航宙可潜艦「黒のリヴァイアス」号は今、月の軌道上で長旅の疲れを
静かに癒している。
再出発から約一年振りに「帰還」した彼の艦に関する、所謂ゴシップ
ネタ的扱いのニュースがメディアを騒がせ出して早二ヶ月と少し。
宇宙港行きのライナー車内のパネルディスプレイには、最早当然のよ
うにたった今も、有名な「リヴァイアス事件」において輝かしい功績を
残した英雄たちの勇姿が---その殆どが信憑性の欠片もない「実話」を基
にしたとされる陳腐な再現ドラマの類だ----実しやかに垂れ流されてい
た。
「流石にもう見慣れたけどさ」
忌忌しいディスプレイからあからさまに目を逸らす祐希の気も知らぬ
げに、並んで座った座席の背に薄い身体を預けた昴治は「実話」ドラマを
のんびりと見上げて言ったものだ。
「肝心の「英雄」たちに限って、演じてる俳優陣より本人たちの方が
美男美女だってのは、やっぱりちょっと・・・・っていうか、かなり微妙だ
よな」
自分の言葉に自分で得心して肯く呑気者に、何とも言い難いやるせな
さを感じて祐希は心中でのみ舌を打つ。
一般常識と兄が許すなら、この下らない映像を映し続ける機材を即座
に粉々に砕いてやるのに。
そう思わずにいられないほどの憤懣を祐希が飲み下したのは、そんな
憤りの理由をもし昴治に問われた時、自分が答えに窮することが解り切
っていたからに他ならない。
画面の中ではおりしも、祐希がらしくもない忍耐を振り絞らねばなら
ないシーンの1つが繰り広げられていた。
時期は漂流の当初、エアーズ・ブルー体制期の最高潮。多大なストレ
スに塞いでいく皆の心情を慮んばかったツヴァイ首席の美しい少女が、
冷徹にみえて実は誰よりも規律を重んじる青髪の支配者に、衆目の中、
怖じけることなくある催しを提案する名場面だ。
勿論事実は異なる。かの「馬鹿騒ぎ」の実なる発案者は、いま隣で相
変わらず寝惚けた言を吐く----「この女優も結構可愛いんだけどなあ。
やってる役がユイリイじゃ、流石に分が悪いって」----祐希の兄そのひ
となのだから。
我慢ならない描写はこれだけに止まらない。
火星上でのリフト艦とブラティカの奇跡の邂逅。おそらくは兄弟であ
ったからこそなせた業と後にイクミに散々揶揄われたそれは、選りにも
選って、エースパイロット相葉祐希とツヴァイ班長ルクスン北条の閃き
の故、などと捏造されていたり。
ハイペリオンの虐殺----あの折の裏切りの顛末が、大人の理不尽な所
業で故郷を失い、そのショックでカリスマ性という求心力を無くしたが
為支配の座を追われたブルーをユイリイが匿い、そして心を近づけたな
どという恋物語に脚色されていたり。
荒れていく皆の暴走を止めるべく立ち上がった最後の指導者尾瀬イク
ミが、ツヴァイとともに敵対する軌道保安庁の艦隊へと決死の説得----
和解の申し入れを繰り返し、そして終にはそれを成し遂げたことにまで
なっていたりするのだ。
つまり。
ことが事なだけに、多少のダークな面は絶妙のスパイス。が、イメー
ジダウンに成りかねない行き過ぎた言動については歪曲、或いは寛大に
過ぎる解釈を施す。
その上いわゆる無名な「キャスト」の美徳、善行の全ては当然のように
「英雄たち」の行いに挿げ替える。
巷に溢れる、両手に余るほどの「実録再現ドラマ」は、揃いも揃ってこ
うして出来上がっているのだった。
不躾なデバガメどもがどれだけ偉そうに報道の自由がどうとか嘯こう
が、結局は「当局」の検閲が入って「そう」せざるを得なかったのか。
製作者らが捉える視聴者の望むものが、単純に「そう」であっただけの
か。
そんな事実は祐希にとってどうでもいいことだった。英雄だの何だの
と持ち上げられて悦に入るほど馬鹿でもない。要は風評になど惑わされ
ず、事実を識るものの目で嘘は嘘とただ静かに断じればいいだけなのだ、
こうして兄のように穏やかに。
それでも。
これほど昴治を蔑ろにされて、今の祐希が穏便でいられるはずもない。
月の間近で今か今かと兄の到着を待っている者たちにしても、きっと同
様の心持ちでいることだろう。
特にあの、祐希とは違うベクトルで兄を求めて止まない男であれば尚
更に。
唾棄すべき駄作のオンエアが終わってからも、祐希がそれに対する苛
立ちを治められない内にライナーは宇宙港駅に到着してしまった。
「当局からのたっての要請」で昴治たち兄弟は明日、去年の再出発に
は---昴治の右肩の治癒経過により---間に合わなかったかの黒い艦に乗
り込む。
救出劇から数えて約1年と8ヶ月の間、仕事で殆ど家にいない母を除
けば祐希は昴治と正にふたりきりで毎日を過ごしてきた。が、リヴァイ
アスでの暮らしが始まれば、勿論そんな訳にはいかないことは判り切っ
ていた。
兄の周りには以前のように当然ひとが集うのだろう。相変わらず他人
と交わることを望まない自分は、決してそこに立ち入ることも叶わない。
だからこそ今日----いまこの時さえもが、昴治が祐希とだけ居てくれ
る残り少ない貴重な時間だったというのに。
ライナーに乗り込んだ途端、終点まで剣呑な顔で黙り込んだままだっ
た弟を兄はどう思っただろう。
今更に悔しくて気まずくて、そっと盗み見た同行者はしかし、平素と
少しも変わりない様子で未だ立ち上がろうとしない祐希の腕を引いて急
かすばかりだった。
ホームに下りると、風景は雨のスクリーンを纏って淡く霞んでいた。
まだ8月の終わりの昼日中だというに、ぼんやりと白灰色に沈んだ空
が、宇宙港の敷地の端の上に億劫げに幾重にも覆い被さっていた。
「雨、降ってきちゃったな。ホテルまでは駅直結だから良いけど・・・・
朝日、大丈夫かなあ」
まろやかな頬に困惑の色を浮かべて昴治は呟いた。
今夜はここに建つ唯一のリゾートホテルの最上階にあるスイートルー
ムに予約を入れていた。
去年の祐希の誕生日がリヴァイアスの再出発当日に当たったことは勿
論偶然だが、旅立つ友人らを影ながら見送った兄弟は、そのまま今日泊
まるのと同じ部屋で一夜を過ごした。見送った当の友人たちと昴治から
の、祐希へのプレゼントとしての----もっとも兄自身はあおいらに丸め
込まれただけで、それのどこが贈り物として価値を持つのか未だ解って
はいないだろう---「ふたりきりの時間」を過ごす為に。
そうして今年もまた、リクエストを尋ねる兄に祐希は再び同じものを
欲してみた。そのスイートルーム最大の売りとされる「夜明けの風景」
に確かにふたりして感動した経緯から、昴治は弟のリクエストの真意を
疑いもせず今日の日に件の部屋をキープしたのだ。
祐希の誕生日当日よりも実際は3日早い、それでも二人きりで過ごせ
るぎりぎりの日程---即ち再搭乗の前日である、今日のこの日に。
けれど、いざ「贈り物」を渡す段になっての突然の雨模様だ。昴治に
してみれば、せっかく祐希が希望したそれを見せてやれないかもしれな
いことが心配でならないのだろう。
そんな兄に「本当に欲しいものは確実に受け取れる。だから気に病む
な」とは流石に言ってやれない祐希である。
「大丈夫だろ。あんたも俺も特に雨男じゃねえし」
最新技術の粋を凝らした施設の中に在りながら、せめて自分では些か
も信じていない根拠の無い俗説を掲げて嘯いた。
ここで幾ら思い悩んでも始まらないのは明白だ。そう自身に折り合い
をつけたらしい兄の後について、祐希は1年ぶりの祝いの場に歩を進め
た。
ホテルのフレンチカフェでふたりは遅い昼食をとった。
ビュッフェ形式の店であったことが決め手で、それを理由に選んだの
は、先の入院以降こういった店を顕著に好むようになった昴治だった。
スズメがつつく程度にしか食べないやつが何を言うか、と祐希はその
都度呆れたものだが、
「食が細ったからこそ有難いシステムなんじゃないか」
祐希が兄の小食を揶揄する----実際は身体を案じる余りの小言に過ぎ
ない----度、昴治はそう言って数多の料理をまさに一摘まみずつ栄養の
バランス良く皿に盛り付けてみせたものだ。
何しろ残さないですむのがいいよな、などとしかつめらしい顔で肯く
顎を掴み上げて、御託はいいからもっと食え、と肉片の1つも口に捻じ
込んでやりたいのをぐっと我慢する。
「少しくらい体重が落ちたところで、元々俺は丈夫だし。それに打た
れ強いしさ」
そう下した自身への評を負けん気などでなく、本当に信じている様子
の昴治を諭す術を未だ持たない祐希だったから。
唇を引き結んだ弟の様子をどう捉えたものか、
「あのさ、さっきのドラマ。もし、俺が気にしてると思ってるんなら」
どこかあやすような韻を滲ませて昴治は言った。
「それで機嫌悪くしてるんなら、全然大丈夫だから----って、何か言
い方変だけど・・・ホントに俺は何とも思ってないし」
まあ嫌な思いしてる奴も中にはいるかもしれないけどさ、と肩をすく
める様を見るまでもなく、実際昴治にはあの「再現ドラマ」に対する、
ほんの少しの頓着もありはしないのだろう。
どうしてこうもこの兄は、自分に対する執着が薄いのか。興味がない
訳ではないだろう。寧ろ自尊感情----自己の存在や在り様を尊重するそ
れは桁外れに強いように思うのに。
ひとに----それが特定の誰かであれ、不特定多数の他者であれ----認
められたい、必要とされたいという、欲と呼ぶにはささやかで平凡な願
望を昴治もまた、以前は確かに如実に抱えていたはずだった。
あのゲドゥルトの海の直中で、猜疑と絶望と裏切りの「凶弾」を余す
ところなくその身に受けるまでは。
ホテルスタッフの案内を断って、ふたりきりスイートルームのドアを
潜ったのは3時を少し回った頃だった。
宇宙港に数多隣接する施設には、ショッピングモールはもちろん所謂
アミューズメントパークなども充実している。故に今日のホストとして
気を回したのだろう兄の、まだ早いから何処か見て歩こうか、という提
案を極力やんわりと退けて、祐希は目的の部屋に向かうべくエレベータ
ーのボタンを押したのだ。
ついた早々、主寝室のダブルベッドの上に手にした鞄を放り投げ、そ
のまま無造作に寝転がる。
「祐希、靴」
遅れて入ってきた兄が土足状態の弟を見咎めて声を上げた。まったく
もう、と呆れた様子も有り有りと文句を零しつつ、少々乱暴に不躾者の
両の靴を取り上げていく。
されるがままになりながら、祐希はじっと兄を見ていた。幼い時分か
ら頗る見慣れた、一時は心底忌避したその姿を。
昴治の何が特に大きく変わったわけでもない。祐希にしても手にした
変化は僅かなものだ。相も変わらず兄は馬鹿真面目で頑固で鈍感で、自
分は短気で無愛想で天の邪鬼で。
それでも。
今はただ大切で―――ただ、愛おしくて。
「・・・祐希・・?」
黙したままの弟を訝しんだ昴治が顔を覗き込む。近付いた距離に抱い
た思慕がいや増して、反射のように掴んだ腕を引き寄せた。
離れたくない。これほど傍にいるのに。祐希は尚も想い焦がれる。
思い知ったのはあの黒い艦での悪夢の終焉。凶弾による失血と痛みに
耐えかねて、庇護するように抱き締めていた「親友」の腕の中に崩折れ
た兄を見た時だった。
幼馴染みとあの男が悲鳴を上げなければ、きっと祐希こそが叫び喚い
ていた。出遅れたそれに背を押され、駆け寄った先で小さな身体を抱え
込んだ男を力の限り突き放した。八当たりであることを承知の上で。
失えない。この存在をなくした祐希に世界は意味を持たない。識って
いたのに。忘れてさえいなかったのに。ただ駄々をこねていた。必ず許
してもらえることを前提に我儘を重ねる、頑ぜない子供のように。
「祐希、苦しい」
気付けば兄は腕の中にいた。胸に強く抱き寄せていたらしい。不自由
な体勢で半分だけベッドに引き上げられた昴治は、少しでも楽な恰好に
なろうと身じろぎながらも弟の腕から逃げ出す素振りひとつ見せない。
ただ、愛おしい。それはきっと、昴治もまた同様に。
それでも。
腕に抱えた兄の辛そうな様子に、渋々と僅かだけ両手の力を緩めた。
それで漸く後ろ抱きにされる形に姿勢を整えた昴治は、ほっと息をつい
てから遠慮なく祐希に体重を預けてきた。
痩せた身体。身長に少しも見合わないその軽さに、胸の奥がちりちり
と痛んだ。
「・・・お前が解っててくれれば」
自分を抱く弟の手に自身のそれを重ねて、
「俺は、それでいい」
独り言のニュアンスで昴治は言った。台詞はいっそ自暴自棄を思わせ
るものであるのに、声に滲むのは大層満足気な彩だった。
先刻の会話の続きなのか。常日頃祐希が案じる兄の「頓着の無さ」に
関わることか。如何を語らない昴治に、敢えて問い質すことはしなかっ
た。
兄の中に祐希はとうに確かな居所を持っていた。それが嬉しくて、お
こがましくて。
目眩いが、した。
堪らずに頬に触れる柔らかな髪に唇を寄せた。身に馴染んだシャンプ
ーの香りが、これまでの蜜月の名残りのように祐希の心臓を締め付けた。
明日になれば、兄は祐希の手を離れ待ち望んだ新しい途を征く。
当たり前のように友人らに囲まれて、様々な事柄に興味の帆を広げ、
その眼差しは数多のものに向けられていくだろう。
けれども。
「―――俺は」
祈りを捧げる想いで言った。
「あんたが在れば、いい」
求めるばかりだった自分には詰め腹を切らせた。大切に守ること愛お
しむことと、傍に縛りつけ服従を強いることは決して同義語でないのだ
と漸く、本当に今更ながら心で理解したから。
自分は兄の歩まんとする未来の足元を照らす灯火となろう。
歩き疲れた時には、その身体を休ませてやれる緑濃き大樹に。
兄の胸の内の奥、普段は仕舞い込まれていても構わない。本当に必要
な時に手を伸ばし、彼を護れる場所に祐希は確かに在るのだから。
祐希の呟きに、じっとされるがままだった昴治がそっと身を起こした。
触れていた両手で祐希の拘束をやんわりと解いて、子猫が腕の中で身
を返すように、少しだけ伸び上がって弟の眼差しに自身のそれを合わせ
た。
口に出しては、兄は何をも語らなかったけれど。
まろやかな頬に浮かぶのは、花蕾が綻ぶような微笑。
祐希と同じ蒼の瞳に溢れるものが至上の歓喜であるように思うのは、
はたして身に過ぎた願望だろうか。
両の手で弟の長過ぎる前髪を優しく掻き上げて、小さな子供にするよ
うに昴治は額をこつんとぶつけた。そうして、ぎゅっと抱きしめる。
懐かしい、幼い頃からの兄のいつもの所作だった。
触れたところから伝わる体温に後押しされて、祐希は今度こそ正面か
ら兄を抱き込んだ。
互いの息遣いの他に聞こえるものもない空間に、レースのカーテンを
引いたようにふわりと淡いオレンジの光彩が射した。
「・・・夕日・・だ」
何時の間に雨が止んだのかには気付かなかったけれど。言わずもがな
の昴治の呟き。安堵と喜びを含んだそれが、何に起因するかを勿論祐希
は知っていた。
穏やかで、未だ稚い幸福な時間の開幕ベルが鳴る。
いま---祐希の胸の奥でだけ、高らかに。
<END>
「いつか あるとき」完結記念+祐希BD小話でした。
何とこのふたり、これでまだ無自覚であったり・・・(笑)