一夜の戯れ
兄と喧嘩をした。
正確にいえば祐希の嫉妬の度が過ぎて、ここ何年も弟に対し、大層寛容であった昴治を一方的に怒らせてしまったのだ。
もっとも祐希の行いが嫉妬の故であったことに、あの兄が気付いていたかどうかは定かでないが。
「お前なんかもう知らない!」
怒りに頬を紅潮させ踵を返した昴治は、一度も祐希を振り向くことなく、足音も荒々しく歩き去った。あまりの剣幕に祐希は、腹を立てていたその相手共々、呆然と兄を見送るしか出来なかった。
午後三時過ぎ---今から八時間前のことである。
(どこほっつき歩いてやがんだ、あのクソ兄貴・・・)
他でもない昴治の方から「一緒に暮らそう」と望んでくれた、いつもは世界で一番心地好いこの二人部屋が、あの小さな身体を欠いただけで馬鹿馬鹿しいほど広く、空虚な空間に感じられた。
(夜弱いクセに、明日も早えのに・・・ったく、いつまでヘソ曲げてやがんだよっ)
心当たりを探すなり、IDにコールしてみるなり、建設的な対処があることは承知している。それでも祐希が胸中で悪態をつきながら自室で大人しくしているのは、やはり兄への後ろめたさ故に他ならない。
(それもこれも---あいつのせいだ、エアーズ・ブルー・・・っ!)
諸悪の根源であるところの兄の友人---己にとっては仇敵ともいえる男の、傍若無人な澄まし顔が思い出され、祐希は忌々しげに舌打ちをした。
柔和な容貌と人当たりの良さ故にか、昴治には昔から友人と呼べる対象が少なくない。しかしその全てが本来の気質ではなく、ある程度兄の努力によるものである事を識っているのは自分と、やはり共に育ったも同様の幼馴染みくらいなものだろう。
誰に対する時でも、ほんの微かに見え隠れする昴治のそんな「努力」が、以前の祐希の目には卑屈で計算高い態度に思えて堪らなかった。
幼い頃から兄に抱いていた身勝手な理想を汚されていくようで、目の前にいる実際の昴治への嫌悪を抑えることが出来ずに、傷つけ続けた。
けれど、時を経た今。
祐希は自分で作り上げた偶像に決別し、真実の意味で兄と向き合える男になった。そうして漸く昴治をこの手に抱くことが叶ったのだ。憎まずにはいられないほどに求めた、祐希にとって唯一絶対の存在である兄を。
その愛おしい恋人が何の躊躇も気遣いもなく、本人さえ無意識の「努力」すら示さずに接することの出来る人間は、今でもごく僅かだった。
一度は寄り添い、やがて互いの意思を持って新たな絆を繋いだ幼馴染み。
己の全てを投げ出してまで、狂気の淵から連れ戻ることを願った親友。
このリヴァイアス自体ともいえる、少女の姿を模した異種生命体。
そして---かつて利己的な思惑をもってリヴァイアスを支配した、あの男。
(---何で・・・あいつなんだよ)
あおいは勿論、今やイクミにしても致し方ないと諒解している。スフィクス・ネーヤに至っては、是非を論じる気にもならない。
しかし昴治が何故あの男を特別視するのか、祐希には合点がいかなかった。
兄があの銃を手にしていた事からして、「漂流」の終末で二人に接触があったのは確かだろう。
であれば一体、それはどれほどの---
(・・ったく、あのバカ兄貴っ・・・俺にだってまだ、あんな顔・・・見せねえくせに)
主人の腕の中にいる子犬のように無防備な、心安らかな笑顔。
身も心も許したはずの祐希には向けられない表情をどうして、他人であるエアーズ・ブルーには惜しげもなく与えるのか。
「文句の一つも出ようってモンだろーが・・・っ」
思わず口をついた祐希の独白に応えるように、来客を知らせるコールが鳴った。
久しぶりにブルーと顔を合わせた。
リフト艦での所用の帰り途で行き合ったのは、昴治にして嬉しい偶然だった。同じ艦の乗員であるというのに、その規格外な広さの為か滅多に会う機会のない友人であったからだ。
「うちの総括課と警邏課って、本来もっと行き来がありそうなもんなのにな」
常々不思議に思っていたことを告げると、
「何事もない証拠だ」
寡黙な警邏課班長はいつもの何の抑揚もない声音でそう言って、まぶしいものを見るように少しだけ目を細めた。
多くの者たちにとってエアーズ・ブルーという人間は、未だスフィクス・ネーヤと同じかそれ以上に不可解な存在なのだ、と情報通の親友は言う。
「そんなことはない、話してみれば分かる」などと偉そうに講釈出来るほど、彼を理解しているとは自惚れていないから、昴治も敢えて多くを語りはしないけれど。
無表情な美貌に時折見え隠れする気遣いや、ほんのささやかな喜怒哀楽---というほど激しいものでもないが---を目や耳で「知る」のではなくただ「感じる」時、昴治はブルーとの確かな繋がりを認められたことが嬉しく、どこか温かい気持ちになる。
9対1の比率ながら穏やかな会話を交わし歩くうち、
「寝不足か」
一つとはいえ自分より年少とは到底思えない、どこまでも沈着な横顔が聞いた。突然の問いに知らず立ち止まり首を傾げる。ブルーは同じように足を止め、整った指先を静かに伸ばして昴治の前髪をそっと掬った。
「顔色が良くない。無理はするな」
憮然とした表情は昴治の身体を案じてくれているからこそと解る。率直であるのに素直でないそんな様子がどこか弟に重なって、照れくさくもくすぐったい気分に頬が緩んだ。
---あんたがどうにかなったら、困んだろ。
---そうでもないと思うけど。お前やイクミじゃあるまいし。
---バカ兄貴っ、俺がだよ!
「同居」を始めてかれこれ半年を数える同じ姓を持つ想い人と、いつか交わした軽口をつい思い出し、その気恥ずかしさを振り払うべく昴治は慌てて声を上げた。
「次の寄港地が近いから、ちょっと立て込んではいるけど。でも大丈夫、これで結構頑丈だしさ」
勢いに任せて、細い二の腕に力コブを作るポーズをとってみた。欠片も信じないと言いたげにブルーは片眉を上げ、昴治が持ち上げていたその手首を握り込む。
「確かに頑丈だ。こんな細腕であの厄介な”弟ども”を一手に、引き受けているんだからな」
やんわりと掴まれた手から、何時になく饒舌なその口調から、ブルーの情が染み入ってきた。見上げるほど長身の友人の貌の中に、寄る辺ない子供の不安を見た気がして、昴治は自分を捕らえたままの強い腕にもう一方の手のひらで触れた。
その時だった。
突き刺さるような視線を感じて振り返った先---数メートルと距離を隔てていない位置に、ひどく険しい顔をした弟の姿を認めた。
祐希の無愛想はもはや地顔といっていい。少々大袈裟に見えるその形相も単に、イクミやカレン、果てはあおいにまで「祐希のインネンのライバル」と言わしめた、エアーズ・ブルーを前にしているからか。
実際には今の祐希がイクミらの囃し立てるように、ブルーに対し荒っぽく突っかかっていく事など滅多にないのだけれど。
それでも最近になく剣呑に過ぎる様子を案じて、昴治は仲裁に入るべく祐希へと歩み寄った。せめて「兄が止めるから今日は見逃す」という理由を与える為に。
弟の名を口にしつつ、宥めようと伸ばした利き手を些か強引に引っ張り寄せられた。
「うわ・・・っ!」
驚いて祐希を見上げた時には、昴治はその腕の中に捕われていた。
「なっ、なにすんだよ、祐希!」
「・・・こっちのセリフだ、バカ兄貴」
「はあっ?」
言いがかりとしか思えない言葉に驚くあまり、知らず声が裏返る。
「何してやがった」
弟が次に発した唸るような声音は、昴治でなく前方に立つ人物に向けられていた。
何をしていたもなにもない。誰がどう見てもただの立ち話であったはずだ。先ほどからの祐希の無礼な態度に呆れたものか、ブルーは無言のままうっすらと苦笑を浮かべた。おそらく昴治以外の目には嘲笑ととられても仕方のない、不器用な表情で。
案の定、身を合わせている弟の怒気が一気に上昇したのが察せられた。訳が分からないながらも、昴治は祐希の手を逃れるべくジタバタと暴れてみる。
「離せよ、祐希っ何怒ってんだよ?ただ話してただけだろ!」
訴えは取り上げられることなく、祐希はますます強い力で兄を胸に抱きしめた。
男同士、まして兄弟相手のこんな行為など、本来騒ぎ立てる事柄であるはずがない。けれど言うまでもなく、昴治にとって祐希はただの弟ではないのだ。人前での抱擁に動揺せずにいられるほど、大胆な性質にもなり得なかった。
祐希の暴挙はそれだけに留まらない。なおも「離せ」と声を上げ身じろぎする兄へと、
「うるせえんだよっ!黙ってじっとしてろ!」
投げつけられたのはついぞ聞かなくなって久しい、明らかな罵声だった。
「八当たりはやめろ。ただでさえそいつは疲れている」
驚きに硬直した昴治を見かねたようにブルーが言った。男の発した兄への配慮に、祐希はギリリッと奥歯を噛みしめる。
「分かったふうなこと言うんじゃねえっ」
祐希の怒声に今更ブルーが動じる訳もないが、それでも静かに溜息を一つ落とし、孤高の男はそのまま踵を返した。自分がこの場を去ることが、祐希を鎮める最善策と考えたのに違いない。
「答えろよ!逃げるのか、この腰抜けっ」
「祐希っ!」
なおも食って掛かろうとする弟の向こう脛を昴治の靴底が蹴りつけた。思いがけない兄の抵抗と痛みに祐希の腕が緩む。
小動物の機敏さでするりとその戒めから抜け出すと、昴治は苦痛に顔を歪めてさえ秀麗な容貌の伴侶へと振り返った。
「お前、いい加減にしろよ。ブルーは俺の体調を心配してくれてただけだ!それを何だよ、お前はっ」
普段は柔和なその幼い顔を憤りに朱く染め、昴治はわなわなと肩を震わせて言い募る。
「感謝して、一緒にお礼言ってくれたっていいところなのに!訳分かんない文句つけて!何なんだ、何が言いたいんだよっ!」
かれこれ6、7年振りに目にした、兄の本気の激怒。幼い時分に引き戻されたような錯覚に陥ってか、祐希は知らず身を縮め、いつもの勢いはどこへやらモゴモゴと口篭った。
「俺は、ただ---あいつが・・」
「まだ言うか!バカ祐希っ!」
取りつく島もないとはこのことであった。ここ数年の昴治しか知らないブルーはといえば、友人の変貌振りに、ただただ目を丸くするばかりだ。
「お前なんかもう知らない!」
くるりと踵を返し、昴治は祐希を振り向くことなく足を踏み鳴らす勢いで歩き出した。置き去りになる友人の存在さえ吹き飛んでしまうほど、この時昴治は最高に腹を立てていたのだった。
弟の人付き合いの悪さは筋金入りといってよかった。
昴治との仲違いの前後に関わらず、祐希の周囲におよそ友人らしき者の気配が在った試しはない。
勿論たとえ仲が良かった間でも、始終見張っていた訳ではないから、昴治の知らない遊び仲間の一人や二人はいて当然だろうけれど。
それにしたって。
先刻のやりとりを何度も胸中で反芻し、昴治はその都度深い溜息をつく。
怒りに任せて弟を怒鳴り飛ばした後、総括課に戻って残る時間を---課員がその憤懣やるかたない面相に怯える中---実務に励んだ。
担務終了後も、祐希が待つだろう部屋に素直に帰る気にはなれず、軽食を仕入れてシアターブースに篭った。
そして---あまり興味のない映画を何本も見続け、午後九時を過ぎる頃になってやっと、昴治はブルーに対して礼を欠いたままだったことに思い至ったのだった。
今その友人の部屋のドアを見つめながら、それでも想い馳せるのは、腹を立てているはずの恋人の困惑した顔であるのが我ながら情けない。
(祐希、心配してるかな・・・)
あんな分かれ方であったから、今頃きっと気を揉んでいることだろう。
数年前ならいざ知らず、最近の祐希らしからぬ行動だったのも確かだから、何か特別に気持ちの荒れるような事柄があったのかもしれない。
けれど。
(---いいや!それとこれとは別だろ、やっぱり)
案じる思いを振り払い、昴治は目前のドアチャイムに指を触れた---途端に、微かな作動音をさせてするりとドアが開く。
「っうわ・・・!」
驚きに飛び退いた昴治の腕を大きな手が引き止めた。口元に面白がる笑みを刷いたブルーは、半ば強引に友人を招き入れ、
「そろそろ来ると思っていた」
いともあっさりとそう言って、昴治をソファへと促した。
「何で俺が来る・・・って?」
穏やかに目を細めたブルーは、既に手にしていたミルクコーヒーのミニボトルパックの口を開け客に差し出す。昴治の行動も考えも、お見通しだったということだろう。
悔しいような気恥ずかしいような気分で、立ったままの友人に頭を下げた。
「遅くなったけど---さっきは祐希が・・・いや俺もだな、あんな態度とって・・・ごめん。悪かった」
ブルーの貌に優しい笑みが浮かんだことに、爪先に視線を落としていた昴治は気付けなかった。流れるような動きで友人が隣に腰を下ろしてから、昴治はそろそろと顔を上げた。
再度ボトルをすすめてくれるブルーの表情にほっと息をつき、有り難くコーヒーを受け取った。彼が今更あの程度の事で気分を害するとは、もとより昴治も考えていなかった。
「弟はどうした」
「さあ、あれから会ってないし・・・」
「今頃、部屋でひと暴れしているかもしれんな」
一口含んだコーヒーは些か甘さが勝っていた。この部屋には不似合いだと感じ、すぐに彼の想い人のための常備品なのだと思い至る。
あえて明言するまでもなく、ブルーは優しい。
けれど祐希とて同じくらい、昴治にはいつでも---誰に対するよりも優しいというのに。
「---もしかしてあの後、あいつブルーにもっと酷い事言ったり・・・した?」
「いや、俺に構うどころではなかったろう。荒れていた原因のお前から、逆にあれだけ叱りつけられてはな」
可笑しそうに喉を鳴らす友人を昴治は、呆然と見返した。シアターブースでも幾度となく先刻の遣り取りを思い返してみたけれど、自分が弟の気に触るような何かをしたり、言ったりする暇は無かったと断言出来る---はずだった。
「原因・・・俺?でも、一体何が・・・」
やはりどうしても思い当たることが見つけられずに、昴治は困りきって唇をかむ。
子供じみたそんな仕草にブルーはますます頬を緩め、しなやかな指を伸ばして昴治の細い手首をそっと掴み上げた。唐突なその行為を拒むでなく、ただ不思議そうに首を傾げる友人に覆い被さるように身をよせる。通路での、件の騒ぎの際と同じように。
「もし目の前で弟が、知らない女に---しかも大層親しげに今の俺と同じ事をしていたら、お前ならどう思う」
見下ろしてくる眼差しは真摯でありながら、どこまでも透明で優しい。
だからこそなのだろう、ブルーの言葉は大地に注ぐ雨のように、昴治の心の内側にまで届くのだ。ささやかな警戒をも抱かせることなく。
(祐希が、誰か知らない子に・・・これと同じ---親しそうに・・・?)
想像するまでもなかった。瞬時に胸に込み上げたのは痛みと焦り、そして誰に対してか判別の出来ない、けれど狂おしいまでの憤りだった。
この感情を何と呼ぶかが分からないほど、昴治はもう子供ではない。
「・・・じゃあ、あいつ・・・ブルーに嫉妬し・・・っ!」
やっと行きついた難問の答えを思わず口にしてから、昴治はそれが「本来の兄弟関係では、導き出される筈の無い結論」であることに思い至った。慌てて唇を引き結んだが、とうに手遅れなのは言うまでも無かった。
もとよりそんな例題を出してきた時点で、ブルーが昴治と祐希の絆の真名を識っていたことは間違いないのだから。
恥ずかしさとバツの悪さに、昴治は首まで真っ赤になって黙りこむ。それでも後ろめたい気持ちを抱かずに済んだのは、目の前の友人が少なくともこの事柄で、昴治を責めずにいてくれるのが分かっていたためだ。
「早く帰って、安心させてやるんだな」
昴治を捕まえていた指を解いて、ブルーはソファに背を預けた。
「その上でこの機会に、少々灸をすえてやれ」
「・・・灸・・?」
面目なげに目線だけを上向けて問う昴治に、
「お前も男などとの仲を疑われた挙句、ただ許してやるのでは面白くないだろう」
ブルーは楽しげに目を細めて見せた。
昴治がついぞ目にしたことのない、まさに悪戯小僧の表情をもって。
祐希が不承不承覗きこんだインターホンのモニターに映っていたのは、他でもない兄、昴治の姿であった。
慌ててドアを開け、その細い腕をとって引き寄せた。
「何処ウロウロしてたんだよ、こんな時間まで」
本当はどうでもいい事が口をついて出た。兄が自分でこの部屋に戻ってきた安堵と、そもそも怒らせてしまった理由への、後ろめたさからくる動揺からであったろう。
抱きしめようとする祐希の腕を些か乱暴に払って、昴治は無言のまま寝室に入っていった。
想いを通わせてから初めてといっていい兄の拒絶を受け、祐希が呆然と払われた両手を眺めている間に、当の昴治は着替えを抱えて姿を見せたが早いか、弟を振り返ることなく今度はバスルームへと消えた。
怒っている。間違えようもなく、昴治はたった今も大層腹を立てているのだ。
(・・・じゃなきゃ、ドアぐらい自分で開けるよな・・・)
あの漂流の日々を生き延びてから、兄は何に対しても寛容に、鷹揚に構えるようになった。しかし元来の気性から言えば、その怒りの沸点はある意味自分よりも低いと祐希は考える---それも相手が祐希である場合に限って、だ。
普段は長湯の兄が、ものの五分と経たずに風呂から上がってきたのも、その怒りのせいなのか。
所在なく立ち尽す祐希の横を通り過ぎざま昴治が言った。
「他に俺に言うこと、あるだろ」
部屋に戻ってからやっと発せられた兄の言葉に弾かれたように、祐希は自分を置いて歩き去ろうとする細い肩に手を伸ばした。
慣れた感触にほっと息をつく祐希へと、灯りの点されていない寝室の薄闇の中、昴治はゆっくりと振り返る。
祐希を見上げた兄の顔に浮かんでいたのは、憤りなどではなかった。
「あるだろ---祐希」
微かに眉を寄せ唇を噛みしめる---それは兄が、哀しみを堪える時に見せる表情に他ならない。
「兄貴・・・」
弟の手から再び逃れて、昴治はベッドの端に腰かけた。俯いたまま、両手に握りしめたバスタオルを胸に押し当てる。まるでいま負ったばかりの傷口を庇うように。
「お前は・・・俺とブルーのこと、疑った・・」
唐突で意外な「詰問」だった。色恋に疎い兄のことだから、こんな子供じみた「ヤキモチ」になど決して気付くまいとタカをくくっていただけに、祐希はとっさに返す言葉を失った。
が、実際に昴治の不実を疑ったことなど、相手が誰であれ一度も有りはしない。頑ななまでに誠実な兄の、その性質の故に。
「違う・・・俺はただ---」
祐希がブルーに抱いた「敗北感」や「危惧」は、自分にとってみれば至極自然な感情だった。しかしいざ誰かに伝える段になると、理解してもらうことはひどく困難に思われた。
「・・・お前だけなのに」
躊躇して口篭る弟を責めるように、吐息混じりに昴治は呟く。前髪に隠れてその表情は窺い知れなかった。
「俺にはお前だけなのに---お前は俺なんか、どうだっていいんだな・・」
「っ違う!何言ってんだ、そんな訳ねえだろうがっ」
兄の「暴言」に思わず声を荒げた。
「だったら何で、信じないんだよ」
勢いよく顔を上げた昴治の瞳は、薄闇に透かし見ても解るほど潤んでいた。悲しませたことを悔やみながら、示されたその執着に喜びで胸が奮えた。
「俺のことちゃんと見てたら、解んないわけ・・・ないだろっ!」
胸に抱いていたタオルを立ち上がりざま祐希に投げ付け、昴治はそのまま弟にしがみつく。利き手でタオルを受けとめた祐希が、その痩せた背中に腕を回した途端、
「触るなっ」
強い口調で昴治は言った。
「信じてないんなら、触るな---俺は・・・怒ってるんだから・・・」
言葉とは裏腹に昴治は弟の胸に身を擦り寄せ、幾つもボタンを外したシャツの襟元へと顔を埋めた。
素肌に触れる兄の、微かな吐息。
「・・・疑ってなんかない。本当だ」
制止を掛けられた両手をぎこちなく彷徨わせ、祐希は目下にある柔らかな髪を切なく見つめた。
「ただ俺は、あんたがあんまり---あいつに・・・気安い、から。あんまり自然に、あいつに微笑って見せるから、つい・・・」
祐希にして出来得る限りの穏便な表現だった。弱気なその言い訳に、昴治の肩がピクリと跳ねる。内心息を飲んで兄の様子を窺えば、やんわりと背に掴まっていた細い指に、みるみる力が込められていくのが分かった。
「それって俺が、お前には自然にしてないって・・・ことか?」
「・・・兄貴・・・」
「バカ祐希!そんなこと、当たり前だろっ」
襟首を掴んで怒鳴りつけ、昴治は弟を睨め上げた。
「なっ---」
まさか「当たり前」と返されるとは思ってもいなかった祐希は、衝撃に目を剥いて兄を見返した。その頬を両の手のひらで包み、昴治は尚も自分の顔を上向かせる。
「本当に解ってるか?俺は祐希が、好きなんだぞ」
目の当たりに迫った唇がたどたどしく囁いた。滅多に聞くことのない兄の告白に、祐希の鼓動が高まっていく。
「普通でなんか、いられる筈ないだろ!なのに---友達に見せるのと同じ顔の方が・・・お前は、いいのかよ?」
答えるまでもないことだった。
少し屈みこめば届くほど近い兄の唇へと、引力に引かれるように姿勢を傾けた。けれどここでも昴治は祐希の手を拒んで身を捩る。
「---兄貴」
「いやだ・・・触るな・・」
「頼むから、もう・・・」
困惑に眉を寄せ、祐希はらしくもなく哀願した。いやいやと首を振りながら、兄は弟の秀麗な顔を引き寄せた。
唇が触れるだけの、拙い口付けだった。
「触ったら、怒る・・」
昴治はうっとりと目を閉じて、幾度も戯れのような口付けを繰り返す。激しい衝動を拳に握り込んで祐希は息をつめた。こんなにも辛抱強くなれる自分に、頭の片隅で賞賛を贈りながら。
「あんた、言ってることとやってることが・・・」
「俺はいいんだ。だって、お前が好きなんだから」
「俺だってそうだよっ」
「ウソ、つくな」
これには流石に黙ってはいられなかった。右手のバスタオルをベットに投げ捨て、祐希は恋人を両手で抱きしめる。
「いや・・・だっ」
「いい加減にしろ」
祐希の胸を押し返して抵抗する昴治の耳朶に噛みつくように口付けた。そのまま白い首筋に唇を這わせると、感触に堪えきれずにか兄は甘い吐息を微かに雫した。
それでも口に出しては、
「はなせ、いやだって・・・!さわるなっていったろ・・っ」
「もう勘弁しろよ。兄貴、頼むからっ」
「や・・・っ!」
「兄貴っ」
乱暴にならないよう、けれど性急な欲求のままに、華奢な身体をベッドの上に組み敷いた。洗いたての髪が白いシーツに広がって、いつもと同じ淡い香りを放つ。
「好きだ!知ってんだろ、俺にはあんただけだって。それを疑うようなことだけは言わせねえっ」
声を荒げた祐希を兄の濡れた瞳が、真っ直ぐに見上げていた。
「同じこと・・・お前は言ったんだ、俺に」
静かであるのに断固とした声音だった。反論の余地のない祐希は口を閉じるしかない。それでもシーツに縫い止めた昴治の腕を離すことは出来なかった。
自由に動かせる範囲で手を伸ばして、昴治は宥めるように弟の腕をそっと撫でた。その表情につい先刻までの頑なさはない。
「俺のことでブルーに---他の誰にも、あんな態度もう取らないよな?」
「・・・・・・・・・・・・努力・・は、する・・・」
この上兄に嘘をつきたくはない。その為には---自慢にもならないが---これ以上の約束をせずにいるべきだと、祐希は瞬時に思案した。
何故ならばたった今でさえ、兄に近付く者たちへの嫉妬を抑える自信など、欠片も持てないままなのだから。
昴治にもそんな弟の葛藤は理解の範疇だったのか、苦笑を浮かべた穏やかな顔で「もう離せよ」と恋人の袖を引く。
兄が起き上がるのに手を貸しながら、祐希はバツが悪そうにボソボソと呟いた。
「・・・離したら、また逃げるんだろ」
「いつ俺が逃げたんだよ。触るなって言っただけだ。それに---」
不満気に唇を尖らせて、
「まだ許したワケじゃ、ないからなっ」
昴治は飛びかかるように弟へとしがみついた。その勢いで二人して再びベッドに倒れ込む。
常にはない兄の悪ふざけに呆然とする祐希の両手に、何時の間に手にしたのか、昴治は先刻投げ置いたバスタオルを巻き付け始めた。
元より縛ることに適した素材ではないから、如何に強く結ぼうとその効果のほどは知れている。
ほんの僅かな抵抗で、容易に振り解ける---束縛。
「・・・兄貴?」
「これ外したら・・・絶交する」
またしても兄が発した「暴言」に、仰向けに横たわったまま二の句の継げない祐希を気にするでもなく、昴治は上掛け布団を引き上げた。そうして弟と二人、肩まで布団に包まる。
祐希の胸の前でまとめた両手に当たり前に抱き合うことを邪魔されて、昴治は恋人の自分より少しだけ大きな身体を横から抱えこんだ。
「兄貴・・・」
困惑の視線を向ける弟のこめかみに唇を寄せる。それから自分がされたのと同様に耳朶へ。
次いではだけた胸元に口付けを落とした。胴に回していた手をシャツの裾から忍びこませ、引き締まった肌を撫で上げていく。毎夜祐希が昴治に与える、甘い戯れをなぞるように。
細い指がジーンズのファスナーに届き---そこまでが、祐希の忍耐の限界であった。
「っ・・・分かった!俺が悪かった---マジでっ!」
苦痛に眉を寄せるかのような苦しげな顔で起き上がり、祐希は兄の手から逃れるべく壁際へと後ずさった。
「頼むから---これ、外させてくれ。これ以上・・・あんたに触らない自信、もう全然ねえ・・」
普段の傍若無人さも何処へやら、何とも情けない声音で、祐希は戒められた両手を突き出した。
弟の勢いにつられて身を起こした昴治は、見慣れない風情の恋人にしばし目を丸くし、
「・・・ブルーの言った通りだ・・・」
思わず漏らしたらしい兄の、ほんの小さな呟きを祐希は聞き逃しはしなかった。
「---あいつが、何て言ったって・・・?」
兄の機嫌を損ねないよう、気が遠くなるほどの胆力のもと、ごく穏やかに問う。その態度に弟の反省を認めたのか、昴治は素直にバスタオルを解き始めた。
「少し灸をすえてやれってさ。でも実際何をどうしたらお前が懲りるのか、俺には分かんないし・・・そうしたら、「触らせずに、触りたおしてやればいい。それが一番効果的だ」って---」
友人の言葉を反芻しながら、昴治は顔を赤らめた。解いたタオルに火照った頬を埋めて、
「お前気付いてたか?ブルーが俺たちのこと、知ってたの」
「・・・・・・」
苦虫を口一杯頬張ったかのように顔をしかめる祐希は、当然の如くそれを承知していた。
ようやっと「自由」になった手を伸ばして華奢な身体を優しく抱きしめながら、仇敵への恨み言をせめて胸中でだけ、際限なく並べ連ねた。
「・・・祐希・・?」
急に黙りこんだ祐希を訝しんで、腕の中の昴治が顔を上げる。その瞼に口付けて、今だ乾ききらない柔らかな髪を梳いた。
うなじを撫でる指先にも、腰に滑らせた手のひらにも、もはや兄の抵抗はない。
「もう、いいよな?兄貴」
念押しの一言を発してから、祐希は照れて戸惑う唇に自分のそれを重ねた。
「---ホントに反省、したのかよ」
照れ隠しのように呟く声が聞こえたけれど、それさえも飲み込んでしまうほど深く甘い口付けで、祐希は昴治の全てを蕩かせていった。
初めて仕掛けられた恋人からのたどたどしい戯れに、これまでに無く高ぶらされた熱情をもって。
同じくらい心も身体も火照らせた兄が、悦楽に我を忘れ去るまで。
当たり前でない、特別な存在の全てに祐希は触れた---自分という存在の、全てで。
「聞いたか。昨日この辺で、エアーズ・ブルーと相葉祐希が相葉兄を取りあって、一発触発だったらしいぜ」
「またかよ。この間は尾瀬イクミと相葉弟だったよな」
「そのメンツに取り合われる事自体ものスゲーけど、その上「あいつら」を怒鳴りたおして黙らせちまうんだから、大人しそうに見えてツワモノだよなあ」
「伊達にあのネーヤに懐かれてるワケじゃあナイってか」
「けど---そーするとさ、もしかして」
「いや、もしかしなくても・・・」
「相葉昴治って・・・このリヴァイアスの中で」
「---無敵にして最強?」
「・・・・・・ご感想は?昴治くん」
「------」
「ワタシが思うには、当たらずも遠からずかと」
「イクミ」
「はい?」
「お前も、絶交されたいんだなっ!?」
「っええっっ------!!」
<end>