祐希が兄のベッドで目を覚ました時、腕の中にいたはずの寝床の
主の姿は既に室内になかった。
 カーテン全開にされた窓ガラスから差し込む陽光の位置は高から
ず、低からず。今の季節を鑑みても、休日の朝としてはそう遅い起床
時間でもないはずだったが、祐希の思った通り昴治は家中の何処に
も見つからなかった。
 まだ下艦一日目だというのにご苦労なことだ。祐希は大いに呆れた
が、思い返せば昴治は昔からこの季節が気に入っていて、よく一人
で用もないのにふらふらと出歩く事が多かった。
 兄に置いていかれたくらいで不貞腐れるほど流石に祐希ももう子供
ではないが、面白くないことに変わりはない。
 それでもある種の予感の命じるまま、母も出勤した後の人気のない
ダイニングへと不承不承、念のため足を向けてみた。
 はたして。
 その行動を見透かしていたように、ダイニング・テーブルの上、小さ
な紙片が兄の文字を携えて祐希の来るのを待っていた。
 『3丁目の交差点でAM11時』
 反射的に見上げた柱時計が示す時刻は10:25。急ぎ身支度を整
えて出掛ければ間に合わないことはなかった。が、
 (俺がのこのこ行くと、当然のように思ってんのが気に入らねえ)
 ここ数年来、兄に対してだけは常に寛容であろうとする祐希にして
珍しく、生来の天邪鬼な部分が何やらむくむくと頭を擡げてきた。
 昴治の朝っぱらからの徘徊と同様、祐希のこれもまた馴染み深い
実家の空気の故だったかもしれない。
 ずっと兄に多くを望み強請るばかりだったくせに、その昴治の願い
や言いつけを自分は、一体今までどれほど果たしてきたろうか。
 そう悔いる気持ちの一方で、だからこそ祐希の中に未だ僅かに残
る甘えたがりな幼い部分が素直に兄に譲ることを承知しなかった。
 勝手に待ってろ。
 乱暴に引き出した椅子にどかりと腰を下ろし、些か負け惜しみめ
いた気分で心中に呟いた。

 気候も上々、よく知る故郷の街中でならば、待ちぼうけをくわさ
れようがさしたる実害もないだろう。

 間違いなく昴治の機嫌を損ねることになる、祐希の身の上以外に
は。

 そう実感した途端、胸の芯にほんの少し鈍い痛みがはしった。次
いで鼓膜の奥に甦る、兄の---昨夜も耳元で幾度も聞いた---祐希の
名を呼ぶ、甘やかな声音。

 またも荒々しく椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、祐希は二階へ
の階段を駆け昇った。

 「・・・ったく!覚えてろよ、くそ兄貴っ」
 今度は明らかな負け惜しみを承知の上で、せめてもの愚痴を声に
出しながら寝巻き代わりのTシャツを自室の床に投げつけた。手近
な衣服を身に付け、不揃いな髪をぞんざいに結い直す。

 ほどなく。
 自慢の俊足を活かし、相葉家の次男は住宅地の狭い通りを走り抜
けて行った。

 時間通りの待ち合わせ場所で出逢うだろう兄の笑顔を想い、知ら
ず頬を緩ませる自分になど勿論気付かぬ素振りで。



 半年振りの帰省だった。
 頃は初夏。
 重なり合う街路樹の緑を透かして、今や短時間しか姿を見せない
太陽の光が、乾いた歩道に余すところなくきらきらと降り注いでいた。
 のこのこと、しかも結果的に全力を尽くしてしまった哀れな恋するオ
トコは、見事約束の時間ジャストには指定された交差点の一角に立
っていた。
 「祐希!」
 道路を隔てた向こう側から、待ち合わせていた兄の、自動車のエン
ジン音にも掻き消されることのない---おそらくは祐希にとってだけ--
胸に優しい声が届いた。
 笑顔で手を振る昴治は、タイミング良く信号が青に変わった横断
歩道を渡り、何時になく軽やかな足取りで祐希の元まで駆けてきた。

 「よく起きたな。もしかして来ないかも、とか思ったけど」
 弟の気も知らぬげに、さも楽しそうに兄は微笑む。
 持久力に長けた祐希だから、全力疾走のせいでの動悸もすでに治
まってはいた。本当はここに着くまでの間、兄への文句を脳裏に山
と並べ連ねてきたのだけれど。自分で予測した通り、実際それを昴
治にぶつけるつもりにはならなかった。

 こうしてその姿を目の当たりにすれば、遣り込められたような悔
しさも勝手に抱いた焦りも、湧き上がる愛おしさの前にいとも簡単
に蕩け消えてしまう事実をとうに、祐希は身をもって識っていたか
らだ。

 「---何の用だよ」
 不機嫌を装った口調は、祐希のなけなしの腹いせだった。
 別に、と言い掛けた昴治は、何かに心づいたように少し高いとこ
ろにある弟の顔をじっと見上げた。その幼い貌は穏やかなままだっ
たが、祐希には兄がたった今「何か」に気落ちしたことが解った。

 「ただ---あんまり良い天気だったからさ。外歩きたくて」
 昴治の、いつもの困ったような口調とよく見せる苦笑。それでも
祐希の胸は痛み、兄を慮る想いが却って某かの言葉を探すその喉を
塞いだ。

 「一緒に行こうっていっても、お前起きないだろうから一人で・・・
でも玄関まで下りたら、やっぱりお前と」

 一緒がいいな、と思って。
 声には出さない昴治の「告白」の続きを察することは容易かった。
躊躇しながらも、いそいそと「伝言」を用意したのだろう今朝の兄
の様子が目に浮かぶ。

 「けどさ・・・そりゃ迷惑だよな。お前朝弱いのに。悪い」
 無理に明るく言って、昴治は恋人の利き腕を軽くたたいた。嫌な
ら来なくてもよかったのに、と言いながら離れていく小さな手を掴
んで引き止めたのは、祐希にして無意識のことだった。

 「・・・俺が来なかったら、どうした」
 問いかけは動揺に揺れていた。昴治は少しだけ驚いたように弟を
振り返り、

 「ええと、そうだな・・・ここで少し待って。それからあそこの---
交差点のとこのあのコーヒーショップでバーガーでも買って、それ
食いながらもう少し待ったかな。あとは、すぐそこの公園でぼーっ
としたり」

 当然兄がその可能性を考えなかった筈はない。すらすらと語られ
る明確な「たとえ話」に、祐希は安堵の溜息を深々とつかずにはい
られなかった。

 こんなに晴れた空の下で、弾んだ気持ちで出掛けたろう昴治をた
ったひとりで過ごさせずに済んだ。この祐希にとってこその幸運を
誰にともなく感謝する。

 「迷惑に決まってるだろ」
 捕らえた兄の手を解放し、細い右肩をそっと抱き寄せた。
 「あんたの呼び出しでなきゃ、な」
 低く囁きを注ぎ込んだ左耳が、柔らかな髪越しにも瞬時に朱く染
まったのが見てとれた。身を硬め俯いた昴治の眦に、祐希は惑いな
く唇を近付ける。

 頃は平日の昼日中、処は市街地の交差点付近。はたと我に返った
昴治が、弟の腕から逃れようと慌てて身じろいだのも無理はない。

 「っばか!」
 頬を燃え上がらせ昴治が反射的に振り上げた拳をなんなく躱して、
祐希はくるりと背を向け歩き出した。

 「お互い様だ。ばか兄貴」
 「え?・・・おい、祐希」
 「置いてくぞ」
 歩くんだろ、と素っ気ない口調で続けつつ、肩越しに前へ向け顎
をしゃくった。「なんなんだよ、もう」と何時もの口癖ばかりが追
いかけて来る方に半身だけ振り向いて、祐希は当たり前の仕草でそ
の手を伸べた。

 どうしても応じずにはいられなかった、大切な招き人へと。
 見返す兄と眼差しを交した。漸くこちらに足を踏み出した昴治は
しかし、そのまま祐希の手を取ったりはしなかった。

 弟の腕に自分のそれを絡め、引立てるように足を速めながら、
 「・・・来てくれて、うれしかった・・」
 昴治は小さく呟いた。おずおずと見上げてくるはにかんだ微笑み
が、祐希の心の奥にふんわりと灯ってその胸を温めていく。

 こんなに晴れた空の下だから、お互いだけの時のようには寄り添
い触れ合えないふたりだけれど、それでも街を渡る風は誰にも隔た
りのない清しい優しさに満ちていた。

 この青空の上で待つ、稚い少女の声音のように。
 「明日もまた、何処にでも付き合ってやる」と言ったら、兄は妙
なものでも食わされたような顔で驚くに違いない。

 それとも先刻ここで会った時と同様に、あの雫れるような笑顔を
見せて喜んでくれるだろうか。

 休暇はまだ始まったばかり。
 ゲドゥルトの海の上では毎度邪魔をしてくれる同朋らも、天の采
配か今回ばかりは揃って担当課の居残り当番にあたっていた。

 何に、誰に煩わされることもなく過ごせるこの数日間を思い、祐
希はこっそりと満足の笑みを刷く。

 「祐希---!」
 何時の間にか僅かに先を歩いていた昴治の呼ぶ声がした。
 兄が祐希に望んでくれる限り、何であれそれを為すに惑いはない。
手に入れた屈託ない笑顔とこの至福を確かめるために、祐希は自分
を待ちわびる恋人へと足を速めた。

 変わり映えのない故郷の街の、よく晴れた空の下で。




 
<END>



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身内からのリク(?)だったので、普通にSSとしてUPするつもりでいたら
「未申告分キリ番リクに載ってない!」とクレームをくらいました(^_^;)ので、
急遽キリリクSSと相成った甘々話です。時期がバレンタインだったから、そ
んなふうにしたかったのですが、どうしてもこの話は初夏な感じが良くて。
季節外れで申し訳ありません(^・^)