地球圏アジア地域に「七夕」という節目の行事、或いは古い伝え
語りがある。
良く働く同士だった牛飼いの若者と機織りの姫が、天帝の計らい
で夫婦となった途端、幸せボケの故にか全くのぐうたらと成り果て、
結果その報いとして仲を引き裂かれてしまう、という何とも色々残
念な昔話だ。
相手を失ったふたりの余りの嘆きようを哀れに思った天帝は、せ
めても、と年に一度だけ彼らに束の間の逢瀬を許した。残酷なの
か寛容なのかの線引きが微妙に思えなくもない、その特別な一
夜を指して一般的に七夕と呼ぶ。少なくとも、昴治らの暮らしてい
た頃の日本という小さな島国では。
「昴治もちゃんと用意した?今日のこれ」
照れくさそうな、それでいて嬉しそうな笑顔で、手のひらにちょこ
んと乗せたものを見せながらイクミが言った。
これからリフト艦での夜勤に赴く彼に付き合って、早めの夕食を
とるべく落ち合ったカフェテリア。程良く賑わう店内の、その壁際の
席でのことである。
親友が指し示したのは薄水色の和紙の上に、日本人であれば
誰しも一度は目にしたことがあるだろうポピュラーな和菓子が1つ、
ラップに包まれた姿で鎮座したものだった。
「・・・・・・これ?」
指し示された側である昴治の発した第一声は、対するイクミのそ
れからすれば大層な温度差があったといっていいだろう。
「またそんな、つまんなそうな顔しなくっても」
母の日にと一所懸命に作ったカーネーションの造花を上の兄弟
に腐された幼稚園児のような顔をして、今や世界の著名人たる貴
公子は「英雄」の二つ名にあるまじき情けない声で訴えたものだ。
「そりゃあ昴治たちには、とっくに見飽きたお祭りだろうけど」
「はぁ?」
今度は同じだけの心外さを顕に昴治は声を上げた。「つまんなそ
うな顔」なんかしていない。怪訝に思っただけだ。ましてやイクミが
示したヒントから導ける、どんな祭りに自分が馴染んでいるというの
か。
と、そこで漸く思い当たった。否、今日という日を暦に当てた、た
だの連想でしかなかったが。ここまで悉くズレまくっている「もの」を
「それ」と判じることの、我ながら何という無謀さよ。いやいや、何を
また大袈裟な、と一人ボケつっこみを展開していたほんの僅かの
間に、
「あ、れ?・・・ええと
----」
天才と覚えめでたき親友もまた何をか悟ったらしかった。情けな
く下げた眉を今度は困惑に顰めながら、ばつ悪げに頭を掻く。
「聞いた通りにした、つもりなんだけど・・・もしかして俺、何か
---
激しく間違ってた・・・?」
今日はとある国の恋人たちの祭典。願いを記した菓子に甘い想
いを込め、愛する相手に捧げる為の日である、と。
「あぁ・・・」
やっぱり。昴治は肯定とも溜息ともつかない声を思わず漏らした。
「残念だけど。その「七夕」の情報源が何か知らないけどさ」
「うん」と神妙に肯きながら、己の間違いを知るべくテーブルに身
を乗り出す勤勉な親友に、昴治は彼の行動の1つ1つを検証してい
った。
まず、見せてくれた和菓子は、少なくとも日本では端午の節句で
食されるものであること。
それを乗せた和紙は
---一応長方形をしていて、「お願い」が書
かれてはあった---菓子に添えるのではなく、笹の枝先にぶら下
げるものであること。
そして極めつけは、
「「お願い」するのは「直接その相手」じゃない。「天のお星さま」
にだ」
星に願いを
----人類が母星たる地球の上でだけ生きていた時
代には、きっとこれも洒落た言い回しだったのだろうけれど。
検証の結果の1つ1つに神妙に肯いていたイクミが、その止めを
聞いて流石に「えぇ」と声を上げた。
然も有らんや。
こんな星の海の真っ只中に暮らす日常で、今更一体どのお星さ
まに手を合わせればいいのやら。
件の星祭を知る昴治にも気の利いた答えなど、どうにも返しては
やれそうにない。
が、おかげでイクミに問われた本来の「笹に掛けるお願い」に言
及せずに済んだことに、昴治が密かに胸を撫で下ろしていたなんて
勿論内緒の話だ。
下らない。
今日一日で何度心中に吐き捨てたか知れない台詞をまたも独
りごちたのは、自室に帰る道すがらのリラックススペースの一つで
「七夕もどき」なことをしている男女二人連れに出くわしてしまった
からだった。
にやけ顔で互いに手にしたそれを交換する様が見たくもないの
に視界に入って、祐希は辟易とした気分も顕に舌を打った。
何処の誰がばらまいたデマかなどはどうでもいい。祐希にとって
は元々意味も必要もない風習だ。けれど、
(何でまた柏餅なんだよ。大体
---っ!)
たとえラップに包んでいようとも、れっきとした生菓子であるそれ
を幾人もで寄ってたかって、しかも一方的に押しつけるのは如何が
なものか。ましてやリフト艦のハッチ前に、お供えよろしく置き去り
にするなど常識以前、全くもって言語道断な行いに違いあるまい。
そんなこととは知らないラリーやマルコが、ハッチを一歩出た途
端に踏みつけてしまったのは至極当然のこと。彼らに何の咎もあり
はしない。
それどころか、足裏に感じた未知の感触に驚き滑って転んで足
を挫くは、無惨につぶれた餅や餡は通路にこびりつくはで、ハッチ
前は一時騒然としたものだ。
ほどなく現状を把握した後も、手当てだ掃除だ、と騒がしいことこ
の上なかった。
件の菓子はその殆どが祐希宛てだったが、残りの宛て主である
イクミが
---「どうせキミは「俺は関係ない」って言うんでしょ。なら
大人しくお留守番しててね」---後始末に奔走していた。
無論祐希にも何の関係も責任もないと自負している。それでもカ
レンにいいだけ揶揄われ、足や手やあちこちに湿布を貼り付けた
間抜けたちにぶつぶつと一日中愚痴られて、祐希の機嫌が良かっ
たはずもない。
次第に険悪になる面子に、とうとう降参とばかりイクミが切り出し
た早退指示により、祐希は何やら負け犬な気分で帰路についたの
だった。
部屋に戻ると、同居人である兄が珍しくも早く帰って来ていた。
お帰り、と掛けられた声を持ち帰った不機嫌さゆえに捨て置いた
が、弟の無礼な態度に慣れ切った昴治はただ肩を竦めただけで、
作業中だったらしい端末にさっさと意識を戻してしまった。
そんな兄の余裕や自分の狭量さが悔しくて、祐希はせめて今か
らでもそれを飲み下そうと、コーヒーを入れるべく簡易キッチンに足
を向け
---気付いた。一面だけのIHヒーターの脇に一つきり、忌忌
しい「七夕もどきなお供え」が置かれていることに。
肩越しにちら、と兄の後ろ姿を窺った。いいや、違う。昴治が用意
したものとは思えない。総括課という役目の故に始終お祭り騒ぎに
関わりはするが、本来兄は祐希以上にそういった行事に無頓着な
性質であったから。
であれば、このふざけた「お供え」の出所は二つに一つだ。先ず
は昴治に興味を持っている女生徒の誰か。そしてより可能性の高
いもう一方は、
「小腹が減ってるんなら、それ食ってもいいぞ」
件の菓子を凝視しつつ、あれこれと思い患っている最中に急に
話し掛けられて、つい上げそうになった声を寸でのところで抑え込
んだ。
何時の間に近付いて来ていたのか、すぐ傍に立った昴治は、ど
ぎまぎとした様子で自分を見下ろす弟に怪訝そうな視線を向けて
いた。
「何だよ」
「・・・別に」
「食わないのか」
「要るなんて、言ってねえよ」
それに、とつい突っかかりそうになる短慮をまたも押し止める。
代わりに心中にだけ零した。あんたが誰からであれ、どんな意味
であれ受け入れた「想い」に関わるものになど、金輪際、たとえ空
腹で気を失ったって触れたりなんかしない。
祐希の密かな抵抗に気付いたものかどうか、昴治は剣呑な顔で
深々と溜息をついた。
「やっぱりお前も幾つももらったんだな。だからもう食い飽きてる
んだろ」
聞き捨てならない。これには流石に眉根が寄った。
「俺は1つも受け取ってねえよ。そう言うあんたこそ」
やっぱりお前も、とはつまりそういうことだろう。咎める台詞を祐
希が勢い吐き出すより早く、
「ホントに、か?」
少々疑わしげに、けれど安堵の透けて見える顔で兄は言い募る。
「イクミが、和泉以外の子の断るのが大変だったって。なら、きっ
とお前もそうかと思っ・・・」
独特な韻をもつ、祐希にして大層心地良い声が、急に途切れて
昴治の口の中に消えていった。そそくさとデスクの方へ戻りながら、
「まあ、別に受け取るくらいいいけどさ」などと、全く良くは思ってい
ないのが丸分かりなことをぼそぼそと零したものだ。
「・・・ばか兄貴」
祐希の胸の奥をじんとした甘い疼きが満たしていく。つい今さっき
までの腹立ちも詮無い嫉妬も、軽く外宇宙の彼方まで蹴り飛ばす
勢いをもって。
ばかって言うな、と決まり文句を寄越す兄を追いかけて、首まで
真っ赤になった横顔に手を伸ばした。そのまま華奢な身体を背中
から抱き締めて、
「あんたは誰からも受け取ってねえんだろうな?俺は「別にいい」
なんて、絶対に言わないぞ」
耳朶に口付けながら言った。腕の中で、たったそれだけの行為
に感じ入ったような反応が返り、それが嬉しくて知らず頬が緩んだ。
昴治は是非を口にはしなかった。ただ悔しげに、怒った振りで祐
希を睨め上げた。照れ隠しなことは聞くまでもなかったから、意地
を張って引き結ばれた唇を自分のそれで解くことに専念した。
1つも口にしてはいないけれど、リフト艦のゲート前で無残な姿に
なった件の菓子などよりも、祐希にして飛び切り極上な甘味を堪能
するために。
「で、あの柏餅はなんなんだよ。買って来たのか?こんな時分に、
1コだけ?」
ベッドの上、行為のあとの気怠さに微睡む兄を腕に抱え込んだま
ま問うた。理由や経緯が何であれ、昴治が入手したものなら食べ
るのもいい、とふと思った故だった。が、
「
---もらった・・」
言葉の覚束ない幼い子供の語韻で返った応えに
--「何だとっ?」
---思わず声が裏返った。
「だって、あんたさっき・・・!」
「もらってないなんて、いってない」
-----確かに。これは祐希も認めざるを得ない。けれど。
「イクミから、和泉に用意した残りをお裾分けだって。お前のとで
2つ貰って、俺の分はもう先に食べた。お前があんなに早く帰って
くるなんて思わなかったから」
確かに。祐希は今日、あんな事態にさえならなければ夜勤のシ
フトだった。
加えて兄が「お供え」をもらう可能性として考えた2つのうちの1
つは、まさにその名前ではあった。その通りだったのだ、けれど。
何かこう、面白くない気がするのは何故なのか。
いや違う。「面白くない」のではない。どちらかといえば、物足りな
い
---だろうか。勿論件の「お供え」を貰いたかったわけでも、捧げ
たかったわけでもない。
ただ
---。
「俺は、やらないぞ」
埒もないことをまたもぐるぐると考えながら、昴治の柔らかい髮を
無意識に弄っていた祐希の手の下から、未だ眠っていなかったら
しい兄が徐に言った。
「ワケの分からない柏餅も、皿代わりの短冊も」
すり、と子猫のように祐希の胸に顔を寄せて、弟のもう一方の、
シーツの上に置かれた手をそっと握った。
「今更、星に願う必要なんてないから。だってもう叶ったし、手に
入れた」
全部、と溜息のように昴治は呟いた。虚を衝かれ絶句する弟の
様子も知らぬげに、 今度こそ易々とひとり眠りに落ちてしまった。
ほんの今祐希が陥っていた物足りない感をあっという間に払拭
した上、
「・・・言い逃げかよ。ったく・・この、ばか兄貴・・・」
また新たに、心地良く甘い敗北感へと恋人を落し込んだことも知
らぬげに。
end。
一月遅れの「七夕」話です。いっそ祐希BD話にするべきだったか?
でもっそれはそれで、やっぱり別に祝いたいですよねv(*^_^*)v
願いごとは ひとつきり