐希の体温だ、なんて。

 かあ、と頬に上った熱を冷まそうと、昴治は両手のひらをうちわ代わりに扇ぎ始めた。

 (大体あいつが悪いんだ。あんな言い方して。あんな・・・何でもないことで、何でこうなっ
ちゃうんだよ・・・元はといえばネーヤのことだって---お前のせいじゃないか、ばか祐希っ)

 他の国、他の星ではどうか知らないが、昴治らの故郷ではポピュラーな行事の1つである
「母の日」の前日。昴治は部屋を訪れた弟に「母への感謝のメールを送ろう」と、当たり前
に持ちかけた。

 前月の母の誕生日の際に祐希がくれた言葉から、そういった行為に弟が賛同を見せてくれ
たと受け取っていたからだ。なのに、

 「面倒くせえ---大体よく次から次と、そんな下らねえコトばっか思いつくよな。あんたも」

 ---いま考えれば、あの程度の暴言は弟にとっては挨拶代わりのようなものだった。実習か
ら戻ったところであったから、身も気も疲れていて少し苛立っていただけなのかもしれない
けれど。

 それでも、あの時の昴治にはどうにも我慢が---「お前が、協力するって言ったんじゃない
かっ」---効かなかったのだ。

 その後何をどう言い合ったのかは流石にもう定かでないが、売り言葉に買い言葉の応酬---
つまりは子供の口喧嘩のレベルであったことは間違いない。

 昴治が「弟のくせに」と言ったのが先だったか、祐希の「兄貴のくせに」が先行であったか。
いずれにしても、互いに互いの地雷を踏み合ったのだけは確かなのである。

 「ユウキ、はんせいしてるよ」と教えてくれたのはネーヤだった。が、それを聞くまでもな
く弟が自分との蟠りを気に病んでいるのは分かっていたから、こちらから手を伸ばしさえすれ
ばおそらく容易に片はついただろう。

 でも---だからこそ、昴治はこの件で祐希に働きかけることを自身に禁じたのだ。

 (ほんとに俺と居たいんなら、お前も少しは・・・本気、見せろよ)

 再乗船してから暫く後のある日、何の前触れもなく総括課に現れた祐希は、大層切羽詰まっ
た様子で昴治にクシャクシャのメモを押しつけた。

 それに書かれた「内容」に、こちらの反応を窺う何時にない弱気な表情に昴治の胸の鼓動は
高鳴り、安堵と照れくささに自然と顔が綻んだのを覚えている。

 そうして漸く、兄弟は以前のように共に過ごす時間を得た。

 メモ書きのお返しにメールで送ったルームキーを無駄にすることなく、すぐさま祐希は昴治
の部屋に昼夜を問わず入り浸るようになった。

 就寝時にも同様で、狭い個室には当然ベッドもシングル1つだけだというのに、祐希はさし
たる躊躇もなくそのスペースの半分を占拠して憚らなかった。

 「いい加減部屋に戻れ」とか「狭い、重い」などと不平を口にはしても、昴治に本気で弟を
追い出すつもりがないことを多分、お互いが十二分に承知していたのだと思う。

 小さなソファにわざわざ身を寄せて座り、ライブラリーから借りた古い映画を見た。ベッド
の上で背中を凭れ合わせ、思い思いのことをして過ごした---そんな折には。

 祐希はソファの背に腕を伸ばす素振りで兄の肩を抱いた。細い髪に指を絡ませ、くすぐった
がって抵抗した指を逆に握りしめた。

 ある時は兄の脇に寝転がり膝枕を強請った。そのまま痩せた腰に縋りつき、勢いに任せとも
にベッドに縺れ込んだりもした。

 昴治は自分を抱えこむ弟の、胸の広さや腕の強さに驚きと寂しさを噛みしめた。

 がむしゃらと言っていい激しさで自分を求める弟の情に翻弄され、組み敷かれた際の相手の
身体の熱に酔った。抱きしめられるままその背におずおずと、それでも両手を回ししがみつき
さえした。

 何度も---幾度となく、喧嘩の前夜まで繰り返されてきた、これが紛れもない今の祐希と昴治
の「日常」だったのだ。

 どう贔屓目に見ても、誰が何と言ってもやはり「兄弟としては些かどころではない不適切な」
睦まじさであることは、勿論当の昴治にも解っている。

 それでも、構わないと思った。

 いや、だからこそもう二度と、失うことなど出来はしなかった。

 (責任取れよ、ばか祐希。お前のせい・・・なんだから、な)

 心身とも疲れ果てたこの状態で、昴治がせめて穏やかな睡眠を得る為の必須アイテムが祐希
自身であることが、最早どうにもならない事実な以上---。

 

 



 発信者の名を確かめた祐希が渋々と通信回線を開いた途端、IDの小さな液晶パネルの中から
幼馴染みが明るく言った。

 「いま昴治の部屋に行くと、洩れなく面白いものが見れるわよ」

 つい先刻当のあおいの詰めていたカフェで、彼女の曰く「失礼な態度」を取ったが故のお叱
りと一緒に持たされた、夕食のテイクアウトを半ば自棄になって頬張っている最中のことだっ
た。

 今回の「進言」には一体どんな揶揄が含まれているものか、または否か。

 祐希は1つ年長のこの幼馴染みを基本的には信用していたが、ことが兄絡みとなれば嫌が上
にも慎重さに拍車が掛かろうというものだ。まして自分の現状を鑑みれば、尚更に。

 怪訝な顔を繕いもしない祐希に、しかしあおいは頓着するふうもない。「何よ、その疑わし
そうな顔は」等と不満を唱えながらも、彼女の表情は晴れやかなままであった。

 「実は祐希が帰ったすぐ後にね、昴治も食事に来たんだけど」

 兄の名を耳にした瞬間に、反射的に居住まいを正していた。祐希の顕著な反応に益々気を良
くしたものか、あおいは嬉々としてその折の友人の様子を語り始める。

 昴治がどれだけ、気落ちしていたか。

 普段に増して食欲をなくしていたか。

 腫れた瞼が寝不足のほどを物語っていたか。

 そして、

 「ホントにずーっと一人で百面相してんだもん。用意したテイクアウト・ボックス抱えて暫
く見物しちゃったなあ」

 「・・・見てねえで、止めてやれよ」

 遠慮なく思い出し笑いを披露するあおいに、流石の祐希もつっこみを入れずにはいられない。

 「だって面白かったし。それに、可愛くて。ねえ?」

 切なげな溜息を洩らしたと思えば、耳まで真っ赤になったり。自分の髪先や指を見つめたり。
誰かさんの名前をつい、呟いてみたり---なんて。それもこれも。

 「みーんな、祐希のせいじゃないの」

 何時の間にか様になったウインクを投げ寄越し、今や姉のような幼馴染みは疑いもなく言い
切った。

 自分たちでさえ掴みかねているふたりのバランスをあおいは、また祐希の相棒や兄の親友ら
は既に察し、そして見守っていてくれたのだろうか。

 おそらくはそれぞれに各々が、決して穏やかでない心持のうちに。

 見透かされていることの気恥ずかしさやら、たった今聞き知った兄の焦燥振りに対する心配
やら。あれこれに動揺する余り返す言葉も見つけられない祐希へと、けれどあおいは幼い子に
見せる母親のような柔らかい笑顔を向けた。

 その微笑に意表を付かれた気持ちで祐希は目を見張ったが、次いで口にされた言葉は至極い
つもの彼女らしく、

 「だからほら、モタモタしてないで早く昴治の見張りに行って!あいつの事だから、きっと
まだグズグズして折角のテイクアウトに手も付けてないに決まってるわ」

 長年の経験と勘に裏付けられた、まさに名推理なのだった。

 

 

 はたして。

 あおいの読みは的中した。

 祐希が意を決して向かった先。高鳴る胸の鼓動を抑えつつ、V・Gの背丈よりも高い敷居を有
するその部屋のインターホンを鳴らす事、なんと8回。

 住人の全くの無反応に痺れを切らし、使い慣れたルームキーナンバーで無断入室を試みてみ
れば、ベッドの上、普段着のまま靴も脱がずに丸くなって転寝する兄の姿がまず目に入った。

 同時に、祐希が寝巻き替わりにこの部屋においている見慣れたシャツが、半ばうつぶせにな
った兄の胸に深く抱え込まれている様が。

 一人用の丸テーブルになおざりに置かれたテイクアウト・ボックスは、やはり一度も封を切
られたふうもない。

 「・・・解り易過ぎなんだよ、ばか兄貴・・」

 込み上げる胸の疼きを憎まれ口に包んで何とか飲み下し、祐希は眠る昴治の傍らに膝をついた。

 痛々しい傷口にするように、術らかな頬にそうっと触れる。少しやつれたようにも見えるのは、
寝不足や食欲不振を聞かされていた為か。

 僅かに寝乱れた明るい髪の柔らかさや、強く握り締めれば容易に折れてしまいかねない細い
指先。

 そんな全てが叫び出したいくらい懐かしくて、その感情の意外なほどの強さに祐希の胸は軋
んだ。たった十数日逢わないだけで、こんなにも兄に飢えてしまえる自分が可笑しく、そして
哀れだった。

 昴治を悩ませている要因のうち、この「兄弟喧嘩」が締める割合は件の「妹分の災難」と比
較し、はたしてどれほどの健闘をみせるだろう。勝ることはおろか引き分ける自信さえ、祐希
には未だ持てそうもないけれど。

 胸に抱いた寝巻きを取り沙汰するまでもなく、昴治は祐希がそばに在ることを望んでいる。
少なくともそれだけは、掛け値ない真実なのだと今は思える。

 例えそれが、ただ「弟に向けられる類の情愛」でしかないとしても。

 (・・・ただ?・・・ないとして---?)

 至極自然に自問自答しておきながら、祐希は己のその発想の意味するところに今更ながら軽
い衝撃を覚えた。 

 弟であることが自明の祐希が、では他にどんな形の「情」を確かに兄である昴治に対し求め
る筈があるというのか。

 心の内の、昴治との数多の情景を手探ってみる。

 他の誰とも違うニュアンスで祐希を呼ぶ声や不摂生を叱る顰めっ面。漸く見せるようになっ
た屈託ない笑顔、甘えかかる弟を当たり前にあやす優しい手のひら。そして---。

 「それこそ・・・今更、か」

 見下ろす寝顔に重なって見えるのは、ここ半年に渡るふたりの「不適切な交わり」の度に昴
治が浮かべた、戸惑いと怯えと後ろめたさの入り混じった切なげな表情だった。

 それなのに。昴治のそんな困惑を知りながら、祐希にはその理由を解消してやるつもりなど
毛頭なかった。それどころか兄が許す限りどこまでも、貪欲に求め続けるだろうことを強く確
信してさえいたのだ。

 より以上、今よりも更にどこまでも---全てを喰らい尽くしたいほどに、昴治が欲しい。

 自身の抱く欲求がもはや禁忌の域を越えていることを祐希は、本当はとうに自覚していたの
ではないのか。

 でなければいま目の前で眠る実の兄への、これほど激しい欲望に既視感を感じたりする筈が
なかった。

 昴治の薄く開いた唇に磁石のように引き寄せられ、自分でも驚くほど躊躇なくその吐息を奪
った。祐希の暴挙に兄が目を醒ますことは配慮の外だった。

 軽い口付けを解いた途端、目覚めた昴治と視線を合わせる羽目になったのは、故に半ば当然
の成り行きであっただろう。

 行為自体に後悔はなかった。が、大きな目を更に大きく見開いたまま、身じろぎもしない兄
の眼差しの中に嫌悪の色を見つけるのが恐くて、祐希はあろう事か再び、今度は触れるだけで
ない深い交わりを意図するキスを仕掛けた。

 昴治が驚いて抵抗したのは至極当然のこと。横たわったままほぼ全身を相手の身体で押さえ
込まれては、元よりウエイトで劣る昴治に弟を退けられた筈もない。

 唯一動かせたのだろう、壁側にあった左手が祐希の背へと振り上げられたのが察せられた。
解ってはいても兄の拒絶を少しでも回避したくて、祐希は尚も激しく求めを貪った。

 些か力ずくでこじ開けた歯列の奥、怯えて縮こまる舌を絡め取り、軽く歯を立てしゃぶりつ
く。濃厚なそれに抗う気力を失くしたものか、兄の手はただ力なく祐希のシャツを握りしめる
ばかりだった。

 余りの執拗さに昴治の呼吸が酷く乱れてきたのを潮時に、それでも名残惜しげに思うさま濡
らした唇を開放した。

 昴治が苦しげに肩で息をする間に、逃げ出すように距離をとろうとしたのは祐希にして無意
識の自己防衛であったろう。

 が、しかし。

 天網恢恢疎ニシテ漏ラサズ。絶妙のタイミングで伸ばされた被害者の指先は、不埒な無法者
の袖口を見事に捕らえていたのだった。

 

 

 気づいた時には唇を塞がれていた。それが誰の仕業であるかを確かめる必要など、欠片もな
かった。

 祐希がキスをした。昴治に。幼い頃に幾度も交した、戯れの触れ合いとは意図を異にする行
為であることは、さしもの昴治にも理解出来た。

 驚いた。

 最初に感じたのはただ純粋な驚愕だった。真剣な眼差しで自分を見下ろす弟の、これまでに
ない「男」を感じさせる様子に僅かな畏れを抱いたのも正直なところだった。

 呆然自失で固まっていた昴治をどう曲解したものか、祐希は再度、今度は全身で伸しかかり
ながら口付けを求めてきた。

 祐希の熱い吐息が触れた途端にびくり、と身体が震えたのは、拒絶というよりももっと条件
反射に近い作用からだった。狼の前足に捕われた兎---そんな捕食の構図が脳裏を掠め、我な
がらの馬鹿馬鹿しい比喩を打ち消したくて、唯一動かせそうな手をもって弟を諌めようと試み
た。

 一転、なお激しい蹂躙を受けた。深い口付けなどという生易しい代物ではなかった。息をつ
くことさえ許されない、いっそ獣が獲物を喰い漁るような、それはまさに本能に走っただけの
暴力といってよかったろう。

 瞬間のこととはいえ、昴治は本気で死を覚悟した。漸く戒めから解放され、取り戻した呼吸
を懸命に正そうともがく自分を捨て置いて、何事もなかったように離れていこうとする弟に無
性に腹が立った。

 寸でのところで遠去かる手を捕まえる。ゆっくりと振り返った弟の表情は、昴治の予想に反
してどこか身構えたバツ悪げなものだった。もっと不貞腐れた、もしくは人を食ったような、
少なくともいつも通りの仏頂面を想像していたのに。

 捕らえた手を離すことなく、乱れた息をおして身を起した。引き止めた行為への反駁が返ら
ないことに力を得て、

 「・・・何すんだよ、いきなり・・」

 昴治は弟を咎めた。力任せの無体な行動を。

 ひどく濡れそぼった口元をもう片方の手で拭った時、自分に施されたあれこれが初めて現実
味をもって昴治に押し迫った。

 祐希がキスをした。あんなにも激しく、幾度も。舌をも絡め取られるほどに強く、この自分
---求めた。

 かあ、と火に焙られたかのように全身が熱くなった。暴れだした鼓動の高鳴りに、咎人を掴
んだままの手までが震え始める。

 合わせていた視線を弟から引き剥がし慌てて俯いたのは、首まで真っ赤に染まったろう顔を
少しでも隠したいからだった。

 「く、苦しくて・・・死ぬかと思ったんだぞっ」

 黙り込んだら最後何かに挫けてしまいそうで、必死に継いだ言葉はけれど情けないほど動揺
に揺らいでいた。

 「・・・兄貴・・」

 何時にない気弱な声が、頭の上から降ってきた。間を置かず祐希の長身が再び昴治の傍らに
屈み込む。自分を捕らえていた者の手を逆に握りしめて、伏せた視線を取り戻すべく祐希は兄
の細い顎に手をかけた。

 慎重な手付きで上向かされ、もう片手で優しく頬を撫でられて。

 「兄貴」ともう一度、今度は耳元で甘く呼ばれた時点で、昴治のなけなしの意地は脆くも崩
れていった。

 ただ、逢いたかったから。いま昴治に触れているこの温もりを---気が遠くなるほどに、待
ち望んでいた故に。

 「キス、した。したかったから。乱暴にしたのは・・・悪かった」

 久し振りの声音に陶然としていたせいで、祐希の言葉の所以を一瞬図りかねた。どうやら昴
治の第一声と二言目への、遅ればせながらの返答であるらしい。

 「し、したかったから・・・って、お前・・」

 間近に迫る端正な貌に気圧されて、昴治はベッドの上で益々身を竦ませた。今にもこちらを
押し倒しかねない勢いで躙り寄る弟からせめてもと身を引いた時、腰辺りに絡んでいたものが
ハラリ、とずれ落ちて昴治の膝に広がった。

 見るでもなく目で追った先には、先刻まで昴治が抱いて眠っていた、紛れもない祐希の寝巻
き替わりの置きシャツの存在。

 身体中の血管が沸騰するかと思うほどの羞恥と、決して知られてはいけない秘密を自ら暴い
たことへの後悔と。一時に襲いかかる数多の感情の嵐に巻かれるまま、昴治は目を瞑り尚も身
を固くして息をのんだ。叱咤を待つ子供のように。

 ふわり、と布地がはためく感触がした。つられて目を開いた時には、昴治は件のシャツに包
まれた恰好で祐希の両腕に柔らかく抱き込まれていた。

 「悪かった。おふくろの事も。だから・・・」

 昴治の髪に眦に口付けながら囁く声は、どこかたどたどしく低く掠れている。

 「だから」?---色々な意味で大事になってしまった「喧嘩」の決着をこんなふうに、ドサク
サ紛れにうやむやにしていいものか。昴治の中にそう憤慨を唱える自分が在たことも事実だった、
けれど。

 手前勝手な腕から逃れ、弟の言動の是非を質し、自分もまた心に掛けていた反省を告げて---
そんなふうに理性は強く命じるのだけれど。

 この十数日もの間、浅い転寝の中でさえ手を伸べ探した温もりを漸く取り戻した今の昴治に、
自分からそれを振り払うことなど出来よう筈もなかった。

 「・・・だから・・・なんだよ」

 せめてもの意趣返しを口にしながら、昴治は左右の手にシーツを握りしめた。間違っても心情
に任せ弟の背に縋りついたりしてしまわない為に。

 兄の痩せ我慢を知ってか知らずか、祐希は少しだけ抱擁を緩め昴治の膝先をまさぐった。先刻
昴治を気絶寸前に追い込んだ寝巻きの代替を引きずり上げ、物問いたげな視線を向ける。

 「っあ!いや---コレは、別にっ」

 手痛い反撃に面食らい件のシャツを奪い返そうと飛びついた。が、力では、まして反射神経で
昴治が弟に適う道理もない。

 「返せ」と焦れる兄をベッドに押さえつけつつ、祐希は容易に防衛を果たした戦利品をその足
元に放り投げた。

 「返せも何も俺のだ。後で着替える。だから---」

 寝巻きに着替えると言うからには、今夜祐希はこの部屋に眠るつもりなのだ。今更なことで
あるのに、瞬時昴治の背を得体の知れない怯えが走った。といって弟が兄の部屋に泊まること
を拒否する理由など、まさに今更有りはしない。

 組み敷いた昴治を見下ろす祐希の眼差しは、それでも勝者の驕りを些かも宿してはいなかっ
た。

 「・・・いいだろ・・」

 目覚め間際に出逢った見知らぬ「男」の表情で、昴治の紛れもない実の弟はその端正な貌を
寄せてくる。同じ場所に生まれ育った、血を分けた実の兄へと。

 「だから、何だ」とは、もう聞けなかった。

 「何が、いいんだ」とは、もはや聞くまでもなかった。

 昴治の真意はすでに、きっと祐希に知られてしまったのだ。祐希の本気を昴治がこうして知
ってしまったように。

 熱を帯びた指先が、抵抗することさえ忘れた昴治の両頬をつつむ。

 近付いてくる祐希の唇を見ていられなくて、堪らずに目を瞑った。

 いま---今度受けとめてしまったら、もう・・・戻れない。

 それでも。

 

 ・・・たすけて---。

 

 その時、確かに心の内に「声」がした。

 幻聴のように微かな、であるのにはっきりと胸に届いたそれは、昴治が妹のように大切に思
う「幼い」少女の硝子の声音だった。

 「・・・ネーヤ?」

 突然目を開けた兄が口にした場にそぐわない台詞に、当然祐希は鼻白んだ。が、それに頓着
する余裕さえなく、昴治は祐希の腕を頼りに慌てて身を起した。

  

 たすけて、コウジ・・・こわい---の。

 

 いつもの、稚いばかりの穏やかなネーヤのものではない、怖れと驚きと哀しみに溢れた「泣
き声」。

 「ネーヤっ!」

 姿ない悲鳴に向け、昴治は宙に呼び掛けた。幾度も。

 けれどそれに応えることなく、ネーヤの「気配」はそれきり昴治の前から---ふつり、と途
切れた。 

 

 



 to be continued・・・