教習艦を兼ねているリヴァイアスでは、リベールと同様、前期と後期に試験が行われる。
たとえ人類の未来をかけた旅をしているとしても、試験がなくなる訳ではない。
普段は閑散としているライブラリー・ルームも、その時ばかりは大混雑していた。
試験やレポート等に必要な資料を探す生徒達でごった返す部屋を、祐希はうんざりと眺めた。
数台ある端末は全て使用中で、カウンターも長蛇の列だ。借りていたチップを返しにきたのだが、
この分では、用事を済ますまでに延々と待たされるだろう。
(……出直すか)
踵を返しかけた時、不意に耳に馴染む声が祐希を呼び止めた。
「祐希?」
「―――」
振り返った先に兄の姿を認めて、祐希は僅かに目を眇めた。
カウンターの前に並んでいる列の一番端に、昴治が佇んでいる。
顔を合わせるのは三日振りだった。
一瞬ためらった後、無言で兄へと歩み寄る。
後ろに立つ弟を見て、昴治はどこか嬉しそうに笑った。
改まって仲直りした訳ではないが、兄弟の溝は確実に埋まってきている。
以前なら、祐希を見つけても、声をかけるのを昴治はためらっただろう。
呼ばれたからといって、祐希が素直に近付くこともなかった筈だ。
相手に拒絶されないことを確かめながら少しずつ歩み寄る様は、ぎこちなくはあるが、
ぎくしゃくはしていなかった。
「すごい人だよなー。まぁ、試験前だから当然だけど」
肩をすくめた昴治が、また少し背を伸ばした弟を見上げて笑う。
「2種免でも厄介なレポートが出たんだろ? その資料を探しにきたのか?」
同じく2種免専攻の親友がヒーヒー言っていた様子を思い浮かべて、更に笑みが深くなった。
何事にも大げさな彼のことだから、実際はお手上げということもないのだろうが、
手強いには違いない。だが、予想に反して祐希はあっさり答えた。
「違う。返しにきた」
レポートはもう終わったと続ける弟に、昴治は目を丸くした。
驚いていた表情が、次の瞬間ふわりと綻ぶ。
「もう終わったのか? すごいな」
何の含みもない笑顔は、記憶に残るそれと同じものだった。
小さい頃の祐希は、兄に褒められたくて一生懸命だった。
頑張れば兄は必ず褒めてくれて、微笑んでくれた。
いつしかその笑顔は、祐希が頑張れば頑張るほど曇るようになってしまったけれど。
取り戻した懐かしい笑顔に、胸のどこかがツキリと痛む。
沢山の感情が入り混じったその痛みを押し殺して、祐希はボソリと答えた。
「……別に」
「――そっか」
素っ気ない物言いに、だが、昴治が反発することはもうない。
褒め言葉を上手く受け取れずに視線を逸らす弟が、昔と同じように――そして、
まるで違う意味で可愛いと思った。
「――あ、じゃあ、返却だけなら俺がしといてやろうか?」
中々進まない列を横目で眺めて、何気なく告げる。その言葉に他意はなかった。
チップを預かってしまえば、弟がここにいる理由もなくなると。
気付いたのは、無言で見返してきた視線を受け止めた時だ。
微かに眉をひそめた祐希は、何も言わずポケットからチップを取り出した。
無造作につかんだ数枚の中から一枚だけ抜いて、残りを昴治へと差し出す。
「――それは?」
「こっちはレポートだ」
言いながらチップをしまおうとした時、不意に大きな足音が入口から聞こえた。
どうやら数人の生徒が駆け込んできたらしい。
勢い余ったのか、入口ギリギリまで並んでいた人波にぶつかり、列が大きく揺れた。
押されて転びかけたり、それを避けようとしてたたらを踏んだりと、部屋中が俄かに混乱する。
それは、端にいた昴治達も例外ではなく。
「うわっ」
横から押されて、昴治の身体はあっさりよろめいた。
「っ…!」
反射的に伸ばした手で昴治の右腕をつかみかけた祐希は、瞬時に手を入れ替えた。
そのせいで僅かに体勢を崩しながらも、何とか右肩に障らないよう兄の身体を横抱きで支える。
「―――おい…」
大丈夫か? と続きかけた言葉は、他ならぬ昴治の悲鳴で遮られた。
「――あー! ちょっ…待って……っ」
大きく身じろいだ昴治の目が、床の一点に注がれている。
視線を追うと、自分の手にあった筈のチップがそこに転がっていた。
だが、制止は間に合わなかった。
押し合う生徒達の足の下に紛れ込んだチップは、カシャンと小さな音を立てて
呆気なく踏み潰されてしまったのだった。
「わっ……何だ?」
「っちゃー…チップか、これ?」
事態を悟った生徒達が慌てて足をどける。
だが、レポートが入っていたチップは既に残骸と化してしまっていた。
「……」
完膚なきまでに壊れたチップを見て、祐希が溜息をつく。
しかし、祐希本人よりむしろ昴治の方が顔色をなくした。
絶句して固まった後、悲痛な顔で弟を振り仰ぐ。
「あれっ……バックアップはとってるのか!?」
「……」
僅かにしかめられた表情が答えを告げていた。
再び言葉をなくした昴治が、勢いよく頭を下げる。
「……ごめん! 俺のせいで…っ」
「……あんたのせいじゃねぇよ」
兄の謝罪に、祐希は低く呟いた。
そう。昴治のせいなどではない。勝手に身体が動いただけだ。
書き直せばいいだけのレポートと兄と――優先順位など決まっている。
もっとも実際には、順位がどうこうと考えている余裕はなかったが。
だが昴治の方は、そうですか、ではすまない。
自分を庇ったせいで、レポートを書き直す羽目になってしまったのだ。
「――俺、何か手伝えないか!? 資料を集めたりとか……あ、データまとめたりとか!」
「………」
あたふたと言い募る昴治を、祐希はじっと見つめた。
―――ここで断れば、兄は、自分が怒っているのだと誤解するだろう。
兄にどう思われようが構わない…というのが本心ではないことを、祐希はもう、自覚していた。
誤解されたくない。気に病ませたくない。
けれど、自分の感情を言葉で表すのは相変わらず苦手で。
結局、祐希にできたのは、黙って兄の提案を受け入れることぐらいだった。
* * * * * * * * *
教師が講義の終了を告げ、室内にざわめきが満ちる。
使っていた端末を終了させながら、カレンは隣の人物に話しかけた。
「ねぇ祐希、最近機嫌よくない? 何かあった?」
「…別に」
質問という形をとりながらもほぼ確信している口調に、祐希が短く答える。
そこへ、二人の背後から明るい声がとんできた。
「あれー? まだ知らないんだ、カレン」
珍しいこともあるもんだ、と、勝手に会話に割り込んできたイクミがニヤニヤと笑う。
それをギロリと一瞥した祐希は、だが、文句を言うでもなくその場を後にした。
「……本気で機嫌いいのね」
ついていこうかと一瞬立ち上がりかけたカレンが、姿勢を戻しながら呟く。
疑問を解消すべく振り返ると、イクミは実に機嫌の良さそうな笑みを浮かべていた。
―――祐希のレポートを手伝うのだと。
そう言って弟の部屋へ向かった昴治の様子を思い出して、イクミの笑みが深くなる。
この二日間、講義と仕事以外の殆どの時間を昴治は祐希と過ごしているようだった。
最初はどうなることかと思ったが、二人の様子を見る限りでは結構上手くやっているらしい。
(……ま、それはそれで不思議じゃないけどね)
相手にとって自分は邪魔だろうと、思っているのはお互いだけだ。
あれだけ互いを意識していて、どうして伝わらないのかとも思うが、
「――お互い片想いだと思ってたら、話は進展しないよねぇ…」
誰にともなく呟かれた言葉に、カレンが軽く目をみはる。
次いでそれだけで納得したように、勘の良い少女は小さく息をついた。
「ああ…やっぱりお兄様絡みなワケね」
「絡みなワケです」
深く頷いたイクミは、楽しげに片目をつぶってみせた。
さほど広くない室内に、キーボードをたたく音がリズミカルに響いていた。
壁際の机の上には、端末と幾つかのチップ、それに資料が広げられている。
その前に座った昴治は、生来の生真面目さで黙々とデータをまとめ、資料を検索していた。
部屋の主は、片膝を立てた姿勢でベッドに座り、脇に置いた端末の画面をじっと眺めている。
やがて、机の端末から送られてくるデータが一段落したところで顔を上げると、
昴治は小さく笑って椅子から立ち上がった。
「ちょっと休憩しよう。コーヒーでいいな?」
「…ああ」
頷いて、画面をひとまず終了させる。
ほどなく、深みのある香りがふわりと室内に立ち上った。
夢中になると寝食を忘れる弟に、せめて水分補給だけはさせようと、
昴治はポットと茶器一式を部屋に持ち込んだ。
余計なお世話と言われることも覚悟していたが、祐希は何も言わなかった。
昴治が差し出すカップを拒むこともない。
たったそれだけのことが、どれほど昴治の胸を温めたことだろう。
胸の中心をくすぐられるような温かさに目を細めながら、昴治は祐希にカップを差し出した。
「熱いから気をつけろよ」
言いながら手渡して、自分の分は机の上に置く。
「大分、進んだか?」
「ああ…八割方、終わった」
「そっか。じゃあ、何とか間に合いそうだな」
レポートの提出期限は二日後だ。
良かった、と笑う昴治に、祐希は眩しいものを見るように目を眇めた。
それを見た昴治が首を傾げる。
「眠いのか? 寝るならちゃんとベッドに入れよ」
時計を見ると、既に日付は変わろうという時刻だ。
目処はついたし、確かにそろそろ切り上げた方がいいかもしれない。
「あんたは?」
「俺はもうちょっとやってくよ。後少しだからさ」
「………」
納得いかない顔をした祐希に、小さく笑いかける。
「ちゃんと戸締りはしていくから。明日は朝一で講義だろ? もう寝た方がいいって」
宥めるように言われて、反論する言葉が思いつかず、仕方なく祐希はベッドに横になった。
自覚はなかったが、どうやら身体は疲れていたらしい。
横になるとすぐに、意識は眠りの波に呑み込まれていった。
* * * * * * * * *
水底から水面へ浮かび上がるように、意識がフッと覚醒した。
時計を見ると、ベッドに入ってから2時間ほど経過している。
室内の灯は落とされ、机のライトだけが部屋をぼんやりと照らしていた。
どうやら昴治は、まだ作業をしているらしい。
カタカタと控え目に響いていた音が止んだのを機に、祐希はムクリと上半身を起こした。
小さく伸びをしていた昴治が、気配を感じて振り返る。
淡いライトの光に照らされた白い顔に、驚いたような表情が浮かんだ。
「あれ? 起きたのか?」
「……まだやってたのかよ」
寝起きのかすれた声で呟かれた言葉に、昴治の顔が曇る。
「悪い…うるさかったか? もう少しで終わるから――」
起こしてごめん、と見当違いの謝罪を向けてくる昴治に、祐希は無言で眉根を寄せた。
無理はするな、と。
それだけの一言が言えない自分がもどかしい。
だが、そうして気遣う一方で、時間を惜しんで作業を進める兄に身勝手な苛立ちがこみあげた。
―――そんなにさっさと終わらせたいのかよ?
浮かんだ思考に、皮肉げな笑みが口の端に刻まれる。
それはそうだろう。こんなことは早く終わらせたいに決まっている。
昴治にとっては、巻きこまれたに等しい災難なのだから―――共に過ごす時間を喜ぶ気持ちなど、
自分の中にしかある筈がない。
それは充分わかっていた。
けれど今は、未だ頭の芯に残る眠気のせいで思考がぼんやりして、自制がきかなかった。
「……明るいと寝れない」
「あっ…」
不機嫌そうに零れた呟きに、細い肩が揺れる。
自分を睨みつける視線の強さに、昴治は思わず俯いた。
「……ごめん」
「…あんたもいい加減、寝ろよ」
つまり、「帰れ」と言われているのだろう。
そう判断して、昴治はのろのろと頷いた。
「う…ん。じゃあ、今日はこれで――」
端末を閉じて、チップや資料をまとめる。
だが、いつの間にか立ち上がっていた祐希が、昴治の二の腕をつかんで動きを止めさせた。
なに? と顔を上げた兄に向かって、顔をしかめたまま口を開く。
「……帰って、また来んのも面倒だろ」
「え…?」
「わざわざ帰る必要ねぇって言ってんだよ」
僅かに目をみはった昴治からベッドに視線を移して、ボソリと呟く。
「……え!?」
祐希の言っていることを理解して、昴治は益々目を丸くした。
「ここで――?」
お前と? と言いたげな顔に、祐希が目を眇める。
「…嫌ならいい」
つかんでいた腕をあっさり放した祐希は、再びベッドにもぐりこんだ。
そんな弟の姿を呆然と眺めていた昴治の脳裏に、懐かしい記憶がよみがえる。
兄弟の世界が殆どお互いだけで満たされていた幼い頃。
ちょっとした喧嘩や言い争いをした時、或いは昴治に叱られた時に見せた顔と、
さっき浮かべた表情はとてもよく似ていた。
怒ったというよりも―――
(……拗ねてる……?)
心の中で呟きながら、改めてベッドへ目を向ける。
昴治に背を向けて深く毛布をかぶった身体は、身じろぎ一つしなかった。
「……」
静かに深呼吸した昴治は、努めてさり気なく口を開いた。
「…そうだな。確かに疲れたし、部屋まで帰るのも面倒くさいし――」
動かない背中を見つめて話しかける。
「……お前がいいなら、ちょっと寝かせてもらおうかな…」
緊張に声が震えそうになるのを何とか堪えて、弟を窺った。
昴治の言葉をどう思ったのか、向けられた背中からは伝わってこない。
だが、いたたまれない気分になる前に、祐希は無言のまま身体を脇に寄せた。
一人分のスペースが、祐希の傍らに空けられる。
昴治の顔に、自然と柔らかい笑みが浮かんだ。
先に祐希が寝ていたおかげで、布団の中はすっかり温かくなっていた。
心地良い温もりに眠気が誘われる。
シングルベッドとはいえ、互いに細身なおかげで寝る分には問題なさそうだった。
多少狭いが、窮屈とは思わない。
僅かに触れ合った肩と背中が相手の熱を伝えて、身体中に浸透していくようだった。
懐かしい温かさに、意識がふわりと緩んでいく。
「……おやすみ」
「―――」
囁きに、祐希の背中が微かに揺れる。
何だか幸せな気持ちで、昴治は静かに瞼を下ろした。
翌朝。
相手が起きるまでは…と、目を覚ます度に寝直した二人は、結局そろって寝過ごしてしまった。
傍らの温もりから離れる決心がつかなかったのだと。
その思いは、互いの心の中に秘められたままで。
自分のせいだから手伝う、というのが表面的な口実にすぎなかったことを祐希は知らない。
そして、一度仕上げたレポートを書き直すのに本当なら半日かからなかったことも、
祐希の胸にしまわれたままの事実だった。