「なあ、イクミ」
さしたる予定が、あるようでない休日の昼下がり。
親友の個室のベッドの上で壁に背を預けて座る昴治は、手にした
雑誌から自分の膝の辺りに視線を下ろし、「ぅん〜?」などと気の抜
けた相槌を返す部屋の主に向けぽつりと言った。
「お前・・・これ、ホントに楽しいのか」
かれこれ30分余りも前から、昴治の膝枕に満面の笑みをたたえて
甘え続ける、かの「リヴァイアス第一の英雄」の髪をやんわりと撫で
つけながら。
かつて独裁者としてこの艦を制したイクミに対する当時の乗組員ら
の反応は、再乗艦したての時こそ好悪様々であった。
彼を筆頭としたリフト艦の面々が、幾度も矢面に立ち戦ったことは
事実であり、それに素直に感謝の念を抱く者たちも確かにいた。
とはいえ、あの頃イクミに押さえつけられ、あるいは罰を受けた生
徒らの中には、その所以をきれいに棚上げし不平を並べる輩も少な
くなかった。
ひとは自分が被った害ばかりを忘れない生きものだから、良くも悪
くも「英雄」との直接の関わりを持たなかった大多数にとってのイクミ
には、永い間「勇敢で居丈高な為政者」といったイメージが付きまとっ
たものだ。
彼が実際にどれほどの攻撃からリヴァイアスを護り抜いたか、皆を
より良く導くためにどれだけの葛藤に苦しみ続けたか。
それを今更に示す術も無く、何より本人に釈明の意思が皆無であ
ったから、結局は心ない誹謗を遣り過ごす日々を送って来ざるを得な
かった。
それでもこうして何事も無く2年余りの月日を経た今、イクミへのそ
んな反駁の感情も随分と磨耗してきたように昴治などは思う。
けれど。
人間が数百人も集まっていれば、何につけ他者を扱き下ろしたが
る者の10人や20人は必ずいるものだから---とは、標的にされてい
るイクミ本人の談だが---ふとした拍子に「不意打ち」を食らうことも、
悲しいかな実際に未だ有ることなのだった。
朝食に出向いたカフェの入り口手前の角で、昴治は相変わらず予
告無く現れたネーヤに懐かれながら他愛ない立ち話をしていた。
カフェ側から少女らの華やかなはしゃぎ声と、それに混じって良く
知る声音が聞こえたから、昴治は意識するでなくそちらへと視線を
向けた。その時だった。
「朝っぱらからお盛んだねえ。英雄さまは」
「王様あ、一部のコといちゃいちゃしてると他のファンが泣くよー」
揶揄の響きも露な台詞を口々に投げたのは、体格のいい輸送課
の訓練生。 券売機の前で女生徒に囲まれていたイクミに対しての
言葉なのは、無論確かめるまでもなかった。
見栄えや物腰、そして稀なる才能を有するイクミは、初航海の頃
にも少女らからの人気が高く、その様相は環境の安定した現在に
当然のように持ち越されているらしかった。
彼女らの関心が自分に集まることは、特段イクミの望むところで
はない。が、女生徒たちの好意にあぶれた---その要因が何に有
ろうとも---男どもにとって、まして「先の為政者」に含むものがある
者にとっては、黙って見過ごせない事態であったのだろう。
もっともこの程度のことは実はイクミには日常茶飯事で、始終行動
を共にしている昴治にしても珍しい光景ではなかった。
「こんなとこで騒いでごめん。邪魔だったですね」
ゆえに、軽く頭を下げてカフェへの入り口を譲ったイクミに同情しつ
つも、苦笑混じりの溜息を呑気についたりしていたのだけれど。
「なによ、あれ。僻んじゃって、みっともなーい」
少女の一人の正直な感想が、舌打ちを残して通り過ぎかけた男
子生徒の脳天を直撃した。
「あいたた・・・」と我が事のように顔を覆ったイクミへと、形相を変
えた猛者どもが振り返る。
きゃあ、と歓声とも喚声ともとれる声を上げながら少女らが散って
逃げるに任せ、イクミはその場に留まったまま曖昧な笑みを浮かべ
て上背のある相手を見上げた。
「いい気になってんじゃねえぞ、この野郎」
「・・・いまの俺が言ったんじゃないんですが。なんて通用しません
よねえ」
「ふざけんな!」
もっともな言い分はイクミの予想に反することなく却下された。
「大体そのスカした面が気に食わねえんだ。女が勝手に騒いでる
だけで、俺は全然興味ありませんっ、てツラがよ!」
「どうせ選り取りみどりだとか思って、余裕かましてんだろうが!」
いや別に。俺はそんな。次々と繰り出される無体な言に独白めい
たコメントをそれでも律儀に返すのは、ここで沈黙を守れば守った
で「聞いてねえ」だの「無視した」だのと、やはり付けいる隙を与える
ことになるという経験上の故だった。
もともとイクミは自分自身に対しての攻撃には鷹揚である。その本
音が本気で相手に対していない---つまりは相手を軽んじているか
らだと気付く者は、だからなおさらに腹をたてるのだろう。
彼らもまた、暖簾に腕押し状態なイクミに業を煮やしたようだった。
折りも折り、人目を気にしてか辺りに目を配った輸送課生の一人と
昴治の視線がぶつかってしまった。
あ、まずい。何にかそう直感した昴治の思いを読んだように、彼は
勝ち誇った笑みを片頬に浮かべイクミへと向き直った。
「それともこいつ、本当に女に興味がねえのかも知れないぜ」
当人が動じないなら攻撃対象をその周囲に移す。ケンカ慣れした
ものの手段の一つとでもいうところか。
「ほら、あいつ。何てったって、あの・・・そうそう相葉祐希の情け
ねえ兄貴」
相手の物言いの変化に首を傾げたイクミの表情が、瞬時に凍り
ついた。
「お前、あいつと仲良いんだってなあ。なんか異様なくらい?」
「へええ、選りにもよってあんなどーでもよさそうなヤツとかよ」
仲間の意図を悟ったのだろう、他の生徒らも面白そうににやりと
口元を歪め、ことさらに煽り立て始める。
「けど、よく見ると顔はちょっとカワイーかもな。あの相葉の兄弟
だしよ。」
「小っさいし気ぃ弱そうだし、確かに好き放題出来そう---」
声も無くイクミの手が振り上げられる。駄目だ。親友を止めようと
飛び出しかけた
昴治の身体をけれど、強い力で傍らのネーヤが引きとめた。驚いて
少女を見つめた時、
「いい加減にしなさいっ!」
凛とした声と共に周囲に響いたのは、古い釣鐘を素手で叩いたよ
うな鈍い音だった。
「店の入り口で延々とケンカなんかされちゃ迷惑よ!そんな年にな
って、そんなことも分からないのっ」
自分の倍の嵩がありそうな男に大声で説教をぶったのは、大振り
なアルミのオードブルプレートを両手で掲げた昴治の幼馴染み。
痛そうに頭を抱える輸送課生の1人を尻目に、返す手でイクミの
頭にもプレートをお見舞いし---こちらには勿論些かの手心が加え
られていた---あおいは、制服姿の腰に手を当てて胸を反らせた。
「ケンカは両成敗ですからね。さあ!入るの?帰るの?さっさとし
なさいっ」
呆然と友人を見つめるイクミを睨みながら、それでも強烈な仲裁
に毒気を抜かれた輸送課生たちは、渋々の態でカフェの中に消え
ていった。
しょぼんと項垂れてあおいの小言を聞かされているイクミを肩越し
に振り返りながら、ネーヤに手を引かれるままにその場を離れたの
は、たった5時間ほど前のこと。
朝食を別の店で流し込んだあと、落ち着かない気持ちで午前中を
過ごした昴治は、結局イクミを昼食に誘うべくメールを打った。
返って来た返事は「今日は部屋で過ごしたいから、何か見繕って
買ってきてほしい」という、何とも朝の事件を思い起こさせる意味合
いのものだった。
あおいの午後のシフトの持ち場に敢えて赴き、テイクアウトを用意
してもらう間に「あの後」のイクミの様子を聞いてみた。
幼馴染みがあの折そばにいたことにあおいは驚き、飛び出しかけ
た昴治を止めたというネーヤの機転を称えたものだ。
「昴治に聞かせずに済んでよかった、って。尾瀬何べんも言ってた
から」
実際には「聞いてしまった」事実を伏せてくれるよう、一応念のため
依頼したあおいには、コワい顔で---「見損なわないでっ」---頬を抓
り上げられた昴治である。
昴治が持参した食事をとり、ベッドに並んで腰掛け他愛ない話をしな
がらコーヒーを飲んだあと、イクミは少々改まったふうに頼み事をした
いと申し出た。
「何でもきいてくれる、って約束して。そしたら言う。お願い事」
頼まれる側からしては何やら間尺に合わない言い分である。が、昴
治は何でもないことのように---些か呆れた顔をしつつも---当たり前
に頷いた。
イクミが理不尽な要求をする筈がないと解った上の、昴治にとっては
考えるまでもないことだった。いとも簡単に承諾を得たイクミの方でも、
勿論親友の自分への信頼は熟知していただろう---けれど、それでも。
端正な貌を「へにゃり」と情けなく泣き笑いに崩し、イクミは倒れ込む
ようにして昴治の膝に顔を伏せた。
ごろごろ、にゃあん。猫の鳴き真似と思しき裏声を発しながら、かつて
の為政者は同年の男友達の膝に頬を擦り寄せる。浮かべた笑顔の中
に、凍える夜に火を焚いた暖炉へと駆け寄る子供のような懸命さを滲
ませて。
「・・・まさかと思うけど、お願い事ってコレか」
「うん。聞いてくれるって言ったでしょ」
「そりゃ、言ったけど。まあ別に・・・いいけどさ」
特に不満でも不快に思った訳でもない。とはいえあまり納得のいかな
い感は否めない。そんなニュアンスが呟きに聞き取れたのだろう、イクミ
は声をころして笑いながら、
「ありがとう」
内緒話のようにこっそりと言った。それが何だか胸に堪えて、昴治は
ぽか、っと親友の出来の良い頭を1つたたいてみた。
いたいー、と子供の口調で不平を訴える嘘つきな相棒をいま、少しで
も暖めてやれたらいい。そう願いながら、今度はやさしく同じところを撫
でてやった。
そうして。
いまも昴治の硬いであろう膝枕に甘えたままの色男は、まさにごろごろ
と喉を鳴らす猫のようにうっとりと言った。
「楽しい。すっごく」
そうか。他に返す言葉も無く、昴治は再び雑誌の紙面に目を戻した。
先だってのカフェでのつまらない諍いが、こんな他愛のないことで少し
でも紛らせられるものかは定かではないが、当のイクミが部屋を訪れた
頃よりも和んできたのは確かなようだから。
良しとしよう、と昴治が内心で胸を撫で下ろした時だった。
「ごめんね」
ほんの小さな声音でイクミが囁いた。唐突な謝罪に昴治は首を傾げる。
それに気付いていたかどうか、
「でも・・・やっぱり。だけど・・」
要領の得ない言が続くのは、もしや最初から独白であった故か。
「俺が、守るから」
誰を。何から。イクミは何も明言しはしなかった。相変わらず昴治の膝
枕に顔を伏せたまま、消え入りそうな声で「だから」と言って、それきり
口を噤んだ。
別に何を謝られる謂われもない、とか。
お前に守ってもらうようなことなんてない、とか。
いつも通りの、少しだけ素っ気無い物言いで茶化してしまってもよかっ
たのだけれど。うん、と当たり前に頷いてみた。
今のイクミであれば、護る事に囚われ過ぎて己を見失うことはないだ
ろう。
昴治は特出した能力の1つも持たない凡庸な自分を知っている。だか
らといって銃後の者の立場に甘んじていられる気性ではないことも。
それでも親友にとって、その「誓い」が必要なものであるのなら。何度
でも頷くことは吝かではない。
お前が俺を守るなら、俺がお前を守るだけだ。
そんなことを告げたならイクミはきっと不服気な顔をするから、これは
昴治だけの密かな野望だけれど。
「頼りにしてる」
黙り込んだ色男の髪をもう一度梳いて、昴治は朝最初に会ったときに
交わす挨拶の口調で言った。その台詞のあまりの何気なさに、
「・・・うそつきぃ」
まさに不服気な英雄のボヤキが返る。情けない反論が子供の駄々の
ようで、込み上げる可笑しさを堪えもせず昴治は笑った。
こうして2人、屈託なく過ごせるこの瞬間を取り戻せたこと。その幸福を
そっと噛み締めながら。
<end>