このこねこねこ。

 にゃあ、と甘い声がして、踝の辺りに柔らかな温もりが触れた。
 視線を落とせばそこに、昴治の予想に違わぬ小さな猫の姿が在った。
 毛色は漆黒。特に長毛でも短毛でもなく、所謂日本猫と洋種が混ざったような毛並みだ。こちらを見上げる双瞳の深い蒼色には、些かどころではない覚えがある。
 にゃあ、と子猫はもう一度鳴いた。甘くあどけない声音に、けれどよく耳に馴染んだ居丈高な韻を含ませて。
 溜息を雫しつつ屈み込んだ。当然と言わんばかりに両の前足を差し伸べてきた子猫を抱き上げる。
 温かい。
 少しぬかるんでいた気持ちが、少しだけ軽くなった気がした。
 にゃあ。
 今度の一声はどこか誇らしげに。昴治の心情を読んだかのように、その手の中で得意そうに胸を張ったものだ。
 何だよ、偉そうに。胸中でぼやいた。ただの照れ隠しで。
 手の中の子猫の蒼瞳が昴治を見つめている。威張りくさった態度をとるくせに、その眼差しには紛れもない労わりが溢れていた。
 だから、
 「慰めるんなら「自分で」言えよ、ばか」
 今度は声に出し言って---目が覚めた。開けた視界に銀の絹糸がさら、と細い肩から流れ落ちるのを見た。だから、
 「・・・ありがとう。これってお年玉、かな」
 思い返せば照れ臭い触れ合いの所以を知り、微笑みとともに感謝を示した。きっと今の昴治も同じように嬉しげであるのだろう、柔らかな朱色の瞳を見つめながら。
 新しい年の、二日目の朝だった。

  

 我ながら馬鹿馬鹿しい夢を見た。
 夜勤に当たっているリフト艦へと向かう道すがら、何とも落ちつかない気分を持て余し、祐希は今朝から何度目になるかも分らない溜息を足元に落としては、それを踏みつけつつ歩を進めていた。
 このところの兄が、班長を務める所属課内のことで気鬱げであることは知っていた。その親友を自称するV・Gチームリーダーたる食えない男の、聞こえよがしの独り言を耳にするまでもなく。
 件の如何を当人に聞いたりはしていない。正確には聞くこともままならない、といったところだ。
 悪夢のような初航海からの生還後、新たなリヴァイアスでの暮らしももう1年と少し。そんな現在でさえ未だ、疎遠な親戚程度にも関係を修復出来ずにいる祐希であったから。
 新年早々の昨日、催された艦を上げての馬鹿騒ぎ---俗に言う新年会の会場でも、プログラム進行やら諸々の手配やらと一見元気に忙しなく動き回ってはいたが、その合間にほんの時折気落ちした表情を覗かせていた。
 お兄ちゃんのことには、ホントに目敏いよねえ。
 自分のことを棚に上げた所属課班長の笑いを含んだ台詞が脳裏を過り、祐希はまた一つ深い溜息を吐く。
 馬鹿馬鹿しい夢を見た。選りにもよって、
 (猫って何だよ。ったく、ワケ分んねえ)
 しかも子猫だった。見目の良い、鳴き声も愛らしい黒猫のこども。
 昨夜の「にゃあ」という甘い声音までもが耳に甦り、その居た堪れなさに立ち尽くした。
 では自分が「自分のままで」兄を気遣えたろうか。考えるまでもなく答えは否だ。
 本当には分っている。無理をするな、と。愚痴の一つも雫せ、と。気安く伝えられない祐希だからこその、あの夢、あの姿であったのだと。
 目的地に至るまでの、最後の曲がり角に差しかかった時だった。
 天性の勘か、優れた反射神経の賜物か。祐希がぴたりと足を止めた瞬間、曲り道の死角から一つの人影が現れた。
 危うく衝突は避けられたものの、相手には全くの不意打ちだったのだろう、驚いて仰け反りながら発した間の抜けた声には大層馴染みがあった。
 祐希、と接触事故未遂の片方の名を小さく呼んだのは、利き腕に奇天烈な格好の「艦の中枢部」をぶら下げた兄だった。
 その角を曲った先はメインブリッジだ。数冊のファイルを手にしているところからして、ツヴァイに何某か報告でもした帰りなのだろう。
 今日もまたこんな時間まで働いているのか。咄嗟に湧き上がったのは憤りだった。
 「こんなとこで、何ふらふらしてやがるっ」
 感情のままに声を上げ、途端に後悔した。ただ「早く帰って休め」と言いたかった。なのに何故、たったそれだけのことが何時も叶わない。
 出会い頭に怒鳴りつけられ、当然昴治は気分を害したろう。喧嘩腰にでも言い返してくるか、言葉を交わすことも煩わしいと無言で立ち去るか。はたして、
 「何って・・・仕事も今終わったから、夕飯食って部屋に帰るとこだけど」
 審判を待つ祐希の耳に届いたのは、何事もなかったかのような穏やかな兄の声だった。
 知らず逸らしていた視線を戻した。一つとはいえ年長とは思えない未だ幼い貌に、不快げな色がないことを確かめ胸を撫で下ろす。
 「そうかよ。ならとっとと食って、とっとと帰って寝ちまえ」
 今度は平素の口調で言えた。言葉回しは些かどころでなく不適切だったけれど。
 それでも祐希にはこれが精一杯だ。情けなくも、恐らくはまだ当分の間は。
 故に言い逃げを計るべく足を踏み出した。相変わらずな弟の態度に、怒らないまでも呆れて昴治は歩き去るだろう。
 そんな不甲斐ない英雄の背中に、
 「・・・ホント、分り難いんだよ。ばかねこ」
 溜息のような呟きが届いた。
 驚いて振り向いた先には、少し遠ざかった小さな後ろ姿。兄は今何と言った。有り得ない、と思う判断を或いは、と願う感情が凌駕する。
 伝えることが叶ったのか。心身ともに安らかたれと日々胸中でだけ繰り返した、身勝手で一方的な祈りが、あの夢を介して。
 ふと、兄の腕にぶら下がった、この時まで全く意識の外にいた「少女」と目が合い---得心した。
 そういうことか。思い返せば照れ臭い触れ合いの所以を知り、気恥ずかしさを飲み下しつつ心中でだけ感謝を唱えた。きっと今の祐希も同じように嬉しげであるのだろう、柔らかな朱色の瞳を見つめながら。
 事態の真相を祐希が瞬時に理解した、それを見計らったかのようにネーヤは言った。
 「くろいこねこ、コウジだいすき」
 かっと頬に熱が上った祐希が絶句したのと、「うわっ」と裏返った声を上げた昴治がスフィクスの頭を抱え込んだのは同時のことだった。
 呼び止める暇もなかった。「じゃあ」とだけ漸く聞きとれた声を残し、まるで他所の植木を割った子供が現場から逃げ出すように、兄は妹分をぶら下げたまま脱兎の如く駆け出した。
 あっという間に置き去りにされた祐希はといえば、
 「何で、あんたが逃げんだ?」
 これから向かう先で待つ兄の親友が此処にいれば、きっとやれやれと肩を竦めつつ微笑むだろう台詞を雫したものだ。
 「・・・お年玉、とかのつもりかよ」
 新しい年の、二日目の終わる少し前だった。
 





<end>


               サイト上の新作としては何と実に2年半振りだったでした。
               いやあ、月日の経つのは本当に早いものです。私の書く
               祐希は相変わらずでしたが・・・(^_^;)