Voice


ヴォイス

 

 

■昔々、ある海辺に、緑豊かな国がありました。

国を治める女王には、世継ぎの王子がおりました。

ある日、王子の乗った船が嵐の海で難破してしまい、海に投げ出された王子を

一人の人魚が助けました。人魚の一族の姫君でした。

互いに惹かれあった王子と人魚姫は、様々な苦難を乗り越えて結ばれることができました。

可愛い二人の子供にも恵まれて、王子の城で彼らは幸せに暮らしていました。

 

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

王子が、船の事故で帰らぬ人となってしまったからです。

人魚姫は大そう悲しみましたが、それ以上に失望と怒りをあらわにしたのが

王子の母親でその国の女王様でした。

 

人魚の一族などを妻にしたからこんなことになったのだと。

人魚のくせにどうして王子を助けられなかったのだと。

 

女王はやり場のない悲しみと怒りを姫にぶつけ、とうとう彼女と子供を海へ追い返してしまいました。

子供の一人と人魚姫を、宮廷魔術師に命じて人魚の姿に戻し、

王子に良く似たもう一人の子供は世継ぎとして手元に残しました。

魔術師は、城に残された子供と城の人間の記憶から、姫ともう一人の子供のことを消しました。

居場所をなくした人魚姫は、片方の子供だけを連れて泣く泣く海へ戻るしかありませんでした。

けれど、愛する王子と死に別れ、大事な子供も奪われてしまった姫は

海の底で嘆き続けて、悲しみのあまり死んでしまいました。

 

それから、十年という歳月が流れたのです―――

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■優美な曲線を描く白い船が、波の上を滑るように進んでいた。

湾内から外海へ近付くにつれて、波が少しずつ高くなっていく。

出港直後からずっと舳先に立って海を眺めている王子に、御付きの従者が恐る恐る声をかけた。

「殿下……外海は危のうございます。船を戻しても宜しゅうございますか?」

「駄目だ」

即答したきり振り向きもしない王子に、従者はおろおろと続けた。

「ですが、このような時期にあまり城を空けられない方が……

 海には近付かないようにと陛下も仰られて――

―――それは、「誰」の命令だ?」

冷たく冴えた声が従者の言葉を遮った。怜悧な眼差しが肩越しに従者へと据えられる。

その視線の鋭さに、従者は小さく息を呑んで身体を強張らせた。

王子の機嫌を損ねたのは明白だが、とっさに取り繕う言葉が出てこない。

元々、機嫌の良いことの方が少なく、近寄り難い王子だ。

まして、先代の女王が亡くなった今となっては、王子が唯一絶対の君主なのだ。

彼に逆らうことなどできる筈もなかった。

「……差し出口を申しました。お許し下さい」

深々と頭を下げた従者は逃げるようにその場から立ち去った。

それには何の興味も示さず、王子は再び海に目を向けた。

深い蒼の瞳に同じ色の海が映る。

潮の匂いを含んだ風が、後ろで無造作に束ねられた王子の黒髪をさらりと揺らした。

 

 

 

先代の王であり、王子の祖母でもある女王が病で息を引き取ったのは二日前のことだ。

そして王子は、三日後に控えた葬儀やら他国への触れやらで慌しい城を密かに抜け出して

海に船を出した。重臣達に囲まれ、あれこれ指図されるのが煩わしかったからだ。

16歳という若年とはいえ、数年前から、老いた女王に代わって国政を取り仕切っている。

今更、老臣達に指示を請う必要はなかった。

正式に王となるのは二ヵ月後の即位式を終えてからだが、

実質的には既に「王」といって差し支えないのだ。

したり顔で愚にもつかない忠告を押し付けられるのにはうんざりしていた。

 

女王の死についても特に感慨はない。

幼い頃に両親を亡くした王子にとっては唯一の肉親だが、彼女との間には

温かな交流などついぞなかった。

世継ぎとしての義務と責任ばかりを押し付けられ、王子らしく振舞うことを強要された。

必要以上に女王が王子と関わり合うことはなく、そんな祖母に王子も近付こうとは思わなかった。

死んでせいせいしたとまでは言わないが、どうでもいいというのが本当のところだ。

 

―――そう。どうでもいいのだ。女王が死んだことも、王位を継ぐことも。

 

興味はないが、それ以外にすることがない。

望むことも欲しいものもなく、ただ、自分を取り巻く何もかもが、時折無性に煩わしかった。

――――

渇いた瞳で、王子は無表情に海面を見下ろした。

船に乗ったのは生まれて初めてだった。

王子の両親は船が難破して死んだ。だから王子は、海に近付くことすら禁じられていたのだ。

だが、初めて間近で見る海を恐ろしいとは思わなかった。

むしろ、奇妙な懐かしささえ感じる。

しかし、王子が無意識に海に向かって手を伸ばした時、いきなり船が大きく揺れた。

同時に、冷たい雫が王子の額で弾ける。

見上げた空を、灰色の雲が覆い尽くそうとしていた。

 

 

 

 

 

不意の嵐はあっという間に王子の船を呑み込んだ。

船乗り達は慌てて港へ戻ろうとしたが、激しい雨風に邪魔されて方角を見失ってしまった。

王族専用の豪華な船も、荒れ狂う波の合間ではちっぽけな人工物にすぎない。

メインマストが嫌な音をたてて軋み、危険を感じた船乗りは、

王子と従者達を救難用の小船に移そうとした。

だがその時、不意に激しい横波が船に襲いかかった。

「うわぁっ!」

濡れた甲板に足をとられた人々が、手近なものに夢中でしがみつく。

しかし、王子の周りには運悪く何も掴める物がなかった。

「…殿下!」

従者の一人が、ロープにしがみつきながら蒼白な声で叫ぶ。

彼の目の前で、王子の身体は船上から海へと投げ出されていった。

 

 

 

                                                           

 

 

 

水中に引き込まれていく自分を、王子はどこか他人事のように感じていた。

あれほど激しかった風の音が今は聞こえない。

穏やかな静寂と水の流れが身体中を包んでいた。

息は苦しかったが、何故か恐怖心はなかった。

生きることに執着がないからかもしれない。

肺に残っている空気が減るのに比例して、ゆっくりと気が遠くなっていった。

だが、霞む意識の中で、柔らかい何かが唇に押し当てられるのを感じた。

重なったそこから、空気が送り込まれてくる。

王子は、そのまま身体が上に引かれていくのに気付いた。

 

「…っ……!」

不意に顔が水面に出て、息を詰まらせた王子は激しく咳き込んだ。

変わらずに荒れ狂う雨と風の音が再び耳を叩く。

その音の合間から、王子を呼ぶ切羽詰った声が響いた。

 

――ユウキ! ユウキ、大丈夫か!?」

声と同時に誰かの手が王子の背中をさする。

その誰かが、どうやら王子の身体を支えてくれているらしかった。

ゼイゼイと息を切らしながら、王子は薄く眼を開いた。

だが、視界は暗く霞んでその誰かを確かめることはできなかった。

弱々しく身じろいだ王子に、同じ声が懸命に語りかけてくる。

「ユウキ…しっかりして! 大丈夫、すぐに岸まで連れていくから――!」

背中をさすっていた手が王子の肩にまわる。

繰り返し名前を呼ぶ声に、王子の身体から僅かに力が抜けた。

聞き覚えはない。だが、優しい声だと思った。

自分を心底から案じてくれている、愛情深い声。

知らず伸ばした手のひらを、その人の手が強く握り締めた。

大丈夫だからと安心させるように。

王子の意識はそこでプツリと途切れた。

 

 

 

 

 

気が付くと、王子は海辺の砂浜に横たわっていた。

嵐は過ぎ去ったらしく、波はすっかりおさまっている。

王子の周りには、壊れた船の一部や積んであった荷物等も流れ着いていた。

(あれは――夢だったのか…?)

海を眺めながら、自分を呼んだ声と手を握った細い指の感触を思い返す。

過ぎてしまえば、それは幻のようにあやふやな記憶だった。

船から投げ出されはしたものの、運良く浜に流れ着いた――だけなのだろうか。

けれど、自分の名前を呼んだあの声を王子は知っているような気がした。

 

いつか……どこかで聞いたことがある。

 

荒れ狂ったのが嘘のように静かな海を見つめて、従者達が捜しに来るまで

王子はずっとそこに立ち尽くしていた。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■海の底は常に穏やかな静謐さに満ちていた。

地上と同じように自然があり、そこに住まう生き物はいるが、

地上とは違ってその静けさが乱されることはない。

海の住人達は無駄な争いを好まないからだ。

奪うことも奪われることもない、少し退屈でけれど平穏な日々が

海にいる限りは約束されていた。

 

―――でも……)

一度俯いたコウジは、再び顔を上げて洞窟の入り口を見つめた。

人魚の一族が住まう海域からは大分離れたその岩場には、

コウジの友人の魔法使いが一人で暮らしていた。

温和な性質の人魚の中では珍しく人嫌いな彼の元を

進んで訪れるのはコウジぐらいのものだ。

だが、一週間前、コウジは初めて「客」として彼のところへ行った。

コウジの話を聞いた彼は、一週間考えて気が変わらなかったらもう一度来いと言った。

ついで、できることなら考え直せ、とも。

真剣に自分を案じてくれる眼差しに負けて、その日は大人しく引き下がった。

けれど、一週間経っても決心は変わらず、コウジは再び彼の元を訪れたのだった。

 

 

 

 

 

「ブルー…俺、やっぱり行きたいんだ」

「………」

コウジの言葉に、青い髪の友人は小さく息をついた。

……多分、そう言うだろうとは思っていた。

コウジは穏やかで、人の意見にもきちんと耳を傾けるが、一度決めたことは曲げないからだ。

そんな意志の強さはブルーにとって好ましいものだったが、

今回ばかりは安易に賛同できなかった。

「……そんなに弟が心配か?」

「…うん」

「……向こうは、お前のことは忘れているんだろう?」

「…そうだけど、でも、あいつが俺の弟だってことにかわりはないよ」

そう言って、コウジはそっと目をふせた。

十年ぶりに見た弟の姿が脳裏によみがえる。

たった一人で城に残されてしまった弟のことが気になって、しょっちゅう城の近くまで行っていたけれど、

これまでユウキの姿を見ることはできなかった。

恐らく、海に近付くことを禁じられていたのだろう。

それでも、王族の船を見つけたコウジは一縷の望みをかけて近付き、

そこでようやく念願の弟の姿を見ることができた。

女の子のようだった幼い頃の面影は殆どなかったけれど、あの蒼い双眸は見間違いようもなかった。

姿形は父親似だが、瞳は一族の徴をしっかりと受け継いでいる。

だが、十年ぶりに再会した弟は、あまり幸せそうには見えなかった。

自分と一緒にいた頃は、あんな風に渇いた瞳はしていなかった筈だ。

わがままで甘ったれですぐ泣いて―――それでも、弾けるような笑顔を浮かべていた。

 

離れて育った間に、弟に何があったのだろう。

辛い思いをしているんじゃないか―――

 

そう思うといてもたってもいられず、嵐の海に投げ出された弟を助けてから五日間、

コウジはずっとあることを考えていた。

そして、魔法使いの友人を訪れて言った。

俺を人間の姿に変えてほしい、と。

 

 

 

決心は変わらなさそうなコウジを眺めて、ブルーはもう一度溜息をついた。

ついで、一週間前にもした説明を無駄と知りつつ口にする。

「……お前は、本来なら人の姿をしていた。それを術者によって人魚に戻された――

 変えられた状態だ。魔術はかけた本人にしかとけない。

 だから、お前を人の姿に変えるには上から術をかけ直すことになる。

 ……二重にかけられた術は身体にひどく負担を強いる。

 声は出なくなるし、不安定な脚は歩く度に耐え難い痛みをお前にもたらすだろう。

 ――それでも行くのか?」

「行くよ。…俺が行っても何もできないかもしれないけど。

 あいつをこのまま放っておきたくないんだ」

迷いのない声で断言したコウジは、じっとブルーを見つめた。

「………」

再び息をついたブルーは、仕方がなさそうに棚に置いた薬壜へと手を伸ばした。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■「……っ!」

一歩踏み出した途端、刃で切り裂かれるような痛みが足の裏に走った。

思わずあがりかけた悲鳴を堪えて、コウジは波打ち際に蹲った。

固く目をつぶって痛みをやりすごす。

だが、抑えきれずに零れたうめき声が音になることはなかった。

 

(そうか…声が出なくなるっていってたっけ……)

だったら悲鳴を堪える必要はなかったかなと、コウジは薄く苦笑をうかべた。

しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。

そろそろと立ち上がったコウジは慎重に足を踏み出した。

白い素足が頼りなく砂地を踏んで足跡を残していく。

だが、十歩といかない内にコウジは再び倒れ込んでしまった。

痛みのせいもあるが、久々の脚の感触に勝手が取り戻せていないのだ。

 

昔はどうやって歩いていただろう?

いや、そんなことより、どうやってユウキに近付いたらいいだろうか。

城に自分のことを覚えている人間はいない筈だ――祖母である女王を除いて。

しかし、女王は自分の訪れを快く思わないに違いない。

 

(…なんとかして城に入り込む方法を考えないと……)

ブルーが聞けば、「それぐらい考えてから行け」と言われそうなことを思っていたその時、

不意によく通る声がコウジに向かってかけられた。

 

 

 

 

 

嵐の海に投げ出され、奇跡的に助かった時以来、

ユウキは暇があると浜辺に下りるようになった。

何かに駆り立てられるように、気が付くと足が海へと向かっている。

そしてある朝、あてもなく砂浜を歩いていたユウキは見慣れない少年を見つけた。

白い布を身体に巻いただけの無防備な格好で水際に蹲っている。

――漂流者か?)

正直面倒くさいと思いながらも、一応声をかける。

―――おい」

呼びかけると、少年は弾かれたように顔を上げた。

ユウキと同年代ぐらいの少年だった。

小造りの白い顔は特に整っているという程ではないが、優しげで柔らかな印象を抱かせた。

深い蒼の双眸が驚いたように見上げてくる。

だが、次の瞬間、少年はぱっと花が開くように笑った。

ひどく嬉しそうな笑顔に、ユウキの鼓動が大きく脈うった。

(っ………何だ?)

不可思議な自分の反応に、心の中で首をひねる。

そんなユウキに、少年は何かを語りかけたが、口が開くだけで音は聞こえてこなかった。

「……あんた、喋れないのか?」

内心の動揺を微塵も表に出さず、ぶっきらぼうに問いかける。

喉に手をあてた少年はユウキを見つめ、やがてコクリと頷いた。

茶色の髪が流れて、細いうなじがあらわになる。

なんとなく落ち着かない気分を味わいながら、ユウキは少年を眺めた。

胸の片隅を何かがひっかいているような気がする。

戸惑いともどかしさ―――そして奇妙な既視感。

だが、それが何に起因するのかはわからなかった。

 

「船が難破したのか?」

「………」

問いかけると、少年は曖昧な表情をうかべた。

「……行くとこはないのか?」

続けて尋ねれば、躊躇いがちに頷く。

そのまま俯いてしまった少年の身体を、不意に滑らかな感触の布が覆った。

ユウキが、まとっていたローブを外して着せかけたのだ。

「……?」

目をみはった少年に、ユウキは素っ気なく言い捨てた。

「……そんな格好じゃどこにも行けねぇだろ。――来いよ」

顎をしゃくって城を示すユウキの言葉を理解して、少年は再び笑顔になった。

そうして、歩き出すユウキに続こうと急いで立ち上がる。

だがその瞬間、辛そうに顔をしかめたのをユウキは見逃さなかった。

少年の動きを観察して眉をひそめる。

「…脚、怪我してんのか?」

「………」

問いかけると、少年は慌てたように首を横に振った。

しかし、彼がいくら否定しても、動きがぎこちないのは明らかだった。

――――

一瞬、考え込むように口を閉ざしたユウキは、不意に腕を伸ばすと

少年の身体を両腕に抱え上げた。

見た感じも細身だったが、抱き上げてみるとその身体は思った以上に軽い。

「……!?」

驚いて目を見開いた少年に、ユウキは素っ気なく言い放った。

「…あんたに付き合ってのろのろ歩いてたら日が暮れるだろ」

「………」

抱き上げられた少年は居心地悪そうに身じろいだが、ユウキに離す気がないことを悟ったらしい。

諦めたように力を抜いて、大人しくユウキの腕に身を委ねた。

そのまま運ばれていきながら、少年の指が、躊躇いがちにユウキの手に触れた。

重くないのかと気遣うように、重なった指先をゆるく握り締める。

その指の感触を、ユウキは知っているような気がした。

 

 

 

                                                           

 

 

 

あの他人に興味のない王子が、行き倒れていた旅人を助けて連れてきたというので、

城は大げさに言えば上へ下への大騒ぎになった。

しかし、そんな騒ぎに構わずさっさと私室に引き上げたユウキは、コウジを長椅子に寝かせると

従者に医師を連れてくるように命じた。

が、既に噂を聞きつけていたのか、従者が出て行ってすぐにその「医師」は姿を現した。

ノックと同時に、返事も待たずに扉が開かれる。

「聞きましたよー。人助けしてきたんですって? しかも、即行お部屋に連れ込むとゆー執着ぶり。

 さてはよっぽど美人を拾ったのかしらー…なーんて言ったのは勿論ワタクシではないですよ、殿下」

「……うるせぇ」

やってくるなり明るい声でまくしたてる相手にもその内容にもうんざりした顔を隠さず、

ユウキは相手を睨みつけた。

しかし、その程度で怯む神経ならそもそも王子に対してこんな態度をとる筈がない。

「なんですかーその嫌そうなお顔は。 せっかく僕が、「人嫌い」な殿下が「わざわざ」連れてきたお方を

 心をこめて診てさしあげようと呼ばれる前に駆けつけてきたというのに!」

「…だったらさっさと診ろよ、オゼ」

益々顔をしかめたユウキの言葉に、オゼと呼ばれたその医師はにっこりと笑った。

灰色がかった黒髪に明るい緑の瞳をした、人懐っこそうな少年だ。

年の頃は、ユウキと同じか少し上といったところだろう。

目を丸くして二人のやりとりを見守っていたコウジにも、少年は明るい笑顔を向けた。

「…という訳で、ご診察に伺いましたー。オゼ・イクミです。初めましてよろしくこんにちは。

 さて、君はどこが痛むのかな? それとも具合が良くないですか?」

「………」

――脚だ。外傷はないが、かなり痛めてるらしい」

困ったようにユウキに目を向けたコウジに代わって、ユウキが口を開く。

ぶっきらぼうな口調に潜む心配そうな響きに気付いて、

イクミと名乗った少年が面白そうにユウキを見やった。

だが、すぐにコウジに視線を戻した彼は、安心させるように笑みをうかべた。

「心配ないですよー。僕は有能ですからねん。

 ――では、殿下。彼を診察している間に、何か着替えと食べる物を持ってきてもらえますか?」

「何で俺が――

「御付きの従者は俺を捜しにお使いに出しちゃってるでしょー? でも、いつまでもこんな格好じゃ

 風邪をひくかもしれないし、そうなる前に何か食べて体力を回復させた方がいいだろうし。

 大体、俺が診察してる間は暇でしょう? だったらそれぐらいしたっていいじゃないですか。

 自分が連れてきたんだから、それぐらいの世話はして当然です」

流れるようにまくしたてられる言葉に、ユウキは短く舌打ちした。

昔から、イクミに口で勝てたことなど一度もない。

「……ったよ」

不承不承出て行きかけて、ユウキは一つ言い忘れたことに気付いた。

「おい、そいつは声が――

「わかってます。それもあわせて面倒みますからご心配なく。

 ですから早く、着替えと食べ物お願いします」

有無を言わさぬ言葉に追われるように、ユウキは部屋を出て行った。

 

「さて――

言いながら振り向いたイクミは、心配そうなコウジの表情に気付いて小さく微笑んだ。

「王子に対して態度がでかすぎるんで驚いたかな? でもねぇ、一人ぐらいは

 そーいう人間がいてもいいと思うんだ。跪かれるばっかりじゃなくてさ。

 子供の内は、叱ってくれる人間が必要なんだよ」

軽く片目をつぶって、イクミは肩をすくめてみせた。

「もっとも、普段は俺の言うことなんかてんで聞きゃしないですけどねー。

 …で、脚が痛いんだって? 見せてくれる?」

そう言って長椅子の傍らに膝をついたイクミは、不意に笑みを消して静かにコウジを見つめた。

―――無茶をしたね。二重に術をかけるなんて。

 ……こんなにまでしてユウキに逢いたかったの? 海の人」

「っ!!」

大きく目をみはったコウジに、イクミは淡々と言葉をつむいだ。

「何でわかったのか不思議? 俺はね、「宮廷魔術師」兼「医師」なんだ。 

 代々王家に仕えてる「オゼ」の末裔で――ユウキや城の人達から君達の記憶を消した

 先代の魔術師は俺の父だよ。話は全部、父から聞かされてる」

―――っ」

弾かれたように、コウジは長椅子から身を起こした。

しかし、飛び降りようとした動きを、素早く伸ばされたイクミの腕に遮られてしまう。

肩をつかまれ、コウジの身体が目に見えて震えた。

だがイクミは、無理にコウジを押さえつけようとはしなかった。

強張った肩を宥めるようにたたいて苦笑をうかべる。

「大丈夫、何もしないから。君に酷いことをした親父も、それを命じた女王ももういないから……

 怯えないで」

「………」

怖々と向けられる蒼い瞳に、イクミはしっかりと頷いてみせた。

「親父は何年も前に……女王は、半月程前に亡くなったよ。

 ……それでも術がとけないのは―――

言いかけて目をふせたイクミは、唐突に話題を切り替えた。

「…まぁ、それはともかく。最初の話に戻るけど、ユウキに逢いにきたんだろう?

 どれぐらいここに居られるの?」

何気ない問いかけに、コウジはブルーに言われた言葉を思い出した。

 

人間の姿でいるのは一ヶ月が限度だと彼は言った。

それ以上は身体に負担がかかりすぎると。

もしそれを過ぎても海に戻らないと術がとけなくなり、命の保障はできないと。

 

「………」

「しばらく居られるの?」

黙り込んでしまったコウジに再び尋ねる。

そして、微妙な表情をうかべながらも頷いたコウジに、イクミは明るく話しかけた。

「そっか。じゃあ、脚が痛いままだと不自由だよね。

 声は無理だけど、そっちだけでも何とかしてみよう」

そう言ってイクミは、視線で了解をとりつつそっとコウジの脚に触れた。

片方の足を両手で包み込むように軽く持ち上げる。

真顔になったイクミの瞳がふっと色を濃くした。

口の中で何かを呟きながら顔を傾けたイクミの唇が、コウジの爪先にふわりとおちる。

「…っ」

驚きと羞恥に顔を赤くしたコウジは反射的に足を引きかけたが、

イクミの唇が触れた所が不意に痺れて動きを止めた。

熱い痺れが膝辺りまで走ってパッと弾ける。

驚いてイクミを見ると、イクミはにこにこと笑って口を開いた。

「これで大丈夫だと思うけど――こっちの足だけ床に下ろしてみて?」

「………」

言われた通り、片足を床に下ろして体重をかけてみる。

驚いたことに、あれほどコウジを苛んでいた痛みは綺麗さっぱり消え失せていた。

「ね? んじゃ、もう片方の脚も見せてね」

長椅子に投げ出されていたもう一方の足も、イクミの手が同じように包み込む。

そして、ちょうど唇をおとしたその時、着替えを手にしたユウキが部屋に戻ってきた。

「………何やってんだ、オゼ」

一瞬、息を呑んで立ち止まったユウキが不機嫌そうに口を開く。

そんなことは全く気にせず、コウジの足をそっと下ろしたイクミは、面白そうにユウキを振り返った。

「何って治療。「医師」じゃなくて「魔術師」の管轄だったから、そーいう対応をしただけです。

 殿下こそ、何でそんなに怒ってるんです?」

「っ……怒ってなんか――

「眉間にそんなでっかいしわ刻んどいてー? ま、別にいいですけどねぇ」

何やら含みまくりなイクミの表情と彼を睨み据えるユウキをおろおろと見比べて

コウジは立ち上がった。

一歩踏み出したところで足を止め、躊躇いがちにユウキを窺う。

不安そうに見つめてくる視線にユウキは目をみはり、やがて小さく息をついて肩の力を抜いた。

「……別に怒ってねぇよ。――ほら」

立ち竦む相手との距離を自ら縮めて手にした着替えを差し出す。

そんなユウキの姿を、イクミは興味深げに眺めていた。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■コウジが城に滞在するようになって半月が過ぎた。

初めは客として遇されていたのだが、他ならぬコウジがそれに異を唱えた。

世話になりっ放しじゃ気が引けるというのだ。

そんなコウジに、イクミは、だったらユウキの世話係をしてはどうかと提案した。

世継ぎの王子ともなれば、普通数人から十数人の従者が侍っているものだが、

ユウキは人見知りの上に好き嫌いが激しくて、誰も長続きしないのだ。

ほんの十日前に部屋付きになった従者も結局クビにしてしまったからちょうどいいと

イクミは言ったが、恐らく、コウジがより多くユウキと接することができる仕事をと

気遣ってくれたのだろう。

コウジはありがたくその心遣いを受け入れ、ユウキも特に反論はしなかった。

こうしてコウジは、世話係としてユウキの側近く仕えることとなったのだった。

 

 

 

 

 

城の厨房でお茶と茶菓子の仕度を整えたコウジは、傍らに目を向けた。

長い髪を後ろで束ねた綺麗な女性が、ワゴンの上に布を被せている。

目線で問いかけるコウジに、まだ若いその女官は柔らかい口調で応えた。

「殿下は執務室にいらっしゃるわ。…場所はわかる?」

コクリと頷いて、コウジは厨房を後にした。

幾方向にも伸びる回廊から、迷わず目的地への道を選ぶ。

「…もうすっかり城に馴染んだみたいね」

「俺なんて、城内の道覚えんのだけで二ヶ月以上かかったけどな」

「殿下も珍しく気に入っていらっしゃるようだし…頑張って続けてくれるといいわね」

厨房にいた女官や侍従達は、コウジを見送りながら感心したように頷きあっていた。

 

 

 

執務室では、ユウキが細々とした書類仕事を片付けていた。

それをイクミが補佐している。

他にも重臣は何人もいるが、実質、国政を仕切っているのはこの二人だった。

城に上がるようになってすぐ、イクミは優秀さを認められ、王子の側近として仕えるようになった。

ユウキも、妙に馴れ馴れしいイクミは苦手だったが、無能な奴らに囲まれるよりはマシだと

しぶしぶそれを受け入れていた。

もっとも、仲が良いのかと問われると微妙なところだ。

ユウキが何を失ったかを知っているイクミには、罪悪感と、責任感にも似た思いがある。

肉親の温もりを無理やり奪われたユウキを少しでも支えてやりたいと思う気持ちに偽りはない。

たとえそれが偽善と呼ばれるものだったとしても。

しかしユウキは、決して自らの内に他人を入れようとしなかった。

代わりなどいらないと、そう言われているようで。

家族のように支えるのは諦めたイクミは、自分なりのやり方でユウキと接することに決めた。

それからもう、五年近い月日が流れている。

しかし、年齢が上がるのに比例して益々無表情になっていったユウキだったが、

近頃はそうでもなかった。

 

―――誰のおかげか……なんて、考えるまでもないですけどねー)

思わず口元がほころんだその時、はかったように扉が軽くノックされた。

きっとたった今、思い描いていた人物だろうと勘が告げる。

「どうぞー。開いてますよん」

明るく応えると、予想通り、ワゴンを押した小柄な少年が扉を開けて室内へ入ってきた。

窺うように首をかしげて、ユウキとイクミに視線を向ける。

にこりと微笑んで、イクミは手にした書類を置いた。

「お茶を持ってきてくれたですか! 嬉しいですねぇ。そろそろ休憩したいと思っていたところです」

「………」

イクミの言葉に、コウジはふわりと表情を和ませた。

そうして、部屋の窓際にある円卓に丁寧に茶器を並べていく。

立ち上る茶の香気とコウジの笑顔に誘われるように、イクミとユウキは円卓を囲む椅子に腰を下ろした。

 

 

 

「んー美味しいですv」

供されたお茶を一口飲んで、イクミが顔をほころばせる。

嬉しそうに笑うコウジに、イクミはにこにこと話しかけた。

「コウジも座ったら? 君の分もあるんだから」

「………」

「遠慮しないで。君は召使いって訳じゃないんだから。ね、殿下」

「………ああ」

ぶっきらぼうな態度ながらも、ユウキはイクミの言葉を否定せず頷いた。

それでも躊躇っているらしい相手の様子を見て取り、もう一言付け加える。

「…いいから座れよ」

語りかける声が随分と穏やかなことに、ユウキ自身はあまり気が付いていなかった。

ただ、コウジといると何故か気持ちが落ち着くのは感じていた。

加えて、時折奇妙な懐かしさが胸にこみあげる。

昔から他人に側に寄られるのは苦手だったが、

コウジにはそんな拒否感が殆どわかなかった。

だが、その理由は、ユウキにはまだわからなかった。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■その日、城は朝から慌しい空気に包まれていた。

世継ぎの王子の婚約者である隣国の姫が、半月後に迫った即位式のためにやってくるからだ。

女王がいない今、実質的には姫が「王妃」という位置づけになる。

姫とその一行の滞在に粗相がないようにと、女官も侍従もおおわらわで準備に走り回っていた。

しかし、肝心のユウキは、出迎えだ何だとうるさい家臣達を放って、さっさと雲隠れしてしまった。

姫との婚儀は、無論、本人達の意思で決まったものではない。

隣国との結びつきを強固にするための政略結婚だ。

幼い頃から知っているその姫を――アオイを嫌いではないが、

恋愛感情と呼べるものはなかった。

それは向こうも同様だろう。

ユウキの性格を知っている彼女なら、出迎えなどしなくても大して気にはすまい。

 

そうしてユウキは、城の外庭にある林へと足を向けた。

迷路のように木々が深く生い茂った林の奥にぽかりと開いた広場があって、

そこには、柔らかな下草が絨毯のように生えていた。

昔から、一人になりたい時、ユウキはここを訪れていた。

初めての人間にはまず見つけられないし、景色が良い訳でもないこの林に

好き好んでやってくる者はいないからだ。

いつ見つけたのかは覚えていないが、ここにいる間だけユウキはくつろぐことができた。

――――

差し込んでくる木漏れ日に目を細め、無造作に地面に横たわる。

暖かな空気に包まれて次第に重くなっていく瞼に逆らわず、ユウキは目をつぶった。

 

 

 

 

 

―――いた…)

地面に横たわったユウキを見つけて、コウジは脚を止めた。

確信はなかったが、来てみて正解だった…と小さく息をつく。

イクミに「殿下がどこへ行ったか知らない?」と尋ねられて、

しばらく考え込んだコウジはこの場所を思い出した。

ここは、まだコウジとユウキが一緒にいた頃、二人で見つけた隠れ家だった。

大好きな両親にも秘密にしていた二人だけの場所。

悪戯をしたりわがままを言ったりして叱られると、ユウキはよくここに隠れていた。

兄が必ず宥めに来てくれると知っていたからだ。

そんな弟を慰めてあやして城に連れて帰るのはいつでもコウジの役目だった。

甘ったれで手のかかる弟―――けれど、伸ばされた手を拒もうと思ったことは一度もない。

誰よりも自分に懐いて頼りにしている弟が、コウジにも何より大切な存在だった。

こうしてこの場所に隠れているユウキを見ると、昔の弟が戻ってきたような気がした。

 

足音を忍ばせて歩み寄り、そっと隣に腰を下ろす。

眠る姿を静かに眺めていたコウジは、無意識の内にユウキへと手を伸ばしていた。

昔、しょっ中していたように、髪に触れて頭を撫でる。

硬い黒髪が指の隙間をさらさらと零れていく感触が心地良かった。

起こしてしまうかな、と頭の片隅で思ったが、手を離すのはなんだか勿体なくて。

唇に笑みをうかべたまま、コウジは飽かずユウキの髪を撫で続けていた。

 

 

 

                                                           

 

 

 

温かい夢をみていた。

夢の中で、ユウキは小さな子供の姿に戻っていた。

城の中庭にいて、少し離れたところには、優しそうな男の人と、とても綺麗な女の人がいる。

二人の足元には、ユウキより少し年上に見える男の子もいた。

楽しそうに喋っていた三人が、ユウキに気付いてそれぞれ手を振り、笑顔を向けてくる。

嬉しくなって駆け出したユウキは、その勢いのまま男の子に抱きついた。

 

『ユウキ! 飛びついたらあぶないだろー?』

笑いながら幼い声で言った相手が、ユウキが望んでいたようにきゅっと抱きしめてくれる。

伝わってくる温もりが嬉しくて、幸福感が身体中を満たしていた。

ユウキの頭を、小さな手が優しく撫でた。

そうやって頭を撫でてもらうのがユウキは大好きだった。

「彼」にそうしてもらうと、とても安心できた。

もっとやってほしくて、笑いながら「彼」を見上げる。

だが、その顔が目に映る寸前、ユウキの視界は霧がかかったように真っ白になった。

そのまま、凄い力で身体がどこかに吸い込まれていく。

――――!』

泣きそうになりながら、ユウキは懸命に「彼」の名を呼んだ。

 

 

 

 

 

―――あ……――

言いかけた言葉は、瞬きする間にどこかへ流れて消えてしまった。

目覚めた瞬間、夢の内容は意識の隙間から零れ落ちていく。

かわりに、柔らかな蒼い双眸がユウキの眼に映った。

ついで、細い指が頭におかれているのに気付く。

――……あんた」

呟いて上半身を起こすと、慌てたようにコウジはユウキの髪を撫でていた右手を引いた。

胸の片隅でそれを残念に思いながら、ユウキはじっと相手を見つめた。

何故ここがわかったのだろう。

城に勤めて一ヶ月にもならない人間が思いつくような場所ではない筈だ。

 

―――それにどうして、彼がここにいることを不快に思わないのか。

 

以前、庭師が入り込んだ時は、自分の大事な場所を荒らされた気がして、

即座にその庭師をクビにしてしまったというのに。

コウジに対しては、そんな怒りや嫌悪が微塵もわいてこない。

気が付くと、ユウキの口は勝手に言葉をつむいでいた。

「あんた……前に、ここに居たことがあるんじゃないのか?」

出会った時から、心のどこかでずっと思っていた。

コウジを見ていると、時折ひどく懐かしい気分になる。

傍らにいるのが当然のような気がするのだ。

加えてコウジは、複雑な城内をすぐに案内なしで自由に歩けるようになった。

それは以前、この城に居たことがあるからではないだろうか―――

 

ユウキの言葉に、コウジは驚いたように目を見開いた。

だが、やがて困ったような笑みをうかべて、コウジはゆっくりと首を横に振った。

ついで、ここに来た用件を思い出したのか、行かなくていいのかと表情でユウキに問いかける。

コウジの言うことを敏感に察したユウキは、無言で顔をしかめた。

しかし、コウジの表情が曇ったのを見て、仕方なく付け加える。

「……いいんだよ。婚約だ何だって騒いでんのは周りだけだ。

 アオイだって、これが政略結婚なことぐらいわかってるさ」

そう言って、ユウキは再び地面に寝転んだ。

 

「………」

僅かに苦い口調には、国を負う者の辛さや孤独が透けて見えて、

コウジはそれ以上ユウキを急かすことはできなかった。

どこか拗ねたように横を向いて目を閉じているユウキに改めて視線を注ぐ。

しばらく躊躇った後、コウジはそろそろとユウキに手を伸ばした。

さっきと同じように髪に触れて柔らかく撫でる。

払いのけられるかとも思ったが、予想に反してユウキは何も言わなかった。

手が触れた瞬間ピクリと身じろいだが、そのまま大人しくコウジの好きにさせている。

ユウキの様子に触発されて、コウジの手からは次第に躊躇いがなくなっていった。

額にかかる前髪を梳き上げて後ろへと撫でつける。

と、不意にユウキが顔を上げて軽く上半身を起こした。

―――

何も言わず、傍らに投げ出されていたコウジの膝に頭と肩をのせて、再び目を閉じる。

「っ……」

突然の行動に驚いて、コウジはまじまじと相手を見下ろした。

しかし、ユウキにどく気はなさそうで、少し身じろいで居心地良い体勢を決めた彼は、

当然のような態度で膝を占拠している。

 

(……なんか……大きな猫にのられてるみたいだな…)

意識しない笑みが、コウジの口元を緩やかにほころばせた。

仕方ないなと内心で呟いてみるが、そんな言葉に反して温かな思いが身体中を満たしていく。

その思いに導かれるようにユウキの髪に触れたコウジは、中断していた動きをゆっくりと繰り返した。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■結局、ユウキとコウジが城に戻ったのは、もう日も暮れようという頃だった。

無論、隣国の姫はとっくに到着している。

さすがにそのまま無視している訳にもいかず、ユウキはコウジを連れて姫の部屋を訪れた。

もっとも、ユウキの予想通り、姫は――アオイは、別に気にした風もなくユウキを迎え入れた。

部屋の中では、アオイの他にもう一人の少女とイクミが楽しげに談笑している。

入ってきたユウキを認めて、イクミが明るく声をかけた。

 

「やーっと帰ってきたですか。婚約者のお出迎えより大事な御用があったんですか?」

ユウキがいなくなった理由をイクミは勿論わかっている。

が、その理由に共感するのと行動を嗜めるのは別問題だ。

王となる以上、いつまでも好き勝手な行動はできない。

しかし、いつもならもう一言二言嫌味が続くところを、アオイが肩をすくめて口をはさんだ。

「今更ユウキに形式なんて求めてないからいいって。――で、元気だった? ユウキ」

「……まぁな」

「そっか。良かった」

屈託なく笑う少女に、ユウキの眼差しも僅かに和らぐ。

ユウキは決して、彼女を嫌っている訳ではなかった。

まるで姉のような態度で接してくる彼女を時にうるさく思うこともあるが、

その好意に嘘がないことはわかっている。

ただ、互いにその情は幼なじみという域を出ないものだ。

それでも、見知らぬ相手と結婚するよりはまだマシだろうというのが二人に共通した意見だった。

 

その時、アオイの眼が、ユウキの後ろで控えめに佇んでいるコウジへと向けられた。

「あ、新しい御付きの人?」

「……!」

一国の姫にいきなり話しかけられて驚いたのか、コウジがビクリと身体を震わせた。

だが、すぐに気を取り直したように微笑んで、軽く頭を下げる。

声が出ないコウジに代わって、イクミが穏やかに言い添えた。

「本当はお客様なんだけど、仕事を手伝うって言ってくれたんで、殿下の世話係をしてもらってるんですよ」

「ユウキってばすぐに辞めさせちゃうもんね」

くすりと笑うアオイも、ユウキの選り好みの激しさは充分知っている。

改めてコウジに向き直ったアオイはにこりと笑みをうかべた。

「ユウキの世話は大変だろうけど頑張ってね。

 名前は何ていうの? あ、私はアオイ。あっちにいるのは私の従妹でコズエっていうんだけど」

「………」

困ったようにアオイを見返すコウジに代わって、再びイクミが口をはさむ。

「彼はコウジくんっていうんですけど、残念ながら口がきけないんですよ」

「え……そうなの? …ごめんなさい」

痛ましげな表情をうかべたアオイに、コウジは気にしなくていいという風に笑顔を向けた。

それにほっと息をついたアオイが、不思議そうにコウジを見つめる。

「……あの…さっきから思ってたんだけど――

コウジに歩み寄ったアオイは、僅かに高いところにある相手の顔をまじまじと覗きこんだ。

「前に、どこかで会ったことないかな?」

アオイの言葉に、コウジが軽く目をみはる。

それは、横で聞いていたユウキも同様だった。

 

アオイも、自分と同じことを思ったのか?

だとしたら、やはりコウジは以前この城に居たことがあるのだろうか―――

 

だが、アオイの言葉にもやはりコウジは首を横に振った。

「……そう? おかしいなぁ…何か見覚えがあるような気がするのに……」

本人に否定されても完全には納得できないのか、アオイがぶつぶつ言いながらコウジに手を伸ばした。

白い指先がコウジの頬に触れて、至近距離から蒼い瞳を覗きこむ。

その光景を眺めるユウキの胸に、不意に激しい苛立ちがこみあげた。

 

―――触れるな、と。

 

意識するより早く、ユウキはコウジの腕をつかんで自分の方へ引き寄せた。

「っ……?」

「ユウキ?」

コウジとアオイの双方に驚いたように見られて、ユウキはようやく自分の行動を自覚した。

それでも、コウジの腕を離す気にはなれず、ぶっきらぼうに言い捨てる。

「……夜会の準備をしなきゃなんねぇだろ。行くぞ」

そう言ってユウキは、コウジの腕をつかんだまま部屋を出て行った。

 

 

「……夜会嫌いのユウキが自分から準備しなきゃ、だって。めっずらしー…」

呆気にとられた風に呟いたアオイに、コズエがうんうんと頷いた。

「やっぱり王様になると違うのかもね」

「…………」

少女達の会話を聞きながら、イクミは僅かに目を細めた。

(……随分ご執心のようですねぇ……)

内心で呟いて、先程の光景を思いうかべる。

ほんの一瞬、暗い色がイクミの瞳を重く翳らせた。

 

 

 

                                                           

 

 

 

アオイが到着したその日、彼女とその一行を歓迎する夜会が盛大に催された。

半月後の即位式に向けて、国内の貴族も続々と城に集まり始めている。

国の豊かさを示すように大広間は華やかな飾りつけがなされ、

集う人間の装いもきらびやかなものだった。

即位式は周辺諸国からも多くの使節が訪れ、更に大がかりなものになるだろう。

その様を思いうかべて、ユウキは苦々しく顔をしかめた。

人と関わることが嫌いなユウキは、人が大勢集まる場所も苦手だ。

今日は略式だからまだマシだが、正式な舞踏会ともなれば何百人という人間が広間にあふれ、

意味もない会話と踊りを果てしなく繰り広げるのだ。

しかし、仏頂面で玉座に腰かけたままのユウキと違って、

アオイは広間で色々な人間と楽しげに話をしていた。

昔から何度もこの城を訪れている彼女なら、王妃となってもすぐに馴染めるだろう。

そうなったら夜会の采配は全て彼女に任せて、自分はさっさと抜け出そう。

そんなことを思っていたユウキは、ふと、随分前からイクミの姿が見えないことに気付いた。

広間にざっと目をこらしても、彼がいる様子はない。

―――なんだ?)

妙な胸騒ぎがして、知らずユウキは立ち上がっていた。

 

 

 

 

 

宴の喧騒にまぎれてこっそり広間を抜け出したユウキは、自分の部屋へ向かった。

根拠はないが、イクミがコウジといるのではないかと思ったからだ。

ユウキの世話係をしているコウジは、ユウキの部屋に続く小部屋を住居として与えられている。

そこに二人がいると思ったのは単なる勘だが、その正しさはすぐに証明された。

たどりついた部屋の扉は僅かに開いていた。

その隙間から、静かなイクミの声が途切れ途切れに聞こえてくる。

無意識に足音を殺したユウキは、聞こえてくる声に耳をすました。

 

 

 

――…うん……そうだね――

紙にペンを走らせる音とイクミの相槌が交互に聞こえてくる。

二人で何を話しているのかはわからないが、穏やかな空気が流れているのが感じられた。

だが、不意にイクミが低い声でコウジに問いかけた。

「……それで、君はいつまで城に居られるの?」

「っ……!?」

イクミの言葉に、ユウキは短く息を呑んだ。

 

―――あいつは今、何を言ったんだ?

 

思考が停止して、イクミの言葉の意味を理解することができない。

しかし、しばらくして聞こえてきた言葉に、更に衝撃が深くなった。

――次の満月までって……じゃあ、後二日しかないのか――

沈んだ声音で呟いたイクミは、深く溜息をついた。

「………寂しくなるな…」

それに応えて、再びペンを走らせる音が響く。

だが、ユウキが聞いていたのはそこまでだった。

地面が急に頼りなくなったように、足元がふらついた。

数歩後ずさり、その後、不意に身を翻してその場から駆け去る。

どうして逃げ出したのかわからないほどユウキは混乱していた。

頭の中で、イクミの言葉が目まぐるしく飛び交う。

 

(いなくなる? ―――あいつが……?)

 

そう自問した瞬間、鋭い痛みが胸の中心を貫いた。

「くっ……」

低く呻いて足を止めたユウキは、胸元をきつくつかんだ。

鼓動が凄まじい速さで脈うっているのは、急に走ったせいばかりではないだろう。

血管が破裂したかのように頭がズキズキと痛む。

手が震えているのに気付いて、ユウキは更に強く上着を握りしめた。

足を止めたそこは、回廊の突き当たりにあるバルコニーだった。

「……っ…」

優美な曲線を描く手すりにもたれた身体がずるずると崩れ落ちる。

イクミの言葉は、信じられないほどの衝撃をユウキに与えていた。

息が上手くできず、苦しげに肩を上下させるユウキの額に冷汗が滲んだ。

黒い感情の塊が胸を圧迫している。

それは、幼い頃からユウキがずっと抱えていたものだった。

 

昔から、拭いきれない喪失感がユウキの中にはあった。

何か大切なものが欠けていると、心のどこかでずっと思っていた。

だが、コウジがきてからは、不思議とそれを感じなくなっていたのだ。

いつの間にか、当たり前のようにコウジの存在は胸の中にあった。

 

―――それなのに、彼はあっさり城からいなくなってしまうというのか。

 

「……くそっ…!」

絶望とも失望ともつかない思いで短く吐き捨てたユウキは、手すりに拳を叩きつけた。

こみ上げてくる衝動を抑えきれず、何度もそれを繰り返す。

ユウキの感情に呼応するように、激しい雨が降り始めた。

だが、ユウキは身じろぎもせず、座りこんだまま宙を睨み据えていた。

 

 

 

                                                           

 

 

 

いつの間にか夜会を抜け出していた王子がバルコニーで倒れているのが見つかり、

城内は大騒ぎになった。

ずっと雨にうたれていたらしく、ずぶ濡れの身体は芯まで冷え切っていて、

呼びかけてもピクリとも動かない。

どうにか命に別状こそなかったものの、高熱にうなされる王子の意識は二日経っても戻らなかった。

 

 

 

 

 

熱にうなされながら、ユウキはずっと夢をみていた。

以前、何度もみたことがある夢だ。

夢の中で、ユウキは5,6歳ぐらいの子供の姿だった。

押し潰されそうな不安と恐怖に大声で泣いて、誰かに駆け寄ろうとしていた。

なのに、大きな手に押さえつけられて動けなくて―――泣きながら

ユウキはその誰かを呼び続けた。

その人も泣いているようだった。

幼い声が何度もユウキの名を呼んでいた。

だが、その声は次第に遠くなっていってしまう。

必死で伸ばした手は、いつもその人には届かなかった。

 

―――けれど、その日は違っていた。

懸命に伸ばした指先に柔らかいものが触れたのだ。

殆ど反射的にユウキはそれを握りしめた。

細い指の感触が確かに伝わってくる。

何も考えられず、ただ心が命じるままに、ユウキはその手に縋りついた。

その途端、胸の奥底で渦巻いていた気持ちが一気に外へあふれてくる。

 

 

いかないで――おいていかないで。

 

つれていって。

 

お願いだから側にいて。

 

もう、おいていかれるのは――――

 

 

―――……いやだ……」

かすれた呟きが渇いた唇から零れる。

透明な涙が、固く閉ざされた瞳から一滴流れ落ちた。

「………」

手を握りしめて離さないユウキを、コウジはじっと見つめた。

意識がないにもかかわらず、指を握る力はとても強かった。

勿論、振りほどこうと思えばできないことはなかっただろう。

けれど――――

 

 

――――

あいた片手でユウキの目元に滲んだ涙をぬぐったコウジは、

つかまれた指先でそっと弟の手を握り返した。

自分はここにいる、と知らせるように。

 

「……コウジ……そろそろ行かないと…」

イクミが低く声をかけたが、コウジは首を横に振った。

「でも、夜明けまでに戻らないと、君は――

言いかけて、コウジの笑みを見たイクミは、続く言葉を呑みこんだ。

柔らかな微笑みは見たこともないほど綺麗で、同時に、意志の強さを感じさせた。

説得は無理と悟ったイクミが、緩く唇を噛み締める。

「………じゃあ、俺は隣の部屋にいるから。容態が変わったら教えて」

わかったと頷くコウジから目を逸らしてイクミが立ち上がる。

辛そうな表情で部屋を出て行くイクミを、コウジは申し訳なさを覚えながら見送った。

事情を知っている彼は、きっといたたまれない思いをしていることだろう。

それでもコウジには、弟の手を振り払うことなどできなかった。

―――いや、したくなかったという方が正しい。

できることなら、ずっとこうして一緒にいたかった。

たとえ熱にうかされてのことでも、ユウキに必要とされているのが嬉しくて。

 

―――ユウキ……)

すっかり成長したくせに、根本的なところでは変わっていなさそうな弟の名を心の中で呼ぶ。

出ない声の代わりに、コウジは思いを込めてユウキの手を両手で包み込んだ。

 

 

 

                                                           

 

 

 

沈みゆく太陽の光で、海と空はあかがね色に染まっていた。

やがて塗り替えられるように、深い紫紺が世界を染め上げていく。

ユウキの容態が落ち着いたのを確かめて、コウジは一人、城を抜け出していた。

城から少し離れた所にある海に面した洞窟へ向かうと、思った通り、青い髪の友人が

海の中から半身だけ姿を現してコウジを待っていた。

「………」

様々な意味の謝罪をこめて、コウジが静かに頭を下げる。

 

ずっと待たせてしまったこと。

心配をかけたこと。

そして―――約束を守れなかったこと。

自分はもう、海へは帰れない。

自分で決めたことだから覚悟はしているが、見かけよりずっと情が深いこの友人を

苦しめてしまうことが気がかりだった。

 

大きく息をつく音がして、コウジが顔を上げる。

迷いのないコウジの表情にもう一度溜息をついたブルーは、苦く口を開いた。

「……お前の命は後三日が限度だ。限界を超えた身体は、泡になって消えてしまうだろう――

「………」

コクリと頷くコウジに、だがブルーは意外なことを言い出した。

「……だが、助かる手段が一つだけある。

―――この短剣で弟を殺せ」

「っ!?」

告げられた言葉と差し出された剣に、コウジが大きく目を見開いた。

「お前にかけた術を強固なものにしているのは弟の存在だ。

 それがなくなれば、術は容易くとける。身体への負担もずっと少なくなる…」

そう説明しながら、ブルーにはコウジの答えなどわかりきっていた。

はたして、激しく頭を振ったコウジは、ブルーの差し出した剣を決して受け取ろうとはしなかった。

「……お前はそれでいいのか?」

それでも問いかけるブルーの眼差しに哀しげな色がうかぶ。

「………」

大事な友人を苦しめていることに胸は痛んだが、ブルーを見つめて

コウジははっきりと頷いてみせた。

その時、不意に第三者の声がその場に割って入った。

――その短剣で、ユウキじゃなくて俺を刺すっていう選択もあるですよ」

―――

「っ……」

ブルーとコウジの目が、声のした方へ同時に向けられる。

岩の陰から姿を現したイクミは、普段と変わらぬ飄々とした口調で続けた。

「親父が死んだのに術がとけないのは、「オゼ」の魔術が「オゼ」の血で

かけられるものだから…なんです。親父が死んでも、後を継ぐ俺がいる限り

コウジやユウキにかけられた術の効力は半永久的に続く―――

けど、逆に言えば、俺さえいなけりゃ術はとけるっていう話」

言いながら、イクミは構える風もなくブルーを見やった。

「最初にかけた術さえとければ、上からかけた術も自動的に消える。

 そうしたらコウジは、元通り人の姿に戻れる……そうだよね?」

「………ああ」

短く答えて、ブルーは値踏みするようにイクミを眺めた。

イクミの言うことは間違っていない。

だが、どうして自らの命を危うくすることをほのめかすのか。

真意が読めず、ブルーはコウジへと視線を戻した。

イクミも黙ってコウジを見つめる。

二人の眼差しに、固まっていたコウジはようやく我に返った。

だが、何度問われても答えは変わらない。

たとえ術をかけた「オゼ」の人間でも、イクミはずっとユウキを支えてくれていたのだ。

コウジにもとても親切にしてくれた。

そんな彼を殺そうなどと思える筈がなかった。

 

「………」

ふるふると首を横に振ったコウジは、目を眇めた友人達にふわりと笑いかけた。

ゆっくりと動いた唇が、ありがとうと言葉をつむぐ。

口をつぐんだ二人にもう一度笑みを向けて、コウジは城に戻るべく踵を返した。

 

 

 

 

 

寝ている弟を起こすまいと静かに部屋に入ったコウジだったが、

予想に反してユウキは目を覚ましていた。

上半身を寝台の上に起こして、ぼんやりと視線をさ迷わせている。

もう大丈夫なのかと小さく息をついた時、ユウキの目が

コウジの姿を認めて大きく見開かれた。

ついでその顔が、泣き出す寸前のようにくしゃりと歪められる。

「っ……?」

驚いたコウジが慌てて駆け寄ると、ユウキは物も言わずにコウジの腕をつかんで抱き寄せた。

―――いや。抱き寄せたというより、しがみついたというのが正しいかもしれない。

コウジの胸に顔をうずめたユウキの肩や腕は、何かに怯えるように震えていた。

―――ユウキ…?)

僅かに目をみはって、コウジは縋りつく弟の姿を見下ろしていた。

 

 

 

驚いている相手には構わず、ユウキは力をこめて細い身体を抱きしめた。

コウジが確かにここにいるのだという実感がほしかった。

こうして触れていても、一瞬後にはどこかへ消えてしまうのではないかという不安が

胸に渦巻いている。

だが、そんなユウキの背中を、コウジの手があやすように軽くたたいて撫でた。

「っ……!」

宥める仕草に、伝わってくる温かな気持ちに、束の間息が止まる。

同時にこみあげる熱い塊が喉を塞いで、視界をゆらりと滲ませた。

 

―――いくら否定されても心が叫ぶ。

これは知っているものだと。

昔、こんな温かさを自分は確かに知っていたのだと。

懐かしくて愛しくて。そして狂おしいほどに切ない。

 

「…あんたは……どうして……っ」

あふれでる感情は出口を見つけられず、言葉を詰まらせた。

答えはすぐそこにあるのに、何かが邪魔をしてそれをつかむことができない。

形にならない思いの代わりに、ユウキは、コウジの身体にまわした腕に益々力をこめた。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■倒れてから五日後、ようやく回復したユウキは、様々な雑事に追われることとなった。

休んでいた間にたまった政務を始め、間近にせまった即位式の段取りを打ち合わせたり

衣装合わせを行ったりと、やることは際限なくあふれている。

倒れて目を覚ました後、ユウキはずっとコウジを傍から離さなかった。

しかし、公務に復帰してしまうと、四六時中共にいることはできない。

自分がいない時も部屋にいるようにと、ユウキはしつこいぐらいコウジに念を押した。

繰り返される言葉に、コウジはにこりと笑って頷いた。

だが、ユウキが出て行った途端、その顔から笑みが消えた。

哀しげに俯いて、じっと目を閉じる。

やがて顔を上げたコウジは、机の上に短い手紙を残して静かに部屋を後にしたのだった。

 

 

 

なるべく人と会わないようにして城を抜け出したコウジは、浜辺へ向かった。

波の音が静かに響き、夜空には少し欠けた月が柔らかい光を放っている。

ゆっくりと海に向かって踏み出す度に、自分の存在が希薄になっていくのを感じた。

指先から少しずつ、月の光にとけていくような気がする。

ユウキに直接別れを告げられなかったことは心残りだったが、仕方がない。

手紙で、世話になった礼と国へ戻ることを伝えたから、後はイクミが上手く誤魔化してくれるだろう。

事情を知っているイクミには一言挨拶していこうかとも思ったが、

姿が見えなかったので諦めた。

もっとも、イクミにとってはその方が良かったかもしれない。

 

(イクミ…アオイ……ユウキを頼むな)

祈るように思いながら、そっと海に足を踏み入れる。

白い素足を滑らかな水の感触が包み込んだ。

 

 

 

 

 

城の一角に与えられた部屋の中で、イクミは手にした壜を静かに見下ろした。

手のひらに隠れるぐらいのその壜の中には、濃い緑色の液体が満たされている。

それを軽く掲げて、イクミは懺悔するように目を閉じた。

自ら命を絶つことは許されていない。

自分には、簡単に死ぬ訳にはいかない理由があるのだ。

けれど――――

 

「姉さん…すみません。でも、あなたならわかってくれますよね…」

呟いて、記憶に残る柔らかな声に耳をすます。

やがて目を開けたイクミは、壜の中身を躊躇いなく飲み干した。

「………っ」

数秒後、大きく震えた身体が床に崩れ落ちる。

力をなくした指から転がり落ちた空の壜が、石造りの床にあたって硬い音をたてた。

 

 

 

 

 

上着は白がいいだの、飾り帯はこの色が似合うだの、延々と議論している女官達を

ユウキはうんざりと眺めていた。

衣装などどうでもいいと言ったのに、一生に一度の即位式なのだからと女官総出で押し切られ、

もう一時間以上もこうして衣装合わせに付き合わされている。

だが、時間が経つにつれて嫌な予感がユウキの中で強くなっていった。

こんなことは放り出して部屋に戻ってしまいたかった。

今すぐコウジの顔を見て、そこにいることを確かめたかった。

コウジが側にいないと、苛々して気分が落ち着かない。

目を放した隙に消えてしまいそうで不安なのだ。

(ちっ……)

内心で鋭く舌打ちしたその時、不意にユウキの中を何かが走り抜けた。

「っ…!」

電流のようなものが、頭から爪先まで突き抜ける。

その直後、ずっと胸の中心を塞いでいた塊が、跡形もなく四散した。

長い間、蓋をされていた記憶が、凄まじい勢いであふれてくる。

 

 

「………あ……――

「…殿下? 如何なさいました?」

目を見開いたまま呆然としているユウキの様子に気が付いて、

女官の一人が心配そうに問いかける。

だが、次の瞬間、表情を険しくしたユウキは物も言わずその場から駆け出した。

 

 

 

                                                           

 

 

 

水はもう、コウジの膝上まできていた。

泡になってしまうなら、完全に海の中に入ってしまった方がいいのだろうか。

だが、そう思って足を進めようとした時、背後でバシャリと水音があがった。

何だろうと振り返るより早く、強い腕が背中からコウジを引き寄せて抱きしめた。

かすれた声がコウジの耳元で響く。

 

「……また俺をおいていくのか? ―――兄貴」

「っ!!」

 

囁かれた単語に、コウジの身体が大きく震えた。

同時に、身体の中で何かが音もなくはじける。

自分を縛っていた術がとけたのを感じて、コウジは驚きに目を見開いた。

 

 

 

「………ユウキ……」

震える声がユウキの名をつむぐ。

その声に、更に腕の力を強くしたユウキは、コウジの肩口に顔をうずめた。

やがて、兄を抱きしめたままユウキはぽつりと呟いた。

「……嵐の時、助けてくれたのは兄貴だったんだな」

海に投げ出されたユウキを繰り返し呼んだのは、間違いなくさっき名を呼んだ声だった。

「……お前…記憶が――?」

「ああ……全部思い出した」

 

コウジが兄であることも。

自分がどれだけ兄を慕っていたのかも。

 

―――そして自分が、どれだけ兄を必要としているのかも。

 

思い出した以上、二度と手放す気などない。

二度と、何処へもいかせない。

 

「海へなんて帰さない―――兄貴はずっとここにいるんだ」

「…ユウキ……でも…」

何か言いかけて身じろぐ兄をきつく抱きしめて動きを封じる。

「何処にもいかないって約束するまで離してやらねぇ。

 ……どうしても城にいられないってんなら、俺もつれてけよ」

 

兄に比べたら、王位など何の意味もない。

言外にそう言いきったユウキに、コウジは小さく息を呑んだ。

 

 

 

背も高くなり力も強くて、強引な仕草で抱きしめているくせに、

不安そうに自分をうかがう声音は昔のままで。

甘え上手な弟は、コウジがどれほどその声に弱いかなんてきっと知りもしないだろう。

昔から、ユウキの願いを無下にできたことなど一度もない。

 

わきあがる愛しさと嬉しさに知らず笑みをうかべて、

コウジはゆっくりと口を開いた。

「……いかないよ」

自分を抱きしめる腕にそっと手をそえて囁く。

「ユウキが望むなら――ずっとお前の側にいる」

「………兄貴」

ふっと腕の力が緩んだのを感じて、コウジは弟へ向き直った。

少し高いところにある蒼い双眸を優しく覗きこむ。

 

逢えたら一番に言おうと思っていたこと。

 

「…ひとりにして、ごめんな」

「っ……」

 

僅かに目をみはったユウキは、次の瞬間、再びコウジを胸の中へ抱き寄せた。

言葉にならない思いをこめて細い身体を抱きしめ、柔らかな茶色の髪に顔をうずめる。

コウジの腕もユウキの背中にまわり、二人は互いの暖かさをじっと確かめ合っていた。

 

 

 

 

 

 

―――でも、何でいきなり記憶が戻ったんだ?」

先に我に返って呟いたのはコウジだった。

腕を緩めたユウキが、思い返して口を開く。

「…いきなりぱっと思い出したんだよ。何でかは俺も知らねぇ」

ユウキの言葉に、考え込んだコウジはいきなり青ざめた。

ある可能性を思いついたからだ。

 

「…まさか……イクミ…ッ!?」

「あ? ……おい、兄貴!?」

いきなり城に向かって駆け出したコウジの後をユウキも慌てて追いかける。

 

 

 

―――イクミッ!!」

やがて駆け込んだイクミの自室では、部屋の主が冷たい床に倒れていて。

コウジは悲鳴のような声でイクミの名を呼んだ。

 

 

 

 

                                                           

 

 

 

 

■「―――大体、無茶なんだよ、イクミは!」

寝台に横たわるイクミに飲み物を手渡しながら、コウジは怒ったように繰り返した。

目を覚ましてからずっとそんな調子で叱られ続けているイクミはというと、

どこか嬉しそうに笑って肩をすくめた。

「いーじゃないですか。結局、俺もコウジも死ななくてすんだんだしー」

「それは結果論だろ! 見つけるのが遅かったら、そのまま死んでたかもしれないんだぞ!?」

 

コウジやユウキ達にかけられた「オゼ」の術をとくため、

イクミは仮死状態に陥る薬を飲んだのだ。

だがそれは、コウジの言う通り死んでしまう可能性もある危険な薬だった。

駆けつけた時、イクミは息をしていなかった。

ユウキが転がっている薬壜に気付いて手早く処置を施さなければ

どうなっていたかわからない。

 

「やるならせめて先に言っとけよ」

「だって、言ったら止めたっしょ? コウジくんはすっかり覚悟を決めてたしー?」

「うっ……」

さらりと反撃されてコウジが言葉に詰まる。

傍らに立つユウキも、無言でコウジに鋭い視線を向けた。

死ぬ覚悟を決めていたのはコウジも同様で、しかもユウキには何も言わなかったのだ。

一連の事情を聞いたユウキが腹を立てたのも無理はないだろう。

しかし、ちょうどそこへ救いの手が現れた。

アオイが、コズエを連れてお見舞いにきたのだ。

「やほー。またきちゃった」

「…アオイ!」

助かったという風に息をついて、コウジがアオイを招き入れる。

ユウキと同様に記憶を取り戻したアオイは、ひとしきりコウジと話した後、

ついでのように付け加えた。

「オゼ、目を覚ましたんだ? 良かったねーコズエ」

「うん! ありがとう」

「……何故ワタクシを無視してそちらでお話しされているのですか?」

わざとらしく眉をひそめたイクミに、アオイは明るく笑いかけた。

「やぁねぇ、冗談だってば。それで、具合はどうなの?」

「すこぶる快調ですよ。コウジくんにはばっきり叱られておりますケド」

「はは、コウジは昔っから心配かけると怒るんだよねー」

楽しげに言って、アオイはコウジとユウキを交互に見やった。

――でも、コウジが戻ってきたってことは、コウジが王位につくことになるの?」

「まさか。俺はそんな器じゃないし」

「……でも、第一王子がいるのにって思う人もいるんじゃない?」

コズエがおっとりした調子で口をはさむ。

しかし、その意見はあながち的外れなものでもなかった。

もし権力に野心を抱く者がいれば、ユウキよりコウジの方が扱い易いと考えるかもしれない。

だがユウキは、そんな懸念をあっさりはねのけた。

「俺は別にどっちでもいい。それでもゴタゴタするようなら、俺と兄貴は城を出るさ。

王位は欲しい奴にくれてやる。

―――何ならオゼ、お前が王になるか? 色々世話になったしな」

後半はあからさまに棒読みだったが、一気にそう言ってのけたユウキに

イクミは顔をしかめた。

――そんなこと言って人に厄介ごと押しつけて、自分はコウジくんとラブラブ新婚生活〜♪

……なんて思ってるっしょ!?」

「………」

「おい、何だよ、その新婚生活って?」

口をつぐんだユウキに代わってコウジが眉をひそめる。

そこへ、アオイが勢いよく口を開いた。

「ちょっと! だったら私も結婚なんてやめるわよ。オゼが王様になるなら、

 お相手はコズエに譲るわ。元々、私の許婚はコウジだったんだし――

「いや、それは――

「兄貴は俺のだ」

そんな昔の話を…とコウジが反論するより早く、ユウキがきっぱりと断言した。

動じた風もなく、アオイがユウキを軽く睨む。

「なーに言ってんの。私とコウジは生まれた時から許婚だったのよ?」

「んなもん、ただの口約束だろ。たまたま兄貴が先に生まれたから決まっただけで、

 この国の王子なら誰でもよかったんじゃねぇか」

「違うもん。私はちゃんとコウジが好きだったもの!」

「好きの程度で決まるんだったら俺のもんに決まってんだろ」

「何よ! 私の好きがユウキに負けるっていうの!?」

「負ける」

「自信満々に言い切ってんじゃないわよ―ッ!」

 

喧々囂々とやり合う二人を、イクミは目を丸くして、コズエはびっくりしたように眺めていた。

こんなに喋るユウキを見たのは初めてだ、と二人の顔に書いてある。

当人の意思そっちのけで取り合われているコウジはといえば、

諦めたように深々と溜息をついていた。

「……止めなくていいの?」

「……一度ああなったらどうにもならないんだ」

そういえば昔から、あの二人はあんなんだった…と思い返して再び息をつく。

二人ともすっかり成長したくせに、ああいうところは少しも変わっていないらしい。

一国の王子と姫の気品や威厳などどこにもなく、

むきになって言い争う様は子供の口喧嘩にしか見えなかった。

 

 

「コウジ! コウジは私とユウキのどっちが好き!?」

「俺に決まってるよな!?」

「……お前らいくつになったんだよ…」

十年前と全く同じ口調で詰め寄られて、コウジは呆れたように肩を落とした。

「……とりあえず、めでたしめでたし――ですかねぇ?」

傍観者に徹しながら、イクミは楽しげに呟いたのだった。

 

(END)

この可愛らしくもLOVE2なお話をくださったもあり蒼さまは、夏コミに落ちた私めに「委託」という愛の手までも
差し伸べて下さいました。返す返すもありがたい事でございます。このお礼はいずれカラダで---要りませんか

やっぱり(^.^)。いえいえ冗談はさておき、本当にありがとうございましたvv