Fragile」


 

 

 自室であおいと戯れる兄を見た。
 胸中に渦巻いた数多の想いを噛み殺し、祐希は夕闇に堕ちていく中庭に蹲る。
 二人はあの狂気の艦の中で手を取りあい、自分は一人その方法を誤った。そうしてやはり、
またも置き去りにされるのだろう。己の中の薄っぺらい意地と、身に染みついた甘えを捨てら
れぬ、今のままでは。

 ---何から?

 いったい、誰に?
 

 「俺は行く。お前はお前で好きに決めてくれ」
 穏やかな、どこか清しい声音をもって、兄は「黒のリヴァイアス」への再搭乗を宣言した。
 翌日その決意を伝えられた母は、当然ながら取り縋るように反対したが、兄が心を変えはし
ないことを誰よりも祐希が知っていた。

 「あおいちゃんも一緒なの」
 「どうかな。考えてみるとは言ってたけど」
 「あなたたち、お付き合いしてるんでしょうにっ」

 母は最期の砦とばかり再三あおいを引き合いに出した。
 祐希にしてもその点だけが、最大にして唯一の関心事であるはずなのに、たとえ彼女が残っ
ても昴治は立ち止まりはしない、という「事実」を不思議なほど当たり前に受けとめている自分
に、驚きと戸惑いを禁じ得なかった。

 

 兄は征く。
 星々を隔て、遠く。
 思うさま蹂躙したこの手は、二度と兄には届かない。
 振り向きもせず遠去かる背中を追いかけようと腕を伸ばし、祐希は暗闇の中で目を覚ました。
 夢に浮かされ汗ばんだ首筋を拭って、ベッドの上に起き上がる。見慣れているはずの部屋の
間仕切りが、ことさら自分たちを分かつものに思えて、祐希は堪らずそれに手をかけ引き開けた。

 起こしても構わない---と覚悟のことであったのに、寝つきは悪いが眠りは深い昴治らしく、そ
の物音にも目覚める気配はない。

 カーテン越しの薄い月明かりに浮かぶ兄の顔を見下ろした。
 静かな寝息や仄かに白い頬、羽織った上掛けの上からでも分かるほど小さくなった身体を見
るうちに、祐希の中の何かがはらりと解けた気がした。

 それはこれまで難解であった数式が、ある日ふいに理解出来たときの心情に似て。
 気付いてしまえば何とも単純な、そうして愚かしいほど絶望的な答えだった。
 未だ眠り続ける昴治の枕元に屈み込んだ。薄く開いた唇に指先を伸ばし、触れた。思うより
なお柔らかな感触に、自分が本当に兄の何をも知らなかったことを知る。

 兄は征く。 
 祐希を残して。
 これまでのすべてを許し、昴治は弟に微笑みかけるようになった。誰に対しても見せる笑顔を。
 ほんの半年前まで、兄の負の感情は全部祐希のものだった。そのことでだけ祐希は、まだしも
兄の特別であったのに。

 ---傷つけることでしか、昴治の中に居場所を得ることも出来ないのか。
 いっそ憎まれてしまえば、楽になれるかもしれない。以前よりもずっと、どこまでも深く傷つけ
裏切って。

 昴治にとっては弟である---弟でしかない祐希からの、最大の裏切り。
 それは---
 身体が震えたのは罪の意識からなどではなかった。己の内に沸きあがる残酷で甘美な激情
から、目を反らせることはもう出来そうになかった。

 吐息を盗むように唇を合わせた。誰にも見えない刻印を刻むために。
 離れる間際に兄が身じろいだのが分かったが、祐希は知らぬ顔で立ち上がった。カーテンを
閉め直しベッドに戻ってからも、兄からは何の反応も返らなかった。

 
 再びのリヴァイアスで、新たに出合うまでは。
 
 
 
 「祐希は?」
 揶揄を含むでない穏やかなあおいの問いかけに、
 「聞かなかった。俺がどうするかは言ったけど。でも、多分---」
 うん、と微笑んだ幼馴染みが、濁した言葉尻をどう解釈したかは正確には分からない。昴治
自身はといえば、弟が再乗船するだろうことを少しも疑ってはいなかった。

 その生来の性質の故、そして---昴治が、ここに在るが故に。
 
 スフィクス・ネーヤやイクミ、そしてこずえらと再びの巡り合いを喜んでから、当然のことながら
日々を追う毎に、昴治は沢山の再会を果たしていった。

 出航後1ヶ月を数えた頃だった。
 「どうですか、祐希クンとは」
 訊ねたイクミに他意があったとは思わない。昴治たち兄弟の確執は周囲の広く知るところで
あったし、あの漂流を経て常の自分を取り戻したイクミが、揃って艦に乗りこんだ二人の関係
修復の度合いを気に掛けるのは、いっそ自然なことであったろう。

 「あの頃よりは大分マシだよ」
 最近の口癖になりつつある模範回答を繰り返した。勿論嘘ではなく、確かに弟との衝突は救
出以降皆無といってよかった。同時に交す言葉さえもが、失われて久しいことに目をつぶれば。

 イクミの問いが純然たる心遣いと分かるからこそ、昴治は苦笑を禁じえない。まして事実を口
にすることは憚られた。この旅が始まってから、まだ一度も顔を合わせてはいないのだ---とは。

 その実力と経験を買われ、イクミ共々弟は今回もリフト艦でのV・Gパイロットを任されていたか
ら、会う気さえあれば友人への面会にかこつけて、それは容易に叶ったに違いない。

 けれど。
 昴治は自分から弟に働きかけることに---いま、生まれて初めて「躊躇」していた。

 
 再びのリヴァイアスで昴治が祐希と新たに出合ったのは、出発から三ヶ月を数えようとする
ある夜の事だった。

 実務を終えた後、シネマブースで映画を三本立て続けに見るという、無謀ともいえるハードス
ケジュールをこなしての帰途であった。

 同行者を部屋近くまで送り自室へと向かう途中、艦内随所にある憩いのための展望スペース
の一つに、昴治はふと---正しくは、何かに引き止められたように足を向けた。

 午後11時を過ぎたそこはすでに灯りも落とされ、当然人影の1つもない。
 唯一生かされている星空を映したグラススクリーンの淡い光が、冷たい床に星の影を描いて
いた。

 (カーテン越しの月明かりみたいだ。あの夜の・・・)
 独りごち、脳裏を過った残像にじわりと胸が疼いた。無意識に人差し指で唇をなぞる自分に
気付き、羞恥と驚きに全身が燃え上がる。

 誰が見ているはずもないのに、昴治は辺りをきょろきょろと見回した---その時。
抗がい難い強い力に引かれて振り返った。漸く暗がりに慣れた瞳に、スクリーンをのぞむ壁に
背を預け、床に座り込んだ男のシルエットが映る。

 「・・・祐希・・」
 呼吸をするのと同じだけの必然をもって、弟の名が雫れおちた。
 ゆうに十数メートルを隔てたこの場所から、相手の容姿など分かろうはずもない。それでもそ
れが祐希だと確信するのは容易なことだった。

 根拠はたった1つ---それが祐希だったからに他ならない。
 昴治の声に、けれど弟の反応はない。足音を忍ばせて近付けば、その息使いから祐希が眠っ
ていることが知れた。

 呼吸を詰めて傍らに屈みこむ。強い眼光を瞼の下に納めている今の弟は、普段よりいくつも幼
く感じられた。

 (・・・やっと会ったのに、何で寝てんだよ。三ヶ月振りだぞ。分かってんのか?---バカ祐希・・・)
 とはいえ起きている弟を前にして気安く口をきけたかといえば、昴治の中の何処にもそんな自
信は欠片もありはしない。

 目を覚ましたら、昴治を目前にして---こんな二人きり夜の闇にいることを知ったら、祐希はどう
するだろう。どんな顔をして、何を言うのだろう。

 先程の胸の疼きが甦り、それはそのまま鼓動の高鳴りとなった。
 あの夜以降---リヴァイアスに再び向かうその日まで、祐希は昴治を一顧だにしなくなった。そ
れまでは時折感じられた物言いたげな素振りも一切なりをひそめ、何かを決意したような頑なさ
をもって昴治を自分から遠避け始めたのだ。

 あの夜---あの、口付けの後から。
 昴治が気付いて起きたことをおそらく祐希は知っている。知っていてただ、黙している。
 昴治にしても例えばその場で、あるいは翌朝に「何をするんだ」と詰問することも、「悪ふざけ
が過ぎる」と怒ることも出来たはずなのに。そうしていれば、こんなふうに弟に怖じけることなど
なかっただろう。

 あれがどんな意味をもつものなのか、もたないのか---果ては「有り得ない憶測」さえ抱き、
思い悩む羽目になど。

 仄暗い光の中、弟の顔を飽きることなく見つめ続けた。
 リフト艦での実習に疲れ、自室に帰る道すがらで休むうち眠ってしまったのか。見れば祐希は
相変わらずシャツ一枚を羽織っただけの軽装だった。

 無駄なエネルギー消費を無くすため、0時を過ぎた無人スペースは空調の設定が低くされる。
このままここに寝かせていては、風邪をひかせてしまうかもしれない。

 (だから・・・起こさなきゃ。しょうがない・・よな?)
 言い訳だ、と囁く内なる声を飲み下し弟の肩に手をかけた。
 その瞬間。
 兄の行動を見透ましていたかのように祐希の瞼が持ち上がり、寝起きとはとうてい
思えない、はっきりとした眼差しが昴治を真っ直ぐに捕らえた。

 驚きに声もなく固まる兄の両手首を掴み取り、いっそ冷ややかな声音で弟は言った。
 「こんな時間に、こんな暗がりで俺と二人きりだぜ。分かってるんだろうな、兄貴?」
 何を。
 どう分かれというのだろう、この弟は。
 そうして---誰に言い訳をしたのだろう、先刻の自分は。
 少しだけおとなしくなっていた鼓動がまた暴れ始めた。手首を戒める力の強さに---そこから
伝わる揺るぎない「意思」に、昴治の全ては震えた。

 それは決して、怖れなどでなく。
 反射的に取り戻そうとした手を逆に引き寄せられ、冷たい床に組敷かれる。その折にも、首に
回された祐希の腕が倒れる際の衝撃から昴治を守った。

 激しく強引であるのに、祐希の何もかもが---昴治に優しい。
 「いやなら、逃げろよ」
 被い被さる弟の貌はまるで見知らぬ男のようだった。それなのにどこか幼い頃の、昴治ばか
りを求めて止まなかった祐希の面差しが重なって離れない。

 ただの執着。
 それとも。
 我知らず一方を疎み、もう一方であることを願った。
 そんな自分に昴治は息を飲む。いま願ったのは---一体どちらを?
 困惑に揺れる視界の中、祐希は兄の顔を傍近くで覗き込んだ。
 「あおいにどう言い訳する気だ。嘘の下手なあんたが」
 身動きできない昴治を咎めるような物言いだった。以前の祐希が、姉弟のように育った幼馴
染みに寄せていた想いは知っていた。祐希自身が示した、いま昴治を閉じこめるこの腕からの、
それは解放の呪文に違いなかった。

 「・・・あいつは親友だ。大切な家族だ。もう、とっくに」
 祐希の瞳が幾重もの驚きに見開かれたのが分かった。
 口にした事柄は真実だった。一度はその手を取り合ったあおいとは、新たな絆を繋げて久しい。
 それでも---昴治が弟の仕業を良しとしないなら---この場で明かすべき事ではないはずだっ
た。その意味が変化した今もあおいを大切に思う弟の、行動を縛り咎めるためのもっとも有効な
口実であったのに。

 「---今夜、一緒だったくせに・・・こんな時間まで」
 視線を外し、祐希は小さく言った。
 「映画に付きあっただけだ。三本も!しかもムチャクチャ古い恋愛映画だぞっ?途中で寝たか
ら、すっごく怒られるし」

 疑われたくなくて言い募った。何故、と胸中で理性が叫ぶ。
 再び兄に目を向けた祐希の眼差しは、怒りに程近い絶望に満ちていた。
 「逃げないんだな・・・!」
 返答を返す暇もなく、噛みつくように口付けられた。あの夜の、夢にも似た触れあいからはか
け離れた貪るような求めに、昴治は一秒と平静を保てはしなかった。

 唇を割って入りこんだ祐希の舌に思うさま口中をまさぐられ、呼吸さえ見失って弟の胸に縋り
付いた。

 「何で・・・逃げない・・」
 祐希の繰り返す言葉の意味に、激しい熱に浮かされ朦朧とした頭は追いつけない。けれど昴
治の中にいま一つだけはっきりしている事が、伝えなければと心が逸る想いがあった。

 「逃げない・・・俺はもう、お前から---」
 その途端、
 「ふざけるな、馬鹿兄貴!同情でもしてるつもりかっ」
 突き放すように身を離し、唐突に祐希は立ち上がった。弟の豹変に驚き僅かに出遅れた昴治
が、言葉を継ぐゆとりもなかった。

 「っ・・・ちが・・・」
 悲鳴のような兄の反論に振り向きもせず、祐希は踵を返す。冷たい床に昴治を残し、その背
中は薄闇の中に駆け出した。

 追い縋る言葉を---その手段を未だ持たない昴治に、弟を引き止める術はなかった。
 「・・・お前の方こそ---」
 溜息のようにそう言って、置き去られた身体を抱きしめた。先刻までの熱が嘘のように醒めて
いき、代わって襲い来る夜特有の孤独がことさらに昴治を苛んだ。 

 「「俺」なんか、見ちゃいないんだ・・ろ」
 祐希の情の正体に気付こうとしない堅くなさが、自分の何に起因するのかを知らぬままに、昴
治はただ弟の無配慮を責めることしか出来ずに蹲っていた。

 
 
 幼い幸福に満たされた世界の崩壊のあと、永い虚無の崖っぷちを歩き続けた。
 訪れた転機のはずの新しい在処はしかし、抜け出したはずの暗がりよりも居心地の悪い、公
正という灯りをかざした裁きの場でしかなかった。少なくとも、今の祐希にとっては。
 
祐希の手を拒まない兄が在る---理由はそれだけで充分に過ぎた。

 誰にでも与える許容の温もり---そんな代物をこの自分に向けることだけは、許さない。
 「あんたがその気なら・・・もう、容赦はしない・・」
 呟く声は冷め始めた通路の宙に、その闇の中に紛れて消えた。
 祐希の胸の奥、何時までも尾をひき響き渡る、声なき悲鳴が止むことはないのだ。手には入
らない至上の願いを心に想う、その責め苦が続く限りは。 

 
 
 欲しいのは慈愛なんかじゃない。
 
 欲しいのは執着なんかじゃない。
 
 
 
 欲しいのは------ただ、「それ」だけなのに。
 
 
 
 
 
 <end>