自室のベッドの上、相葉昴治は今日幾度目かの溜息をつく。
頃は12月の中旬。
恋人たちの祭典の筆頭に数えられるクリスマスを間近に控え、リヴァイアス艦内にも華やいだ空気が漂い始めていた。
相変わらずというべきか、総括課に所属する昴治にとって、大小様々な催しの発生するこの季節は確かに何かと気忙しい時期ではあった。
けれどいま昴治の気分が梅雨前線真っ只中なのは、決して担当業務への不満などからではない。
理由はたった1つ---先々週の休日からこっち、弟である相葉祐希の機嫌が、ここ一年では考えられないほど最悪を更新し続けている為だ。
とはいっても、祐希の兄への態度だけは変りがなかった。あの救助劇以降、ぴたりと止んだ暴力と暴言も、それまでと打って変って昴治を避けて通る素振りも。
話しかければ取り敢えずは立ち止まり、振り向いて見せるその仏頂面にさえ、目立った変化はないというのに。
(未だにその程度の仲なのに・・・俺の言った事くらいで、祐希が---まさか・・)
どうにかしてよ、と日々訴える親友のウラミがましいベソかき顔が頭を過る。何故ならば。
荒れた弟の不機嫌の集中砲火は、専ら祐希が所属する操船課、特に昼夜を共にするヴァイタル・ガーダーチームが食らうことになったからだ。
中でも、よほど気に触るのか気を許しているからなのか、祐希の尾瀬イクミに対する態度には欠片も容赦がないのだという。
何がどう容赦ないものか、聞きたくも恐ろしくもあるけれど。
(だからって、謝る---ってのも・・・変だよなあ)
独りごちてまた溜息をついた。
苦り切った親友が愚痴に程近い口調で昴治に進言してきた、祐希の不機嫌の原因を半信半疑ながら心中にもう一度反芻しつつ、昴治は弟へのフォローの仕方を思案した。
「年末の休暇?いいよ、代わっても。大丈夫、実家には前回も帰ったしさ。用事も約束もないし」
先々週の休日の午後、レストハウスで課の後輩と交した、何気ない一言。
同じテーブルにはイクミの他に蓬仙あおいと和泉こずえ。そして隣り合わせのテーブルにはカレン・ルシオラと、大層稀なことに---祐希が、在たのだ。
<黒>のリヴァイアスは程なく、月の軌道に到達する。
月面宇宙港に着岸し、クルーらにいつもの下艦許可という名の休暇が与えられるのは、およそ半月後の所謂年末年始の頃になるだろう。
前回地球圏に立ち寄った時には、祐希は艦の残留組に当たっていた。
休暇組だった昴治はあおいは勿論、イクミら友人を引き連れて故郷へと降りて行った。実家に帰るにあたって、祐希に一言の声をかけることもなく。
小鳥のさえずりのような甲高いエラー音が、ヴァイタル・ガーダーのコックピットルーム内に響いた。コントロール・パネルに向かい忌々しげに舌をうつ祐希以外には今、実習を終えたこの部屋に人影は無い。
弟を顧みることなく帰省した兄を恨めしく思ったわけではなかった。当時の、いや今現在でさえ遠く隔たったままの関係の中で、昴治が自分にどんな言葉をかけられた筈もないのだから。
けれど。
だからこそ。
お互いが休暇となったこの機会に、祐希は兄とともに帰省しようと考えていた。あおいとこずえ、そしてカレンが居残りの順番であり、恋人に付き合ってイクミも休暇を月で過ごすのだという、祐希にとってはこの上なくありがたい好機であったからだ。
年中忙しい母も正月前後くらいは家にいるだろう。それでも二階の自室に上がってしまえば、間違い無く兄と二人きりになれる。
今なら、正味一週間の休暇中という時間制限ありの状況でなら、祐希が歩み寄りたいと思っていることだけでも、昴治に伝えられる---きっと、今度こそは。
そう考えていた矢先だった。兄が祐希の目の前で、後輩からの休暇交替の申し出をたやすく引き受けたのは。
再び室内に入力ミスのエラー音が響く。
分かっている。昴治は祐希の決意など知らない。意図しての行為ではなく、ただ持ち前の人の良さを発揮しただけなのだ。
分かってはいる---けれど。
長過ぎる前髪を煩わしげにかきあげた。仲違いの当初、だらしないからいい加減散髪に行けと、眉を顰めて言う兄に反抗し、以来伸びるに任せた髪だった。
端末をおとして席を立った時、カレンが勝手に寄こした「V・Gメンバーお土産希望リスト」なるフザケたものが、ふわりと舞って床に落ちた。
一行目のカレンのすぐ下に、当たり前のように書き込まれたチ−ムリーダーの達者な文字が目に止まる。
「何よ、祐希のイケズ!そんなにイヂワルすると、お兄ちゃんに言いつけちゃうからっ!」---ここ最近の、ウサ晴らしとも言うべき祐希の理不尽な振るまいに、とうとう堪忍袋も寿命を迎えたのだろう---自称穏健派の操船課班長が、男前も台無しのフクれっ面をぶら下げ噛みついてきたのは、今朝早々のことだった。
(だからって今のあいつが、俺に何か言ってくるはずなんぞ・・・ねえんだよ)
祐希が諍いを起こそうが、どんなに良い成績を打ち立てようが、昴治はいつでも何事も無かったような顔をして通り過ぎるばかりだ。
もう決して傷付けまいとあの救助の際に決めてから、以来一定の距離と平静を守ってきたことが、弟を顧みることを止めた兄との隔たりを否応もなく広げていく。
遠くからただ見ているだけでは駄目なのだ。あの鈍感な兄に少しも伝わりはしない。
とは思っても、元来の頑なさに加え照れを抱え込んだ今の自分が行動を起こすには、やはり二人っきりになれる---しかもそれが自然なシュチエーションが不可欠だった。
今日もまた消化不良な気分のまま自室への途を辿っていると、IDカードが一通のメール着信を告げた。
発信人は----相葉昴治。
様々な感情が入り混じったその緊張のためにか、微かに震える指で呼びだしたメッセージは、僅かこの一行。
部屋で待ってる。
驚きのあまり、祐希が数分その場に立ち尽くしたことは---言うまでもない。
「いらっしゃーい!もう、遅いじゃないですか!祐希クンっ」
開いたドアの内側で祐希を出迎えたのは、普段のテンションを三割増高くしたイクミの笑顔だった。漂う酒の匂いから、宴もたけなわである事が容易に知れた。
なるほど、と祐希はようやく諒解する。
自分を待っていたのは兄ではなく、適当に酔いのまわった客たち、しかもその酒の肴とするべく呼ばれたに過ぎないのだ、と。
コールの発信元に気を取られ、こうした「予想の範囲内の状況」を失念していた自分に舌打ちをして、無言のままに踵を返した。
もとより付きあってやる義理など祐希にはなく、まして他人と楽しげに振舞う兄を間近で見ている以上に、苦痛なことなどないのだから。
「ああーっ、祐希が逃げる!こーじ、ゆーきが逃げるよおっ」
聞き捨てのならない台詞をもって、あおいの声が追いかけてきた。思わず足を止めてから、その口調の怪しさに歩き去らなかった事を後悔する。次いで後ろから伸びてきた手が、祐希の袖にしがみついてきた。
「どこいくんだよぉ、ゆーきっ」
聞き違いようのない、独特の声音。飛び上がるほど驚いて振り向けば、はたして---とろんとした瞳で祐希を見上げていたのは、他でもない兄本人だった。
「ほらあ、はーやーくーこいってばぁ」
掴んだ腕を両手に抱えこんで、昴治は弟を自室に引き入れようとする。元々の腕力の差に加え、酔って脱力した兄から逃れることなど、祐希には造作もなかったけれど。
触れられている利き腕から伝わる、その懐かしい温もりを振り払うことはしなかった。
狭い個室には、想像した通り---他にあおいの親友を含めた---四人分のグラスや皿、フォークなどが乱雑に広がっていた。イクミの恋人でもある長い髪の少女はともかく、兄やあおいがこの「惨事」に眼くじらを立てないところを見ても、二人の酔いっぷりはホンモノであるようだ。
ヨタヨタした足取りで部屋を突っ切り、兄はベッドの上に膝を揃えた。すかさず周囲の皿などを避けてやった動作から、イクミはその素振りほど酔っていない事が知れる。
「ゆーきはここ。ここにー、すわりなさいっ」
昴治はベッドの中ほどを手のひらでペシペシとたたいて示した。諦めの境地に立った敗戦国の兵隊の気分で、祐希は指示通りの場所に胡座をかく。
「・・・一体どんだけ飲ませやがった」
明らかに面白がった表情で傍らに立つ、所属課班長のにやけ顔を睨めつけた。いつもは過ぎるほど良く回る口を開くことなく、イクミはウインク1つを残して女性陣の呼ぶ方へ向き直った。
これはここ最近の八当たりに対する報復か。はたまた祐希の荒れた気を治めるための、懐柔策なのだろうか。
軽いめまいに襲われつつ考えを巡らせる暇は、しかし祐希には与えられなかった。
「ゆうきのばかっ」
声と同時に柔らかな衝撃が顔面に直撃した。手元にぽろりと落ちてきたのは兄が投げつけた枕だ。ほんの一時イクミに気をやったせいで、緩慢この上ないはずの昴治の動作を見逃したらしい。
「何すん・・・」
「きけったらっ、おれのはなしっ」
酔いに染まった頬を膨らませて、兄は祐希を睨み上げた。
昴治はすこぶるアルコールに弱い。つきあいの良い気性から、酒の席につくことは祐希より当然多いというのに、少しも身体が慣れるふうもなく。
その上普段が---自覚が有る無しはともかく---鷹揚に構えている故にか、自制のたがが外れた時の有様は口にするのも憚られるほどだという。
つまり。
身近にいる者が皆口を揃えるほどに、兄は酒癖が悪い。しかも世間で最もタチが悪いと言われる、よりにもよって「説教酒」なのであった。
「だいたい・・・なんでおまえはぁ、イクミにばっかメーワク・・かけんだよ?」
今にも眠気に閉じそうな目をしばたかせながら、昴治は揃えた膝先で擦り寄ってくる。
「・・・うるせえよ、俺のすることに口出すな」
周りの者たちの耳を意識した、お約束の反駁。
しかしそこにこれまでのような突き放さんとする勢いは無かった。祐希にその意思がない上に、こんな酔っ払いに何を言っても意味が無いのは明白だったからだ。
それにしても---祐希は心中で首を傾げる。
再搭乗してからの兄は何に対しても自然体で、日々忙しく立ち働いている中にあっても以前のような気負ったところもなく、心情的には余裕さえ感じられるふうであったのに。
酒に紛らわせずにはいられない、そんなウサを抱えているようには見えなかった。祐希のことにしても、自分の中でだけ何がしかの整理をつけてしまったのだと、そう考えていた。
なのに今更、何故。
「---なんで?」
兄の瞳がことさら潤んだように思った。
「な、何でって・・・なんだよっ」
些かギョッとしてベッドの上を後ずさる。
「だってイクミが、おれのせいだってゆうんだもん」
「は?」
「だからぁ、ゆーきがおこってんのはー、おれが・・こーたいしたからだって」
所謂酔っ払いの戯言だった。話しの繋がりも主語もあったものではない。しかし祐希が絶句したのは決して呆れからではなかった。
端で盛り上がる、知らぬ素振りの二枚目面を振り返る。
「言ったでしょ。いいつけてやるって」---その横顔は確かにそう語っていた。
「くちだし、じゃあ・・ないのに・・・」
先程転がり落ちたまま脇にあった枕を掴んで、昴治はそれを両手でぐいっと祐希の胸に押しつけた。
「しんぱい、なのにっ・・・なんでだよ?」
「兄貴---」
「なんで、イクミなんだよ・・・なんでおれにゆわないんだよっ、なんで・・・」
枕を挟んで突っ張らせた腕に顔を伏せ、昴治は肩を震わせる。
「なんでおれがこーたいして・・・おこんだよ?」
幼い子供のような拙い口調で兄は「わかんない」と繰り返し、その都度枕を押しつけた。昴治が泣き出すのではと、そうさせる事への苦痛に耐えかねて祐希が口を開こうとした時、
「おまえなんか、どーせ、おれのこと・・きらいなくせに・・・っ」
むくりと顔を起こしたが早いか、兄は手にした枕を思いきり振り上げた。それが利き腕であることを見咎めて、祐希の背筋が凍りつく。
取り戻した絆の代償としてその細い右肩に刻まれた、深刻でない分だけなお痛々しい、決して消えることのない---「傷跡」の故に。
考えるより先に身体が動いていた。捕らえた右手首を引き寄せて、痩せた背中を胸に抱えこんだ。行動を阻まれて昴治はじたばたと暴れたが、そんな抵抗など祐希には何ほどの事もない。
「ばかっ、ゆうきのばかっ、おればっかり・・・!なんで」
兄の半分上擦った声音が直接祐希の胸をたたいた。
「なんで・・おればっかり・・・おればっかり、おまえがすきで・・・っ!」
------一瞬のホワイトアウト。
不意打ちであった。知らず脱力したその隙に戒めを逃れ、昴治は反撃を返してきた。祐希のシャツの両襟を握りしめ、身体全部でぶつかってきたのだ。
平素であればたやすく受けとめたろうその衝撃を予測し得ず、情けなくも祐希はそのまま後ろに倒れこんだ。気付けば自分の上に馬乗り状態になっていた兄を呆然と見上げ、そこでようやく周囲に他人の目があったことに思い及ぶ。
慌てて視線を巡らせた先に、しかしイクミらの姿はなかった。何時の間に出て行ったものか、狭い室内には今や祐希と昴治の二人だけだった。
(これも「貸し勘定」に一つ足しかよ・・・尾瀬のクソったれ)
苦々しく祐希は独りごちた。ではやはりこのお膳立ては懐柔策であるのだろう。
「めーわくは、おれにゆえっ。ひとにかけんな!きーてんのかぁ?ゆーきっ」
「・・・・・・聞いてる・・」
弟を押し倒した状態のまま、昴治は理屈が通っているのかいないのか分からない台詞を口走る。
そう---昴治はこの上もなく酔っているのだ。今の兄の言うことを鵜呑みにして、一喜一憂するなど馬鹿げている。
解ってはいる、けれど。
「だからー・・なんで、おこってんの?---きらい・・・だから?なにしても、ムカつくからか・・・?」
高ぶった感情に潤む瞳は、ただ真っ直ぐに祐希だけを見ていた。
「なんか・・・いえよぉ、ゆうき・・・っ」
祐希の答えだけを望み、兄はこの身に縋りつく。決して昔のように与えられることなど、二度とはないと諦めていた、体温を伴った触れあいをもって。
緊張に強張る指先を伸ばし、俯いてしまった兄の髪に触れた。記憶の中のそれと寸分違わぬ柔らかな手触りに、胸の内の何かが疼いた。
祐希の行動に驚いてか、もの問いたげに見返してきた兄の眦は濡れていた。
「・・・ゆう・・き・・?」
「---泣くな・・」
両手を頬に滑らせて、雫れかけていた滴を拭う。
告げられた言葉の意味に一呼吸遅れて気付いたのだろう、昴治は幼子のように赤らんだ頬を膨らませた。
「ないて・・ないっ」
「そうかよ」
強がる素振りを可愛いと感じ、よりにもよって昴治相手に、そんなことを思った自分が可笑しくて笑った。
反論に少しも取りあわない弟への不満に眉を寄せ、
「なーいーてーなぁいっ」
兄は祐希に馬乗りになったまま、その胸元のシャツを握りしめて身体を揺さぶった。
「っ何すんだ、バカ兄貴。止めろって、ガキかてめえは」
「どーせバカだよ!ゆうきのばかっ、だからきらいなんだろ・・・!」
「・・・っ」
「きらい」と兄が口にする度、祐希の胸を突かれるような痛みが走る。
昴治は両手で顔を被い、
「だから・・・おこるんだろ・・・」
そのまま祐希へと折重なるように背を丸めた。見上げる姿勢の祐希から兄の表情は伺えない。
「・・・嫌いじゃねえよ」
堪らずに言った。
けれどその弱腰の語調に比例するように、昴治はふるふると首を横に振った。祐希の言動のこれまでを振り返れば、昴治がにわかに信じられないのも無理からぬところだった。
「本当だ」
一向に自分を見ようとしない兄の両腕をとって、祐希は根気良く繰り返した。
「・・・うそつき・・」
「本当だって」
「うそ・・」
「ホントだっつってんだろ!」
思わず荒げた声に昴治が身をすくませたのが分かった。己の失態に舌を打ち、祐希は手の中の痩せた身体をより引き寄せた。
「嘘じゃない・・・交替の件も、怒ってなんかないんだ。尾瀬にはちっと・・・あたったかも、しれねえけど---俺はただ・・・この休暇で、あんたと一緒に家に帰るつもりだった。だから・・・何か、肩空かし食らったような・・勝手にそんな気になって」
「---え・・・」
酔いに浮かされた昴治が、祐希の告白をどこまで理解したかは定かでない。それでも強ばったその身体から、少しずつ力が抜けていく。
「勝手に、自分にムカついてただけだから---あんたが気にすることなんぞ、本当に何にもねえんだよ」
いつにない穏やかな物言いに、瞳を驚きと困惑の色に染め昴治は改めて弟を見下ろした。
「・・・おれといえに、かえる気だったんだ・・?」
「ああ」
「おれのこと---もう・・・きらいじゃ、ないんだ?」
「ああ・・・そうだ」
自身の頬を離れた兄の手が、所在無げに祐希の胸に置かれた。そのまま肩口に滑らせた手のひらに倣うように、昴治は祐希にまたがった姿勢から添い寝の形へとその身を移動させる。
「・・・なんで・・・はやくゆわないんだよ---そしたら、おれ・・」
「---そうカンタンに、言えっかよ」
気恥ずかしさにそっぽを向いた祐希の首に、やんわりと昴治の腕が回された。弟の肩口に顔を埋めた兄の柔らかな髪が、祐希の頬に優しく触れ甘やかな芳香を放つ。
「もう・・・イクミにめーわく、かけないよな・・?」
「---あいつ次第だ」
憎まれ口に応えるように細い指先が祐希の髪をくしゃりと撫でた。
「ばかゆう・・き・・・」
安堵にか穏やかになっていく囁きの度に、兄の吐息が喉元にかかる。胸の疼きは強さを増して、祐希をひどく落ち着かない気持ちにさせた。
ほんの数分自制に務める間に、気付けば腕の中の兄はすでに寝息をたてていた。
その眠りを妨げぬよう、僅かに身をずらし昴治の寝顔を窺った。見下ろした幼い貌に浮かぶ、安らかで満たされた表情に安堵の息をつく。
「こんなに酔ってちゃ、どうせ明日には覚えてねえんだろ。バカ兄貴・・・」
残念な気持ちとそれでいいという思いが、胸中で交錯している。今の祐希にとってはまだ、どちらもが嘘であり、またそのどちらもが真実であるから。
兄の自分とは少しも似ていない明るい色の髪を梳いた。指に残る感触に突き動かされて、ついさっき抑えこんだ筈の衝動が、抗い難い激しさで祐希の背を後押しした。
「・・・フェアじゃ、ねえよな」
承知の上で、口付けた。
(---おればっかり、おまえがすきで・・・っ!)
酔いが言わせたに違いない、まして意図する意味さえ違うと承知の一言をなけなしの言い訳にして、祐希は兄の唇を幾度も盗んだ。
結局今夜は口に出来なかった、至上の「告白」への返事に代えて。
自室のベッドの上に半身を起こした状態で、昴治は止まない頭痛に苛まされながら、近来稀に見る驚愕に身を固めていた。
(何で、祐希がここに・・・俺の部屋で寝てんだよ?しかも---一緒にベッドで・・・)
部屋中に満ちた酒臭さと散らかり具合で、夕べ自室で宴会をしたことはすぐに思い出せた。せめてウサ晴らしに付き合えと、酒やツマミを抱えたイクミが恋人とその親友を引き連れてやって来たのだ。
自分の酒癖を知る---人から聞くところでは、最悪だという---身では乗り気になれないのが正直な気持ちだったが、そのウサ自体が弟の仕業である以上、昴治に否やの言えよう筈もない。
(やたらイクミのペースが早くて、なんかつられるようにグイグイいっちゃったんだよなあ。そのせいか、殆ど覚えてないっていうか・・・)
祐希が自分からこの部屋を訪れるはずがないから、どういった理由をつけてかイクミ、あるいはあおいが強引に呼び寄せたのだろうけれど。
(もしかして・・・俺、こいつに・・ムチャクチャ絡んだり、してないだろうな・・・)
血の気の引く思いで弟の寝顔を見下ろした。
目を覚ました時、あろうことか昴治は祐希と殆ど抱き合うような恰好で眠っていた。揃って着替えもしておらず、昴治は弟の肩に頭を預けて、弟は片腕を兄の肩に回して。
驚きに心臓をばくばくさせながら起き上がる時にも、祐希の目を覚まさないよう、その腕の下から這い出すのに苦労したものだ。
祐希との関係が現状のままでいいとは思っていない。昔のように片時も離れずになどとは望むべくもないが、せめてもう少しだけ歩み寄りたいと、心から願う昴治だった。
だからこそこんな酒の上での失態で、その距離をなお広げることにでもなったら。昴治は絶対に自分を許せないだろう。
祐希が目を覚ましたら---その際の第一声を心中で必死に検討した。
そしてふと、視線に気付く。
何時の間に起きたのか、祐希はまだ横になったまま、眠気に眇めた目で昴治をじっと見ていた。何かを確かめようとするふうに。
「お、おはよう。祐希」
結局口をついたのは、何の変哲もないいたってシンプルな台詞であった。それでもやはり、どこか腰が引けていたのは否めない。
祐希は一つ大きく溜息をついてから、のっそりと起き上がった。「やっぱりな」と小さく呟いて、煩わしげに前髪を掻き上げる。
「え?何---」
思わず身を乗り出すと、
「・・・あんた、頭痛は」
顔も見ずに言って、祐希は早いつもの身のこなしでベッドから降り立った。
「う・・・ちょっと・・」
「だろうな。あの様子じゃ」
もう一度息をつき靴を履き始める。その横顔に、けれど昴治が危惧した怒りや侮蔑の色はなかった。それどころか、むしろそこには。
ベッドの上に座り込んだまま呆然と見返す兄へと、祐希は肩越しにちらりと視線を寄越した。
「具合悪いんなら寝とけ。総括課には連絡してやる」
「祐希・・・?」
明らかに昴治へと向けられた、いたわりの言葉。一体何が---昨夜の内に、自分達二人の間に何かとてつもない事が起こったのだろうか。
「・・・ええと・・」
パニック寸前の兄を振り返ることなく祐希は上着に袖を通した。ただ一言、
「言った事の責任は、とってもらうぜ」
昴治が全身硬直に陥る言葉を残し、弟は悠々と部屋を出て行った。
その頬に悪戯小僧の笑みが浮かんでいた事に、爪の先程の余裕もない兄が少しも気付けなかったのは、言うまでもない。
「---責任・・・って、何のだよ・・・っ?」
どうやら事態は知らぬ間に好転していたらしい。が、あまりにも恐ろしい予言じみた祐希の「捨て台詞」に、新たな悩みを抱える羽目の昴治であった。
事実その「言った事」を巡って、兄が弟に翻弄される日々が始まるのも---そう遠い未来の話ではない。
END
人生はバラ色だ