「百年ノ恋」

 ふわりと下りてきた温もりが、掠めるような様でワイシ
ャツの襟に隠れた昴治の項に触れた。
 自室のデスクに向かい、持ち帰ってきていた明日が提
出期限のデータを整理している最中の、いわ
ゆる繁忙時
に仕掛けられた悪戯に思わず鼻白む。
 昴治が帰ってきた時には、手に入ったばかりだという音
楽チップの新譜に夢中で、ろくにこちらを
見向きもしなか
ったくせに。
 兄の首筋に滑らせていた唇を一旦離して、祐希は後ろ
から細い身体を抱きしめた。
 「祐希、重い」
 不満さも露に言い放つ。が、そんなことに動じる弟なら
もとより昴治に苦労はない。
 「いつまでかかんだよ、それ」
 耳元で囁いた声に含まれた眠気に気付き、昴治は端末の
デジタル表示に目をやった。
 現時刻はAM1:18。
 「まだまだだよ。いいから先に寝ろって」
 宵っ張りの弟にしては些か早い就寝時間だが、それだけ
リフト艦での作業に疲れているのだろう。
 肩口に顔を寄せる祐希の髪を労いの意味でやんわり撫で
てみた。

 ぱしりとその手をはたき落とされた。別段痛んだわけで
もないが、その行為に面食らって昴治は目
を丸くした。
 余程眠いのか何時にない緩慢な動きで、祐希は無言のま
まベッドへと歩き出す。
 (眠くて機嫌悪くなるなんて・・・赤ん坊か、お前は。それ
とも俺が言う事聞かないからスネたかな)

 もしくは「頭を撫でられる」などという子供扱いに---
昴治にそんなつもりがなかろうと
---腹を立てたのかもし
れない。
 どちらにしても、大人気ないことには変わりなかった。
 「おやすみ」
 返事など今更期待していないから、言うだけいって視線
を端末に戻す。
 再乗船から2年あまり。
 きっかけが何であったかはもう定かでないが、4年にも
わたる凄まじい兄弟喧嘩を繰り広げた弟と
の確執は、春に
雪が解けるが如き緩慢な速度で、それでも確かに薄らいで
きていた。

 リフト艦やレストルーム、あるいは通路で行き会うこと
があっても、人目のあるところでは目線一
つ寄越さない祐
希が、時折こうして昴治の個室を訪ねては自室のような気
安さで寛ぐようになってか
らは早、半年が経つ。
  背中合わせに体重を預けたりし始めたのが3ヶ月前。
 兄の色素の薄い髪や、細い体躯のあちこちにやたらと触
れ出したのは、
1ヶ月前。
 そして先々週―――昴治が止めるのも聞かずベッドの半
分を占領するようになってから、祐希はい
ささか―――と
いうには不埒に過ぎる悪戯を仕掛けてくるようになってい
た。
 元々スキンシップを求める性質には違いない。が、それ
にしても―――

 無事データ整理を終えたのは、祐希に手をはらわれてか
ら小
1時間が経った頃だった。
  浅い溜息を零しつつ端末をおとし、昴治は弟に占領され
た自分の寝床を振り返る。

 狭いながらも部屋の端と端のことだから、ここからでは
目元まで上掛けを被る癖のある祐希の様子
は知れなかった。
  (眠った・・・かな。だったら今夜は、平気かな・・)
 躊躇に動きを止める足を意地と理性で押し出した。
 (俺の部屋なんだから「起こすかも」なんて遠慮するこ
とないよな。大体“あんなの”・・・ただ、
じゃれついてきて
るだけだって―――何にも気にすること・・・)

 洗顔とシャワー、着替えを済ませ明かりを消したのは3
時5分前。
 ベッドの脇に立ち、昴治は改めて1つ息を吐いた。所以は
早鐘を打ち始める、胸の鼓動を諌めるた
めに。
 (詰めて寝ろって言ってんのに・・・何でいつも奥を空けと
くんだよ、ばか祐希)
 いつもの―――成り行き。
 (・・・大丈夫。今夜は・・・だって、よく眠ってる・・)
 自分に言い聞かせながら、細心の注意をはらって寝息を
たてる弟の身体を乗り越えた。

 温まった上掛けにもぐり込み、頭を枕に落ち着けた――
その時。

 傍らの男がむくりと身を起こした。昴治に身構える暇も与
えず、その長身は無遠慮に圧し掛かって
くる―――いつも
のように当たり前に。
 息を呑む昴治のまだ闇に慣れない目では、見下ろす祐希
の表情を窺うことは出来なかった。
 「―――おきて・・・たのか・・」
 搾り出すように言った。が、寝惚けているのかまた別の
思惑の故か、祐希からの応えは返らない。

 何時の間にか兄よりも大きくなった手のひらが、昴治の
頬を撫で細い髪を梳く。そのままうなじを
通り、肩へそして
腕へと。
 「ゆう・・・き・・」
 知らず漏れた呼びかけに制止の意図はなかった。ここで声
を荒げようが、力の限り抵抗しようが
もたらされる結果に変
わりがないことは経験済みだ。ならば弟に暴行めいた行為を
させるより、何で
もないことのように受け流したいと、昴治
は毎回自分自身に言い訳を繰り返していた。
 そう、思っていても―――否、だからこそその度背筋を駆
け上る「ある種の感覚」が昴治をいた
たまれなくする。
 ただの、じゃれ合いだ。呪文のように繰り返す。けれど。
 祐希の顔が下りてくる気配がし、次いでその不揃いの髪が
昴治のこめかみを掠めて流れた。
 覚悟に目をきつく瞑るより早く耳朶に熱い息がかかり、続
いて首筋を這い降りていく唇の冷たさに
昴治の身体は震え上
がった。

 兄を逃がさぬよう抱き止める祐希の意外に広い胸と、寝間
着越しに身体中を撫で回す手のひら。そし
て、露出した肌に
隈なく口付けを繰り返す唇。
 「・・・・・・っ!」
 与えられる「感覚」に耐えかねてつい上げそうになる声を
懸命に噛み殺し、昴治はなお身を強張らせ
た。
 程なく、
 「―――兄貴・・・」
 艶を帯びた祐希の囁きがようやっと意識を保っている昴治
の耳に届いた。どちらが決めたわけでもな
く、何時の間にか
それが
2人の間での「秘め事」の終わりの合図となっていた。
 その合図への承諾のように祐希の背に力の入らない両腕を回
す。これもまた互いに約束のない決め事
だった。
 不埒な手を止めて祐希は兄を胸に深く抱きしめた。闇に怯え
る幼子がせめてもの頼りにと、ぬいぐる
みや枕を抱くように。
 本当は昴治にも解っていた。こんな行為が兄弟の間に、本来
有り得る筈がないことなど。

 「言っても聞かない」などという悠長さで、見過ごし続けて
いい筈のないことだとも。
 ---それでも。
 「・・・何、考えてる」
 昴治を抱いたまま「男」は言った。
 別に、と嘯く兄の顔を覗き込んで、
 「他の事なんか・・・誰のことも、全部忘れてろよ」
 怒りに程近い苛立ちを見せて言い募る。
 「せめて---俺といる時だけは」
 勝手なことを---昴治は胸中で独りごちた。傲慢な言いつけ
に眉を寄せずにはいられなかった。自分の
ことを棚に上げて。
お前は気の向いた時にしか、俺を欲しがったりしないくせに。
俺ばかりが何時でも
お前に振り回されて―――お前だけで、
一杯にされ続けて。

 腹を立てていいはずだった。身勝手が過ぎると、その手を払
いのけ怒鳴りつける当然の権利が、昴治
にはれっきとしてある
はずだった。
 なのに---どうして。
 「・・・おまえこそ・・」
 思いがけない言葉がするりと唇を滑り出ていた。祐希が目を
見張ったのに気付き慌てて視線を外した
のは、その後弟がどん
な表情で自分を見るのかを知るのが恐かったからに他ならない。

 何を怖れたのか---それは、たった今自ら暴いた本心の知る
ところだった。
 あれほどに忌避しているはずの行為なのに。何故、祐希の手
を拒めないのか
---その理由の在処の。
 正気じゃ、ない。
 身を横たえていながらにして、目眩にも似た思考の混濁に溺
れていくように思った。

 不意に顔を背けた昴治を特に訝しむ様子もなく、祐希は再び
兄の柔らかな髪に指を絡める。その感触
が心地良くて、それが
悔しくて哀しくて、昴治はせめて“今”自分を包んでくれる温
もりに全てを委ね
目を閉じた。
 「俺は―――ずっと・・・だ」
 ぽつり、と弟が零したのはどこか淋しげな、独白めいた声音。
 「・・・え?なに」
 「ばか兄貴」
 意味を掴みかね首を傾げる昴治に改めて視線を合わせ、祐希は
枕詞のように言い慣れた台詞を口に
してから、
 「百年先まで、って言ったんだよ―――」
 ひどく静かな声で囁いた。
 これまで昴治が耳にしたことのない、ひどく力ない――−
諦めを滲ませた声で。






                                     <end>


イチキハルシ様リクエストの「何だかんだと言って弟に手を焼くお兄ちゃん(祐×昴)」でした・・・が、そう言っていいものかどうか。「手を焼く」とゆーのは多分こーゆーことではなかったのでは−−−と、今更ながらやっと勘違いに気付く私でございました(焦) 
イチキ様、申し訳ございません・・・(T_T)


_T)