「・・・のニュアンス」 act.1


 冬休みの最中だったと記憶する。
 ひやりとした感触が、熱に浮かされた昴治の額に添えられた。
 仕事から帰った母が冷却シートでも乗せてくれたのかと重い瞼を 持ち上げれば、
霞む視界に映ったのは、泣きべそをかいて自分を覗き込む弟の姿だった。
 「おにいちゃん・・・」

 風邪で寝込んでいる昴治より弱々しい声で、祐希は兄を呼んだ。それで漸く額に
あるのが祐希の小さな手のひらだと気付く。

 「ゆうき、手」
 「おでこにはるやつ、どこにあるかわかんないの」
 「・・・じゃなくて」
 弟が自分の手のひらで昴治の熱を冷やしてくれているのは分かった。冷却シート
を探すことが出来なくて、幼いながらに考えた方法なのだろう。けれど。
 「お前の手、いつも熱いのに・・・・・っ!」
 「ゆうきのて、もうあつい?」
 語尾が咳で途切れてしまった為か、祐希は兄の問いを不満と取り違えたようだっ
た。慌てて立ち上がり、次いでぱたぱたと階段を駆け下りる音がした。
 「走ったらあぶないって言ってるのに」
 まだ上り下りがおぼつかない祐希だったから心配で身が竦んだけれど、起き上が
って追いかける気力が今の昴治にはない。再びうつらうつらしかけた頃、
 「おにいちゃん」
 弟の近付く気配と声にもう一度目を開けた。
 満面の笑顔で伸ばされた祐希の、小さな利き手に視線が張り付く。
 高熱の篭もった額にあってさえ冷気を感じるほどに凍えた弟の右手は、腫れ上がっ
たように真っ赤に染まり、拭き切れていない水滴を散らすほど小刻みに震えていた。

 「・・・お前、手――」
 「まだつめたくない?」
 引っ込めようとする手首を捕まえた。きょとんとした顔に昴治は今出来る精一杯の
笑顔を向けて、
 「冷たくてきもちいい」
 弟の右手を額と両手で包んだ。真冬の水道水で、芯まで冷やされたに違いないそ
れを暖めてやりたくて。
 胸の奥に感じた、疼くような痛みの「名前」をこの時、昴治はまだ知らずにいたのだ
けれど。
               
 弟の近付く気配と声にもう一度目を開けた。

 近来希にみる至近距離に、具体的にいえばすぐ真隣に、誰在ろう祐希本人が座っ
ている。
 仏頂面にこれ以上ないほどの不機嫌な表情をのせた祐希は、今現在――リヴァイ
アス再乗船後の弟に間違いなかった。

 懐かしい夢を見た。まだあどけない、昴治を「大好き」と言って憚らなかった頃の、
遠い日の祐希の笑顔。
 使用前と後みたいだ。
 祐希が聞けば怒るに違いない事をぼんやりと独りごち、昴治は視線をそのままに真っ
直ぐ祐希を見ていた。そんなふうに弟をみつめるのは、随分と久しぶりだと思いながら。
 「バカか、アンタは」
 聞き慣れた台詞が投げつけられた。
 「弱えくせに、また調子にのって飲んだんだろ。自業自得だぜ」
 それを聞いてやっと、ここがリヴァイアスでの自室で、イクミやあおいらと酒盛りをして
いたことを思い出す。わいわいと楽しげな周囲のざわめきも耳に戻ってきた。
 そういえば「なんとかパーティー」だとか女性陣が大袈裟な名目を挙げていたが、少
し酔ったくらいで忘れてしまう位だから、取って付けたものであったのは確かだろう。
 狭い個室のこと、たった数人の客と、広げたつまみやグラス等で室内は足の踏み場
もない。部屋の主である昴治も、居場所無くベッドの端で、壁に背を預け縮こまってい
た次第だ。
 とにかく銘酒だから、とイクミの奨める赤ワインをちびちび舐めながら、どうやらうたた
寝をしていたらしい。
 「――聞いてんのかよっ」
 苛立った声音で言って、祐希は兄の肩に手を掛ける。大して強い力で引かれた訳で
もないのに、まったく脱力していた昴治の身体は、簡単に倒れ込んでしまった。
 驚きに固まったらしい弟の腕の中に。
 すぐに突き放され拳の一つくらいは食らうかと思ったが、そばにいる筈のあおいの目
を気にしてか、祐希は硬直したまま動かない。
 「それにしても」と訝かしみ、すぐに「ああ、そうか」と合点がいった。
 自分は夢の中でまた夢を見ているのだろう。だからこの祐希はこんなに困った顔をし
ながらも、そっと昴治を抱き留めていてくれるのだ。
 でなければ有り得ない。二人がこれほどに触れ合えることなど。
 こんな夢を見る自分が情けなくもあり、可笑しくもあった。
 知らず漏れた笑いに、
 「何がおかしいんだ」
 憮然とした祐希の声。
 「何でもない」と答えようとして、ふと先刻の夢の余韻が脳裏を過ぎった。夢ならば構
うまい。当たり前の兄弟ならば、日常的に交わされるはずの会話を求めても。
 「祐希、頭あつい・・・」
 言って更に弟の胸に頬を擦り寄せた。室温に未だ温まっていないのか、祐希のシャツ
の冷たさが肌に心地良い。
 このままもう一度、暖かい気分のうちに眠ってしまおうと応えを待つことなく、昴治は瞼
を閉じる。
 「・・・バカ兄貴」
 いつもの台詞が遠くに聞こえた。これが夢である事の証明のように、穏やかで懐かし
い韻を一文字毎に含んで。
 眠りに落ちる間際、ひたりと額に宛われた冷たい手のひらの大きさは、不思議なこと
に今の祐希のそれだった。
 一方的に向けられる拳以外の感触など知りもしないのに。
 都合の良過ぎる想像が我ながらやっぱり可笑しくて、昴治はもう一度小さく笑った。
 「それでもいいや」と、少しだけ自分を甘やかして。
 一度だけ、声に出して大切な名前を呼んでみた。


 「緊急事態よ」と、IDの向こう側から真顔のカレンに半ば脅され、その理由も聞かされ
ないまま兄の部屋へ急行してみれば、待っていたのは酔っぱらい共の馬鹿騒ぎだった。
 普段から何につけ我慢しない主義の祐希が――我慢出来ないの間違いだ、とはイクミ
の言である――騙された上、こんな集まりに素直に参加する筈もない。
 が、敵は徒党を組んだ天下無敵の三人娘である。祐希が入室した途端、怒鳴る間も
与えず取り囲むと、
 「騙してなんかないわよ。人聞きの悪い」

 「ホントだよ。大変なの」
 「もう、昴治ったらだらしないんだから」
 「面倒みてくれなくちゃ、弟くんが」
 「ほらほら、ここ。祐希は隣にね」
 「任せたわ。私たち忙しいの」
 反論の暇無く部屋の奥、何やらぐったりとした兄のいるベッドへと押しやられてしまった。
 渋々その場に胡座をかき、少女らに不満げな視線をくれる。「どこが忙しいんだよ」と祐
希が愚痴ったのも無理はない。あおい、こずえ、カレンは既に随分と出来上がっているイ
クミを次の標的にして盛り上がっていた。
 祐希がいまさら何と言ってごねようと、「お兄さんの緊急事態」に応えて駆けつけてしま
った以上、昂治を案じる心根は少なくともカレンに見切られている。
 諦めの溜息を吐き、元凶であるところの兄へと、それでも殊更にぞんざいな言葉を投げ
つけた。
 どれだけ飲んだか飲まされたかは知らないが、とろんとした目を開けはしたものの、昴治
は相手を認識しているのかも怪しい風情で、じっと祐希を見つめている。
 そのくせ心ここに在らずといった様子が、兄のそばにいる事での緊張を堪える祐希の苛
立ちを煽っていった。
 「――聞いてんのかよっ」
 堪らずに声を上げた。
 露な嫌悪や憎しみを向けられる方がマシだった。昔から――今は以前にも増して。兄に
存在を無視されるくらいなら。
 ほんの軽く肩を揺さぶったつもりが、昂治の身体はまるで重心を無くした人形のように、
何の抵抗もなく祐希の腕の中に崩れ落ちてきた。
 あまりにも華奢で壊れてしまいそうな、それでいて確かな――兄の温もりと感触。
 祐希の困惑に気付いてか、腕の中で昂治が小さく笑う気配がした。
 「何がおかしいんだ」
 答えは期待していなかった。それよりもこのままで、もう少しだけ懐かしい匂いを感じて
いたかった。
 祐希自身が望んで手放したはずの、かつては世界全てと等しく思った存在を。
 「祐希、頭あつい・・・」
 ふいに昂治が呟いた。あやうく聞き逃しかけ、慌ててその台詞を反芻してみれば、あまり
の他愛無さに祐希は脱力を禁じ得なかった。
 寝惚けた子猫がするように、昂治は祐希のシャツに頬を摺り寄せ、気持ち良さげに目を
閉じる。
 「・・・バカ兄貴」
 胸の奥から込み上げる想いを噛み締めた。
 今の兄が祐希を拒むことはないだろう。誰にでも分け与える微笑をもって、当たり前の
兄弟として祐希を受け止めるのだ。
 兄の肩を抱いたまま、半身を伸ばしてワインクーラーの一つを引き寄せる。中にあった筈の
氷は既に原型を留めていなかったが、替わりに満たされている水は未だ充分に冷たかった。
 当たり前の兄弟扱いなんかごめんだ。
 強くそう考える自分がいることを祐希は知っている。それが昂治に対して素直に接しようと
する行動を阻んでいるのだとも。
 だけれど――何故。
 だったら自分は、どんな繋がりを兄に望んでいるのか。
 解らないから、腹が立つ。
 冷水に浸して充分に冷気を纏った利き手を火照った額に押し当てた。
 何か楽しい夢でも見ているのか、昂治は嬉しそうな笑みを浮かべている。「人の気も知ら
ないで」と思わなくもないが、兄のそんな表情を間近で見る機会は滅多にないから、これも
悪くはないだろう。
 弟の胸でもう一度身じろいで、
 「祐希・・・気持ち、いい」
 吐息のように昂治は言った。
 目を見張る祐希の、その表情が、幼い頃に兄の感謝を受けた時と酷似したものであるこ
とを――世界で一番安心な場所で眠る昂治だけが、知っている。



             
「・・・昂治の介抱なら、俺がするのにっ」
             「何言ってんの。祐希の方が良いに決まってるでしょ!」
             「ちょっと、それは聞き捨てなりませんね。蓬仙せんせ!」
             「違うってば、イクミ。「良い」って言うのは、あおいちゃんにとってって意味」
             「何かそれって私にもモンダイ有りな気、するけどぉー」
             「そうでしょ、カレンさん。モンダイでしょう、親友のワタシを差し置いてえー!」
             「そおよお!だってお兄さんモテるし。簡単に決まっちゃ、面白くないじゃない」
             「――ねえ皆、ちゃんと分かって話してる?」


                                                          <end>