《各巻の冒頭・抜粋》 |
infinite canon T 「始まりの旅路」(前)
かつて人の世を統べたといわれる「チタニア光国」が、伝承の一つと成り果てて久しい。
いまや数多の欲を溢れさせた無数の国々は、己の正義のみを掲げ、飽くことなく戦火を
広げ続けていた。
そんな世情にも関わらず、東方の大陸の中央に在る小国「地の国」では、とりあえず奪う
ことも奪われることも知らぬまま、その穏やかで豊穣な大地の恩恵のもと、人々のささやか
な暮らしが営まれている。
西側に大国「星の丘」、残る三方を母なる大河「ゲドゥルト」に守られたこの都は、小さい
ながらあらゆる学芸術、そして武術の中心でもあった。
永く善政をひいた前王の死後、後を継いだ現国王はいまだ十八と若く未熟ではあったが
両親譲りの温厚な人柄で多くの民に愛されていた。
大河を背にして立つ王宮---他国に比べて些か謙虚な---その裾野に広がる首都「リベ
ール」には、知の最高峰「元老院」、そして聖母アルネを祀りし「祭司殿」が並び立つ。
「祭司殿」---それは、失われた神の国「チタニア」と引き替えに世界を護ったという、悲
劇の女神の魂が微睡む処であった。
アイバ・コウジは今年十七才を迎える祭司見習いである。
代々祭司の家系たる家の長子として生まれ、周囲の意向のままこの職に進んだ。親の
期待を退けるほど強く、他に望む道とてなかったからに他ならないが、たった一人の弟は
そんなコウジを臆病な偽善者と罵って家を出た。それからすでに三年の歳月が経つ。
十七の祝いを三日後に控えた日のことだった。
午前の祭事を終えたコウジが、至急の呼び出しを受け「元老院」へと赴く途中で不可思
議な---コウジにとっては珍しくない---事象に行き合ったのは。
前夜見た夢が一日中脳裏にちらついて、まだ昼日中だというのにすっかり疲れ切ったコ
ウジの目前---ほんの十歩ほど離れた場所に至極唐突に現れた少女は、見たこともない
衣装を纏い、夏の日の陽炎のようにぼんやりと佇みながらこちらを見つめていた。
その髪は水に溶かした菫色、朱色の瞳には底知れぬ哀惜が満ちている。
昨夜の夢でも感じた、奇妙な懐かしさを漂わせた明らかに「人」の気配を持たない美しく
華奢な姿のそれに、誰何の声を掛けようと口を開きかけた時、
「コウジ?どうかしたのか、そんな所で」
よく聞き知った声が背中に届き、途端に少女の輪郭が揺らいだと思う間もなく、その身体
は微かな風とともに宙へと融けていった。
そうしてまたそれを追うようにして掻き消えた、汚泥の如き黒い影をもコウジは視界に捉
えていた。
「・・・精霊・・・と---」
「え、何。なんだって」
コウジの独白に、若々しく張りのある声音が応えた。
「元老院」と「祭司殿」を結ぶ街路の両脇を飾る植え込みを掻き分け現れたのは、端正な
容貌の友人---名をオゼ・イクミという。「木の国」出身の同い年だ。
「植え込みにズカズカ入るなって言ったんだよ。どっから出てくんだ、お前は」
眉を顰めて振り返ったコウジに身を竦める振りをして、イクミは叱られた子犬さながらに
ションボリと言い繕う。
「だって一つ向こうの路からコウジが見えたから。すごく久しぶりだったからさ、つい・・・」
「休日の祭祀で会っただろ。あれ一昨々日だぞ」
少し怒ったような、困ったようないつもの口調。
「相変わらずツレない」などとボヤきながら、イクミは生成りの祭司服の左肩に、幼子さな
がらにしがみつく。
自分より有に手のひら一つ分は背の高い男に擦り寄られ、いくら懐かれても鬱陶しいば
かりである。コウジは苦笑混じりに溜息をついたが、それは額面通りイクミの言動に呆れ
ての事ではなかった。
「お前にも見えたのか、さっきの・・・」
時に過ぎるほど察しの良い友人の心配を見透まして、コウジは「少女」が立っていた辺り
へと視線を戻した。
明るい翡翠の瞳の奥に、生涯拭えない闇を潜ませた少年は、戯けた表情を改め細い肩
に置いた手に心なし力を込める。
「いいや。コウジを偶然見つけたのはホント。ただ何だか・・・何だろうな、イヤな感じがした
んだ。だから慌てて声掛けた---やっぱり何か在た≠フか?」
「ああ。でも特に悪いものじゃないと思うよ。あの子≠ヘね。ただ・・・」
優美な眉を寄せて友人の顔を覗き込むイクミに気付き、コウジは言葉を続ける代わりに
小さく微笑んだ。不用意な事を口にして、無為に気に病ませたくなどなかった。
「それより、俺は早いとこ「院」に行かなきゃ。またヘイガーあたりのイヤミ攻めに遭わない
うちにさ」
肩すかしを食らったように目を丸くするイクミにもう一度笑いかけ、コウジはゆっくりと歩を
進めた。
思わず声に出しかけたそれは、他の誰に伝えるべき事柄でもない。自分と祭司長、「元
老院」の重鎮、そして「地の国」を統べる者ら以外には。
訪れた「先夢」や「精霊」、そして何よりあの不吉な「影」が指し示すもの。満十七才が近
付いたコウジの、「師表」としての運命の予兆のことなど。
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infinite canon U 「始まりの旅路」(後)
その漆黒の闇はすでに、コウジには馴染んだものとなっていた。
ただ一つ違うのは、いつもはたった一人のはずのこの場所のどこかに、別の誰かの気配
を感じることだった。
会いたいと願った。叶うと何故か解っていたからだ。
白絹を羽織った華奢な少女の姿が、ぼんやりと浮かび上がる。不可思議な既視感。
(きみは・・・)
コウジの呼びかけにゆっくりと少女は顔を上げた。長い亜麻色の髪が肩へと流れ、露わ
になったその貌は息を飲むほど美しく---それ以上に深い悲しみに彩られていた。
(ごめんなさい・・・)
震える唇が囁く。
(許して・・・)
少女はそう繰り返しながら、白く滑らかな頬に澄んだ真珠を幾粒も雫した。
彼女が詫びるたびコウジの胸は痛む。息子をこんな運命に産み落とした自分を責めて毎
夜泣き暮らしていた母に、無意識に印象を重ねたのかもしれない。
(うん、分かった。もう泣かなくていいからさ。俺はコウジ---きみは?)
気の利いた台詞など元より自分に期待していない。ただ彼女の気を紛らわせたかっただ
けだから、問いの返事は特に望んでいなかった。が、
(---ファイナ・・・)
叱咤を恐れる子供のようにどこか戸惑う口調ながら、少女はようやくコウジの目を真っ直
ぐに見返してきた。
その名をコウジは熟知していた。祭司殿に仕える者で、その名を知らない筈はなかった。
少しだけ何かが報われた気がして、知らず浮かんだ笑みをファイナに向ける。
(俺はきみと会ったことがある、と思う)
亜麻色の瞳が驚きに見開かれた。
(暗闇の中で「詩」を聞いた。どんなって訊かれても答えられないけど・・・あれは確かにき
みだったと思うんだ---違う、かな)
遠く微かな「声」---やがて辿り着く約束の場所で聞いた、永く哀しい一つの「詩」。
一度は口を開きかけ、ファイナは刹那の躊躇のあと唇を噛みしめた。
コウジは静かな微笑を深める。やはり答えを得られるとは考えていなかった。
(訪ねて行くよ。その時には、詩の続きを聞かせてくれるね)
言った途端に、視界は三色の輝きに満たされた。
ファイナを呼んだ筈の自分の声さえ光にまかれ、コウジは何に向かってか思わず手を伸
ばす。
よく知った温もりが、闇に冷え切った指先を優しく包みこむのを感じながら、コウジは脳裏
に刻まれていた「記憶」が---古の契約が、いまこそ解放されたのを理解した。
傾いだコウジの身体を容易くブルーが受け止めた。
驚いて駆け寄りざま、大きく呼びかけてみる。ぼんやりとはしているが、特に苦しがる様
子がないのを見てとって、イクミは胸を撫で下ろした。
視界の端で意固地な弟の狼狽を捉えたけれど、それに構ってやる余裕などない。
「早くどこか---まだ祭司殿の方が近いか」
イクミの言葉に是非もなく、ブルーは友人を横抱きに抱え上げた。
部外者の立ち入りを許さない「元老院」でない場所に運び込める理由が有ったのは、自
分たちにして好都合だった。
「待ちなさい。コウジはこちらで運びます」
祭司長の制止は予想の内だ。イクミには勿論、素直に従うつもりも義理もなかった。ユウ
キも同意見であるらしく、
「こんなザマで儀式もくそもねえだろうが」
母親に取り付く島もあたえぬ邪険な態度もそのままに、周りを取り囲む者たちを睨み据
える。
クツギがさらに口を開こうとした、その時だった。
身じろぎ一つ見せなかったコウジの両手が、ふわり、と宙を抱くように持ち上がった。
次の瞬間。
閃光が辺りを埋め尽くした。
息さえ出来ない程の光の奔流に、悲鳴とも喚声ともつかぬ声が幾つも響く。
イクミはブルーを---その腕にいる筈のコウジの姿を求めて目を凝らした。少しずつ光が
おさまっていく中、はたしてコウジはイクミのすぐ目前に、己の足で立っていた。
コウジ、とその名を紡いだ唇が閉じるまでの刹那のことだった。ほんの一瞬、全身に圧力
としか言い様のない力が加わったかと思う間もなく、すとんと何かが身体の内側に「落ちて
きた」のだ。
見ればコウジを中心にして立つ、自分とユウキ、ブルーの四人だけが、いまだその身に
光の残像を纏っている。
途方に暮れたようなユウキとブルーの様子からして、イクミの身に起きたのと同様の事態
があったのだと察せられた。
焦点の定まらない眼差しのまま、コウジはゆっくりと右手でイクミを指し示す。
「・・・「許容」を司りし風の守護---」
祝詞めいたコウジの声音。
「汝の名を---<金>のブラティカ」
途端にイクミのごく周りにだけ、金色に煌めく風の渦が巻き起こった。訳の分からないイク
ミの手のひらの中、柔らかな温もりが生まれ、次いでそこには見る間に小さな---黄金の
長竜が姿を現す。
「「秩序」を司りし水の守護」
ブルーを指さしコウジは続けた。
「汝の名を<蒼>のアインヴァルト」
澄んだ水の膜がブルーを包み込み、やはりその手に、今度は紺碧のそれが収まった。
さしものブルーにも驚愕の色は濃い。
(まさか・・・そんな)
イクミは自分の正気を疑う思いだった。
他の誰が選ばれたとしても、これほどまで驚きはしなかったろう。よりにもよって、幾重も
の意味で罪人であるこの身に比べれば。
(伝承の---「三色の武神」・・・俺たちが・・・?)
けれどこの選択が誤りである筈はなかった。
「「正義」を司りし火の守護」
最後の一人が選ばれようとしていた。
兄を見つめるユウキの強い眼光。その視線の意味するところがイクミには、おそらくはブ
ルーにも、いっそ哀れなほど伝わってくる。
武神であることは即ち、「要」である兄を「守らなければならない」責務を負うことだ。コウ
ジを守る、確固たる大儀を。
ユウキにとってこれ以上はない、残酷で甘美な責め苦。
「汝の名を<朱>のリヴァイアス---」
ごうっ、と音を立て深紅の炎がユウキに覆い被さる。手の中の紅い長竜になど目もくれず
新たなる<火>の武神はただ焼け付くような眼差しで、<師表>だけを見ていた。
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infinite canon V 「解放の鍵」(前)
世界七大陸のもっとも北緯に位置する大陸の北の果てに、「天の原」と呼ばれる荒野があ
る。
そうしてそこに、かつて人の世を統べたという神国「チタニア」は在った。数世紀を遡る、い
まは知る者とてない遥かに遠い過去のことだった。
「「ファイナ」---それがチタニア最後のお姫さまの名前?」
右肩に微睡む<風>の守護竜のたてがみを撫でながら、<風>の「武神」オゼ・イクミは隣に
座る親友へと目を向ける。
街道沿いの木立ちの中で枯れ木を集め---<火>の守護竜が得意げに燃え上がらせた--
焚き火を囲んで、三人の「武神」らと「要」は今、簡単な夕餉を終えた。
「ファイナ・エス---思慮と慈愛の女神「アルネ」の、もっとも覚えめでたき巫女だったと言
われてる。失われた伝承の至上の語り部だ、とも」
イクミの問いに肯いて「要」たるアイバ・コウジは旅の同行者たちを見回した。
左隣に<水>の「武神」エアーズ・ブルー、そして穏やかに燃える炎の向こう側には、コウ
ジのたった一人の弟---<火>の「武神」アイバ・ユウキの仏頂面があった。
精霊の警告に背を押され「地の国」を出発した一行は、コウジの導きのまま北へと馬を走
らせた。
丸一日分の距離を稼いだ後、この場所を今夜の寝床と定めて、ようやく落ち着いたところ
だった。
「夢の中の約束を果たす為に、「ファイナ」の待つ「チタニア」へ向かう」
荷を解きながら旅のこれからを訊ねたイクミに、コウジはそう真顔で答えて皆を驚かせた。
ことに「ファイナ」という名についての知識を持つユウキは、驚愕を超えて憤りさえした。
その国はとうに灰となって消え果て、ましてかの王女に至っては、あまりにも遥かな歳月
を隔てた時代に、すでに逝ってしまった人物であるのだから。
それでも「他に手がかりらしきものは何も無い」と、「師表」である兄に断言されてしまえ
ば、いかに雑言に長けたユウキといえど、それ以上反論の余地はない。
「「伝承」っていうのは、「魔王」や「武神」のことを唄ったアレですか」
まさか自分がその勇者になろうとはね、と心中でのみ呟いて、イクミは火に掛けられてい
るコーヒー・ポットを取り上げた。
コウジは親友が注いでくれるコーヒーを自分のカップに受けつつ、
「ああ。でもお前も内容をちゃんと知ってる訳じゃ、ないだろ?祭司とか学者でもなければ
さ。普段の生活に特別必要なものじゃないし」
「っていう以前に、全体像がどれだけのモノかも見当がつかないよ。コウジたちは知って
るんだ?」
視線の端でユウキの表情が渋くなったのをイクミは見逃さなかった。
弟の様子に気付くことなく、コウジは生真面目に受け答える。
「いま現在に伝えられている「伝承」は半分にも満たないらしいけど。本当のところは分か
らない。けど、その後半が失われたまま伝える者もすでにいない、ってことは確かなんだ。
そしてその後半にこそ「断罪の王」から世界を救う方法が唄われている、と言う」
夢の中でコウジが漏れ聴いた、最後の語り部が唄う真実の伝承。他でもない「要」継承
の「儀式」の最中に視た夢であるというその事実が、ファイナとの出会いを必然と知らしめ
ていた。
今コウジらの手の中にある鍵は、「ファイナ」以外にはたった二つだ。
「魔王」の覚醒は未だ完全ではなく、その為には「要」を己がものにせねばならない事。
その「魔王」から「要」を護るべき「三色の武神」もまた、各々の力を「目覚め」させるに至
ってはいない事。
「・・・断罪の王・・か」
静かであるのに、聞き流すことの出来ない韻をもつ声音でブルーは言った。
伴侶の嘆きが仙境の武人であったものを魔王に変えた。そしてその原因は自分たち人
間の罪深さに他ならない。
それでも。
「種の滅び」を甘受することは出来なかった。
こんなにも愛おしく想う者らが生きる、この世界を諦めるわけには。
武神たちは口に出しては何も言わなかった。
だからこそ---それぞれが胸に描いているだろう、本当に護るべき相手の元へ、無事に
彼らを送り還すことを改めてコウジは自身に誓った。
ともに歩いていく未来をもはや、持たない身であればこそ。
旅はまだ、始まったばかりだけれど。
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infinite canon W 「解放の鍵」(中)
瞼を持ち上げた筈の視界は、薄暗くそのくせ白濁とぼやけたものだった。
何かが動く影を認め、新たな攻撃に身構えようとしたつもりの身体はしかし、石のように
強ばり微動だにしなかった。
「動くな。いや、おそらく動けまいが」
聞こえたのは抑揚のない男の声音。その様子や辺りの静けさからしても、あの「女」たち
はすでに傍にはいないようだ。
「全身の火傷と裂傷---あちらこちら骨折もしている。医者も驚いていた。生きているのは
奇跡に近い、と」
そう告げながらも、男---エアーズ・ブルーの口調からは、それほどの事態を目の当たり
にした僅かな感慨も伺えない。
不思議なことに痛みはなかった。という以前に、全ての感覚が遠くに切り離されているよう
な、気味の悪い脱力感に全身が支配されている、そんなふうに思った。
ここは何処だ、と問うた筈の声はユウキの口中で霧散して消えた。たったその程度の力
も残っていない己の実情に、ブルーの言の正しさを認めざるを得ない苛立ちをせめて舌打
ちで晴らす。しかし、
「港近くの漁師小屋だ。今は使われていないようなので拝借した。宿まで運ぶ猶予は無
かったのでな」
偶然か、この男に読心の心得でもあったのか。ユウキが眉根を寄せると、
「俺ではない。聖霊たちの力だ」
ブルーの肩にはなるほど蒼く細長い影があった。では自分の身近にはあの忌々しい赤鰻
が、きっとこそこそと隠れているのだろう。そういえばアインヴァルトの頭部---と思しき部分
---は、ずっとユウキの頭上に向けられている。
唯一自由になる目線を上向ければ、ぼやけたままの視界の端に、酷く緩慢な動きをする
紅い紐の先っぽが映った。
(それで隠れてるつもりかよ、バカ竜が)
呆れ半分で嘲笑したはずの胸の内に、勢いよく満ちてきたのは紛れも無い安堵だった。
その事実に自分自身で驚いて、ユウキは再び心中で舌を鳴らす。
「ブラティカにここを知らせた。間もなく二人して飛んで来るだろう」
ブルーの物言いはどこまでも平坦なものだった。
二人が誰を指すかは問うまでもない。兄がやって来る。その目にこんな無様な姿を晒す
のか。こんな、指先一つ動かせない---。
次の刹那、ユウキの負傷を目にした瞬間の、兄の表情が脳裏へと鮮烈に浮かび上がっ
た。全身が総毛立ったのは、いっそ恐怖に近い焦りの為だった。
知らせるわけにはいかない。
知れば必ずあの馬鹿げたほどお人好しの兄は、他人よりも心を遠ざけた弟の為でさえ、
深く胸を痛め<要>として、ユウキらを旅へと誘った己を責めるに違いないのだ。
(---おい)
もう見たくない。自分のことで兄が不快な思いをするところなど。
(オゼの竜に来るなと伝えろ。こんな時に煩わされるのは御免だ)
強い「口調」でリヴァイアスに命じた。<要>を大切に護るべき聖霊なればこそ、ユウキの意
を汲みコウジを引き留めるに否やはないに違いない。
反駁は意外な者から返った。
「あいつは昨夜から酷く心配し続けていた。顔を見れば少しは安心するだろう」
ブルーの頬に滅多にない憮然とした色が浮かんだのに、当然ユウキは気付かなかった。
「お前には看護の手が、あいつにはそれを為す事が必要だ。素直にここに呼べ。今くら
い、やさしい言葉をかけてやれ」
(・・・クソ兄貴の都合なんぞ、知ったことかよ)
胸が痛むのを抑え言い放つ。
ユウキの同朋であり、コウジにとって友人である二人には、弟の兄に対する意固地な執
着などとうに看破されていたから、ただの強がりと取られることも承知の発言だった。
平素であれば黙殺か、ただ小馬鹿にした視線を投げて寄越すだけだったブルーはしかし
更に苛立ちを濃くした様子で、
「それほど---真にそれほど疎むなら二度とは近付くな。傍近くに寄り添わずとも、武神の
役目は果たせる」
その物言いには明確な怒りが込められていた。
「お前が要らぬというなら金輪際渡しはしない。少なくとも、俺の目の届くところで、あいつ
を傷つけることは許さん」
第三者的に見ればブルーの言はより正当であったろう。が、理性がそれを認めても、ユ
ウキの真の感情が甘受出来たはずはない。
(てめえのモノみたいに言うんじゃねえよ!)
「では、お前のものだとでも言うつもりか」
ユウキは息を飲んだ。そうだ、と---生まれた時から俺のものだと叫びたい想いを押し止
めたのは、ただ兄をここに近付けない為、その結果コウジを煩わせたくない一心ゆえだっ
た。
(---勝手なことばっかりほざくな。あの馬鹿を自分のいざこざに巻き込んでおいて)
悔し紛れに言って、途端にユウキは後悔した。
ふつりと黙りこんだ男が、少なくとも今どれほど親身に兄を案じているか。どれだけ腹立
たしくともそれを解せぬほど、ユウキは愚かで有り得なかった。
(とっとと帰れ。いまは---他にやるべきことがあるだろう)
「女」の目当てはユウキを滅することではない。
そして目下の標的は、未だブルーでさえありはしないのだ。
<要>を護る。
---代わりに。
リヴァイアスが小さく囁いた。
ユウキに勝るとも劣らぬほど不器用な、自分に不正直な男の独白を。
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infinite canon X 「解放の鍵」(後)
コウジを介して見知った「元老院」十二文官の一人だというその男は、前評判をはるかに
上回る凡庸さをもってイクミを驚かせた。
「だから言っただろ、らしくないって」
困ったようないつもの口調で言ってコウジが肩を竦めたのも、イクミの目論見への---秀
逸を誇って憚らない、その鼻っ柱を折ってやろうという---意欲を削ぐ一因ではあった。
その男---チャーリーことグッドタートルランド三世に、何を勘違いしてか自ら近付く美女が
現れた。
「女」が、数日前コウジを半死半生の目に合わせた街の悪童集団「チーム・ブルー」の一人
であることはすぐに知れたが、あまりにもあっさりと弄落されたチャーリーにはさしたる大事で
もないらしく、その流れから所謂「札つき」の連中との誼をもつ羽目になった。
故郷からはるばるコウジを追って---と、今でもイクミは疑わないユウキと、初めて顔を合わ
せたのも同じ頃だった。
修学院の夏季休暇を利用し、友人付き合いの一環としてコウジの所用に付いて来たタイタン
での、ほんの数日の間のことである。
どことなく品を感じさせるブルーはともかくも、チームのメンバーとチャーリーを見るにつけ、
その接触の目的が文官の懐にあることは容易に察せられたが、カモにされている当人にはそ
れさえもが、どうでもいい事柄であったらしい。
それほどに彼はクリフにのめり込んでいた。
イクミにとっては見飽きた茶番であり、コウジ共々案じる顔で見守る振りはしていても、その
心中では冷笑を禁じ得なかった。
そんな折だった。
「クリフはチャーリーのことが、ホントに好きなんだよな」
「さあ、本人がそう言うならそうなんじゃない?」
至極真顔の友人に自分では欠片も信じていない台詞を返しながら、イクミは「コウジから他
人を疑う言葉を聞きたがらない」己の心情に気付かされた。
そうしてやがて訪れた二人の関係の変化に、イクミはコウジの真意を知る。あれは疑問など
でなく、ただ確信であったのだ---と。
それは。
自分から近付いたはずのクリフの態度が、見る間にチャーリーに対しよそよそしく、やがて明
らかに遠ざけるようになったことから始まった。
突然の拒絶に当然男は慌てて追い縋る。
「女」はなおも身を躱す。
それでいて迷惑げに彼を振り払う「彼女」の何処にも、チャーリーへの嫌悪など微塵も窺えは
しない。
他のメンバーの困惑から見ても、その変り身がブルーの指示でないのは明白だった。
いまや---おそらくはとうに、そこにはただ純粋な「想い」だけが在ったのだ。
だからこそコウジは案じていたのだろう。想い合うゆえに、共に歩く為には様々な困難を負っ
ていかねばならない、二人のことを。
「コウジの気持ちも分かるけど。素直に向き合えないあの二人が、自分たちを見てるみたい
だって思うんだろ」
彼らを気遣うあまりにブルーの未だ形もみえない、しかし確かにある筈の思惑に、容易に陥
りかねないコウジを案じる自分をイクミは、もはや止める事が出来なくなっていた。
友人の指した「自分たち」の意味するところを掴みかね、コウジは暫く目をしばたかせたが、
数瞬遅れてユウキとのことに思い至ったらしく、拗ねた子供のように頬を膨らませる。
「・・・全然違うだろ。クリフとチャーリーはお互いにちゃんと想い合ってるんだから」
「違わないよ」と「ユウキだって同じだよ」と口にしかけた事実をしかし、この時イクミはコウジ
に告げてやることが出来なかった。
兄弟の確執が解け、コウジの内の隙間が自分以外の者の名で埋まることが、それが実弟
であるなら尚さらに堪らなかったからに他ならない。
己の狭量さをイクミは熟知していた。あの頃も。
そして、たった今でさえ。
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infinite canon Y 「愚者の黄昏」(前)
救世の勇者らを乗せた北方行きの船はいま、激しい風にさらされながらも確実に目的地へと
近付きつつあった。
乗船してから今夜で三日。
何をする必要も出来ることもない海の上、これからの行動を検討するには充分な時間を得られ
たと言えなくもないが、その重い使命のゆえに気が急くのも本当のところではあった。
一日毎に強くなる風の力に軋む船内の、狭いながらも何とか確保出来た船室の硬い寝台に腰
かけ、<三色の要>たるアイバ・コウジは溜息ともつかぬ吐息をそっと雫した。
室内に二つきりの寝台のもう片方には、コウジの唯一の弟にして<三色の武神>の一人、<火>
の遣い手アイバ・ユウキが愛剣を磨く姿がある。そしてその右肩には、黄金の羽根をもつ一羽の
美しい鶇の姿が。
「・・・うぜえ」
先刻食堂での変わりばえしない夕食を終えてから、ずっと沈黙を守っていた弟が言った。
不機嫌も露わな口調に、もしや自分の溜息のことかとコウジは身構える。が、ユウキの尖った
視線は兄の膝辺り---正しくは「<要>に頭を撫でさせている上、その膝に顔を擦り付けてグズる
甘ったれな「赤鰻」に注がれていた。
「目の前でビービー泣きやがって。当てつけがましいんだよっ」
またしても主の機嫌を損ねた不運な赤鰻---もとい、紅竜こそは伝承の<火>の守護聖霊、名
を「朱のリヴァイアス」という。
乗船と同時にふいに現れた金鶇と、何時の間にやら、自分の定位置であるユウキの肩上を取
り合う羽目になった。
それというのもリヴァイアスがユウキに触れようとする度、金鶇が小ぶりとはいえ先の尖った嘴
で、紅竜の顔といい胴といい容赦なくつつきまわしてきたからである。
もともとリヴァイアスに纏わり付かれるのを良いとしないユウキの助力がある筈はなく、気の優
しい守護竜に、か弱い小鳥を力ずくで排除することなど出来ようわけもなかった。
かくして三日二晩にわたる攻防の結果は、現在のところ全戦全敗。打ちひしがれた火竜がせ
めて<要>の慰めを求めたのも、無理からぬところであったろう。
「そう言うなって。それだけリヴァはお前の側にいたいんだよ」
紅いたてがみを撫でながら、コウジは苦笑を浮かべて弁護を試みた。面白くもなさそうに目を
眇める弟の不揃いの髪に、愛しげに身を擦り寄せる金の小鳥から敢えて視線を外して。
恩師ホウセンより賜った愛用の剣を鞘に収め、それを寝台に残して立ち上がると、
「こいつが、気になるのか」
ユウキは肩の金色を手のひらにやんわりと掴んで、コウジに差し出した。
ぎくり、と心臓が大きく脈を打つ。隠し事の苦手な性質を自覚しているだけに、探る眼差しで見
下ろしてくる弟をどうかわしていいものか解らずに俯いた。
「・・・別に---鶇なんて、珍しくはないし」
そうかよ、と小さく独りごち、ユウキは兄の膝から至ってぞんざいに紅竜を引き剥がした。首を
傾げるコウジを後目に部屋の扉を開けるが早いか、止める間もなく左右の手に持った生き物た
ちをまとめて廊下へと放り出す。
「ユ、ユウキ?何してんだよ、乱暴な---」
躊躇なく扉を閉じた上鍵までかけてから、ユウキは困惑する兄の傍らに腰を下ろし、
「あんたが何か隠してるからだ」
真っ直ぐに、コウジの目を見返した。
四年にわたる尋常でない仲違いを経て、再びこうしてたった一人の弟と向き合える喜びと、そ
んなユウキに秘密を持ち続ける心苦しさがコウジの内でせめぎ合う。それでも。
意固地な子供のように唇を引き結ぶ兄に焦れてか、ユウキは大きく一つ舌を打つと、何の苦も
なくコウジの痩せた身体を寝台の上に組み敷いた。
「なっ・・・何す・・!」
「だったら身体に聞いてやる」
正気を疑う台詞をさらりと言ってのけ、当然の驚愕に身を硬めたコウジの身体中を---はたして
ユウキは、有ろう事か両の手でくすぐり始める。
「わ、ちょっ・・・やめろよ、って・・・ユウキ!」
昔からいたる処が敏感に過ぎる兄を玩具の代わりのようにして遊んだ、その同じ手をもって。
「ばかっ・・・やだってば!あっ・・・!もーっ、やめろってっ!」
身を捩って逃れようとするコウジを逃がすことなく、ユウキは勝者のふてぶてしさで見下ろして
きた。
「止めてほしかったら、吐け」
「だ、だから・・・何でもないって言ってるだろっ」
「---ふーん」
なお眉を寄せた弟の「拷問」は、
「うわっ!た、たのむ。降参!ユウキっ・・・やめっ」
その後---悲鳴を上げすぎたコウジが声を嗄らせるまで、延々と続くのであった。
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infinite canon Z 「愚者の黄昏」(中-一幕)
いま、ふいに風が止んだ。
萎れた枝木の樹林の中、湿った枯れ葉を踏み走る足を止めて、コウジは周囲の暗闇に目を凝
らし耳をすませる。
唐突に訪れた静けさの所以をコウジは瞬時に理解した。
(魔のものが、いる)
音も色も匂いさえない。ただ怖気に酷似した不快感がコウジの背を這い上がり、忌まわしきも
のの存在を否応もなく<要>に知らしめた。
つまりは手も無く誘き出されたのだ、という事実を。
己の責務を思えば、この身を危険に晒した事への後悔が今更に胸を過るけれど、それでもそ
の「餌」として利用されたのだろう少女を見放して良い筈もなかった。
(せめて彼女を・・・!)
駄目を覚悟で勇者らの傍らにいるはずの、三つの色を成す竜に強く呼び掛けた。
「儀式」で召喚して後、いかなる時でも当たり前に思いを通じ合わせてきた守護聖霊たちはしか
し、リヴァイアスが奇妙な眠りに落ちてからと変わらぬ状態のまま、やはり何の反応も寄越して
はくれなかった。
(諦めちゃいけない。やつらの思うつぼだ)
闇の傀儡がひとの絶望につけ込む有り様をコウジは、哀しい友人の行く末で目の当たりにして
いた。いま何が現れても、何が起こっても心だけは負けてはならない。たとえそれが虚勢である
ことをどれほど自覚していようとも。
コウジは胸を張り、きつく前方を睨み据えた。
ざわ、と背後で空気が淀んだ「音」がした。
『こんなところにご馳走が落ちていやがる』
コウジが振り向いたのと「声」が投げつけられたのは、全く同時のことだった。視線の先には目
算では計れないほど大勢の男たちが、地面から湧いて出たとしか思えない唐突さで群れ蠢いて
いた。
その風情は、かつて垣間見た野盗そのもの。辺りは漆黒の闇だというのに、下卑た相貌までが
コウジの眼にくっきりと映し出された。
『せっかくのお宝を蔑ろにしちゃあいけねえ』
『ありがたく頂かなけりゃあなぁ』
喉の奥で押し殺したような少しの抑揚もない「声」は、幾人もの口から発せられながらどれもが
同じ韻をもっていた。
『おい見ろ震えてるぜ可哀想に』
薄汚れた顔に揃って淫らな嘲笑を浮かべ、男たちはコウジを取り囲もうと歩を踏み出した。
瞬間コウジの全身を脅かしたのは、本能的な恐怖。これ見よがしに舌舐め擦りをするならず者
らの濁った視線が、品定めするように、薄い寝着しか身に着けていないコウジの全身を余すとこ
ろなく這い回る。
(・・・まさか・・そんな---)
嫌悪に竦んだ己の身を知らず抱え込みながら、コウジは目前に迫る人為らざるものらの魂胆
に、今更に思い至った。
伝承の文献に曰く。
純潔であること---それが<要>としての、唯一絶対の掟。
そして。
出立の朝、朱色の哀しげな瞳をもつ精霊はコウジに告げた。即ち---魔王の全き覚醒は真に
<要>を得たのちである、と。
(得るって・・・まさか、こんな・・)
驚愕に思考は乱れ、恐怖に萎縮した喉はどんな声音をも紡いではくれなかった。
じりじりと包囲の輪が狭まる。最も近くにいた男の干からびた手が、コウジの細い二の腕を掴ん
だ---その時。
「少女」の悲鳴が響いた、ように思った。
鼓膜ではなく心に。
まるで愛しい守護竜たちの発する、悲痛な叫び声のように。
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infinite canon [ 「愚者の黄昏」(中-二幕)
「さて、と。そろそろ見張り番の交替に行きますか。さっき大活躍した弟くんとでも---」
「え・・・っ?」
不自然極まりない唐突な台詞にそれと気付いてか否か、親友の---思わず洩れてしまったらしい---
狼狽も露わな声が被さった。薄暗がりを透かして合わせたイクミの視線に気圧されるように、
「ええと、まだ・・・早いんじゃないか、な」
そわそわと落ち着かなげに起き上がったコウジは、どこか縋る眼差しでイクミと、いつの間にかその右
肩に収まっていた金竜とを見比べた。
「ほらティティも、まだ本調子じゃないし・・・」
自分で口にしたものの、明らかに取ってつけた言い分を恥じたに違いない。コウジはその稚い貌に後
悔を滲ませて黙り込む。
(・・・ちょっと待って。今の---ってことは、もしかしなくても「原因」は弟くん?---それって・・)
イクミの気遣いの所以が全くの見当違いでないことは、先程のコウジの態度からも明らかだった。けれ
ど今はどうやら「それ」よりも、弟がこの部屋に---自分の側に戻ることの方が、コウジにして重大な問題
であるらしい。
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「コウジはいま、とても混乱してる。お前と自分との距離を計りかねて」
催促するまでもなく早々に告げられた事柄は、ユウキの案じ事と関わりのものに違いないと思われた。
「お前があいつに何をしたか、いまは聞かずにおくけど。何にせよ、ひとまず落ち着かせてやってくれ」
兄の親友を自負する男の貴公子めいた貌に、ほんの時折見え隠れする自嘲の苦い影が走った。
かつて実の姉の手を取り、そして最悪の形で失ったこの男は、おそらく既にユウキの真意を知っている。
同じ想いで実兄を求めて止まない、ユウキの激情を。
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再びの仮眠から目を覚ました後も、コウジは昨夜同様に特別ユウキを忌避する素振りを見せたりはしな
かった。けれど。
「・・・この船の外には、どこにも生者の気配がない。彼女たちは確かに生きた人間だったのに・・」
漸く、所謂「物見」を終えた兄は苦渋の色濃い声音でそう言った。
おそらくは、昨夜少女らを見失った自分を責めているのだろう。傷心に俯く細い身体を支えてやりたくて
無意識に伸ばしたユウキの手から、コウジは水面下の魚のようにするりと身を躱した。
虚をつかれ、目を見張る弟にほんのりとした微笑を返し、兄は慰めを口にする親友へ易々とその稚い
貌を向けてしまう。
それはまるで、気のない他人の好意をやんわりと遠去けようとするかのようで。今のユウキにとっては
険悪でない分、いっそ深刻な拒絶といえなくもなかった。
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