夏のあとさき

 「誕生日、おめでとう」
 屈託ない、懐かしい笑顔が言った。
 「・・・で、ええと---これ・・」
 おずおずと差し出されたのは、祐希の為に選ばれたに違いない何か。
 いつもの意地も照れ隠しの雑言も、今日こそは口にしたりしない、と固く心に誓って、
祐希は正直にいまの感動を感謝を伝えるべく、声を発しかけ---漸く気付く。
 目の前の相手は確かに祐希に笑いかけているのに。この手には心づくしの贈り物の
感触さえ鮮明なのに。
 解ってしまった。これは---夢なのだ。
 祐希にとってだけ都合のいい、決して起こり得ない・・・夢なのだ、と。
 でなければ、どうしてこんなふうに微笑んでくれるはずがあるだろう。
 漂流を経て、また新たに旅立ったリヴァイアスで暮らし始めてから早1年が過ぎようと
も、身も心も、あまりにも遠く隔たったままのふたりだったから。
 もはや訪れはしない。
 こんなふうに、兄が祐希の生誕を再び祝う---そんな日など。




 程なく。
 重苦しい気分で迎えたのは、祐希自身にとってはどうでもいい件の当日の朝だった。
 夢見の悪さ故にか、何時にも増して寝起きの不機嫌さを湛えた様相で、祐希は所属
の操船課での演習に参加した。
 所謂必修科目であったから、同課のイクミやカレンがいることは覚悟の上だった。け
れど、
 「おはよう、祐希くん。ご機嫌いかが?」
 鷹揚な笑顔で近付いてくる兄の親友の、腹に一物も二物もありそうな様子にはやは
りウンザリせずにいられなかったし、
 「どうやら「斜め」みたいね。朝っぱらから」
 こちらを見透かしたような耳慣れた相棒の台詞や呆れ顔は、ささくれた感情を普段よ
り余計に逆撫でするばかりだった。

他の者たちが揃って遠まきにするほどの祐希の剣呑さも、全く意に介さない連中のこ
とだ。下手に反駁を返したところで、その2倍3倍と膨れ上がった戯れ言を投げつけられ
るのがオチだろう。

 祐希は早々に無視を決め込み、実習艇に乗り込むべく手にしたヘルメットを頭上に掲
げた。それを見計らったタイミングで、

 「そうそう。尾瀬くん、知ってる?ここのところお兄さん、あおいさんにケーキ作りを習っ
てるんですって」

 相棒の良く通る声音が、祐希の心の臓の深くを貫いた。そして所属課班長の、揶揄を
たっぷりと含んだ忌々しい言い回しも、また。

 「らしいですねえ。なんでも苺のショートケーキをすぐにでも焼けるようになりたい、と
かで」

 今日が祐希にとって何にあたる日なのか。それが目前の2人に知られていることはも
はや間違いない。

 一年前の漂流を体験する前であったなら、この時点でヘルメットは凶器と化し戦友の
一方へととうに振り落ろされていただろう。

 「何が言いたいんだ」と、「はっきり言え」と無様に噛みつきながら。感情の耳を塞ぎ目
を固く閉じて、何度でも「期待」したがる自分になど欠片も気付かぬ振りをして。

 ごん、と鈍く硬い音が操船ポットのフロア中に響いた。
 同期の頭部の代わりに床に叩きつけられた哀れなヘルメットは、殆ど弾むこともせず
勢いなく数回だけ転がった後、壁にぶつかり行き場を無くして動かなくなった。それは持
ち主の現在の心情を表しているかのように。

 音の出所を探して課生らの視線が彷徨う中を擦り抜け、祐希は無言を貫いたまま昇降
口へと駆けだした。

 「ちょっと!キミの出番、もうすぐですよっ」
 「補習になるわよ、祐希!」
 後を追ってくるお為ごかしを黙殺することなど造作もなかった。
 今朝方祐希を脅かした、甘美に過ぎる「悪夢」を無かったことにする努力に比べれば。


 特に行く当てがあったわけでもない。訓練室を飛び出した後、祐希は広くて狭い艦内
をただ迷子のように歩き回っていた。

 この星屑の直中で、展望スペースのモニターに投影された偽物の光を見るでもなく眺
めた。

 たった一人のリラクゼーションブースでソファを占領し、だらだらと寝転んで過ごした。
 余計な世話に余念のない戦友らがいつ押しかけて来ないとも限らない自分の部屋に
は、どうしても帰る気にならなかった。

 兄はいま、菓子作りに勤しんでいるという。
 が、だから何だというのだろう。
 その目的が件の行事には定番の苺ショートケーキを習うことであろうと、すぐにでも
その腕を振るう必要があるらしいとしても、それらが祐希の「今日」と関わりのあろう筈
がない。

 こうして落ち着いて考えれば---いや、考えるまでもなく、元より取り沙汰する必要な
ど何処にもないことだったのに。

 相棒らの仕掛ける変わりばえのない揶揄いに踊らされた所以は、祐希の中に未だ詮
無い「期待」が根付いているからか。

 そんな自分にこそ腹を立て、苛立ちからじっとはしていられずに、祐希はソファを蹴り
倒す勢いで起き上がった。

 ブースを離れ、またぞろ徘徊し始めてすぐのこと、
 「見つけた、祐希!」
 こんな時聞くには切ないばかりの、馴染み深過ぎる声音が背中をたたいた。
 「もう!探したよ。お昼ごはんは?まだだよね?」
 フラアテの制服姿で走り寄りながら、相手の返事も待たずあおいは矢継ぎ早に言を重
ねた。

 「ね、だったら早く行こ!特別に美味しいもの食べさせてあげるからっ」
 言われてIDの時刻表示を確かめれば、朝一の実習開始から既に4時間。そうして初
めて、自分がどれほどの時間を浪費していたかを知る。

 幼馴染みに対する気安さのためか、逆に他の事由にばかり気が向いていた故にか。
いくら世話好きなあおいでも、たとえ自分がレストルーム勤務の時間帯だからといって、
探しまでして祐希に昼食を取らせるほどのお節介をする筈がないと、そんな明白なこと
にさえ、この
時祐希は少しも考え及ばなかった。


 明るいテラス風作りのカフェの一角。
 生成りのランチマットの上にセッティングされていたのは、所謂フレンチのフルコースだ
った。
 椅子を引かれ半ば強引に座らされた特別席の左右には、給仕よろしくあおいとその親
友が得意気な顔で立っている。
 探したという割にはまだほかほかと湯気をたてている料理は、見栄えも、作成者らの腕
前からいって味も保障付きだろう。あおいが忘れていたはずもないから、勿論これが少女
らからの誕生日プレゼントであることは知れていた。
 正直まだ呑気に食事をする心境にはなれなかったけれど、幼馴染みの心尽くしを無碍
に出来る気力もなかったから、大人しく---渋々と、手前に置かれたお手拭を取り上げる。
 手を拭きながら見るでなくメニューに目を走らせ、ここでようやっと祐希は「こと」の重大
さに気付いた。
 並んだ幾つかの皿の最も外側に置かれたデザート---1人前にカットされた、苺の赤も
鮮やかなショートケーキを目にした瞬間に。
 身体の奥底から熱い何かが迸り出ようとするのを懸命に堪え、今すぐ席を立ち上がり
たがる気持ちをなけなしの意地で捻じ伏せて、祐希は視線でだけ自分のテーブルの周
囲を探ってみた。
 ランチには少し早い時刻、正規のメニューは軽食だけのこのカフェに現在のところ「客」
は祐希ただ一人。
 ---いや、違う。
 すぐ後ろの植え込みの影、意識しなければ互いに死角になる位置の二人席に、こちら
に背中を向けスプーンを口に運ぶ先客がいた。
 どうして今まで気付かなかった。見覚えのある---いいや、この世にふたりといないその
人の後姿---祐希にとっての、比類ない存在に。
 「ね、ほら早く食べないと冷めちゃうよ」
 ばくばくと煩く脈打つ鼓動に紛れ、幼馴染みが食事を急かす声が何とか耳に届いた。
 「きれいに全部食べてね。デザートまでねっ」
 にこにこと視線を交し合う少女らの様子など、もはや見るまでもなかった。これが用意
された「プレゼント」。忌々しい戦友や、訳知り顔の相棒までもが徒党を組んでいたに違
いない。そう思えば良いように玩ばれた感の否めない身としては、腹立たしさが込み上げ
ないではないけれど。
 そんなことよりも、いまは。
 持ち上げたフォークを真っ先にケーキへと伸ばした。慎重になる指先で一掬い。柔らか
な感触に胸が奮え、口に含んだ瞬間に漂ったバニラの香りに目頭が熱くなった。
 両端に立つ少女らが息をのむ。そんな様がどうにも悔しくて、
 「塩っぱい」
 しまった、と思う間もなく声に出していた。こんな憎まれ口をきくつもりなどないのに。胃
を焦がす後悔に、祐希が堪らず目を伏せたとまったく同時に、
 「っええ!?」
 信じ難い、というニュアンスたっぷりに叫んだのは少女らではなかった。
 背後から聞こえたそれは、勿論兄のもの。引き寄せられるように振り返った先で、両手
で慌てて口を塞ぎながら肩越しにこちらを窺う昴治と、ばったり視線を合わせる羽目にな
った。
 互いに固まったまま見合うこと数秒。
 「嘘言いなさい。塩っぱいわけないでしょっ」
 憤慨したあおいの声音に図星をつかれ祐希が怯んだ一瞬を機に、昴治はわたわたと
席を立つ。
 「ご馳走様」と「お先に」を一緒くたに口篭りながら逃げるように歩き出した昴治へと、あ
おいの恒例となった注意が---「昴治!またご飯そんなに残してっ」---飛んだけれど、
兄は当然の如く振り返りも立ち止まりもしなかった。
 遠ざかる横顔に浮かんでいた失態を悔いる表情が、祐希の下らない意地を根こそぎ
蕩かし落とす。
 皆に嵌められたと思った。けれどおそらくは、兄も知らされてはいなかった。祐希が「苺
のショートケーキ」を見ただけで、昴治の手製だと気付くよう手を回されていたのだとは。
 知らずにただ弟が手ずからのケーキを口にするところを見届ける為、傍にいた。
 祐希が意固地に言い放った子供じみた嘘に反応し、明かすつもりのなかったその作り
手を自ら暴いた後悔に逃げ出したことが、何よりの証に違いなかった。
 胸に染み渡るこの甘い傷みは、遠ざかるその姿をこのまま見送ったが最後、きっと一
生消える事はないだろう。
 否。こんな傷みには、もう---耐えられはしない。
 祐希の抱き続ける「詮無い期待」が、「叶うかもしれない希望」であったことを知ってしま
ったからは。
 不調法な幼馴染みの去った方に向け、「まったく、もう」と、あおいは半ば呆れの色を滲
ませた溜息を零す。
 祐希の決意にはそれだけの間さえ要らなかった。握ったままだったフォークをテーブル
に放り投げ、
 「すぐに戻る。全部食うから、片すなよっ!」
 少女らに言い置く間も惜しんで祐希は追った。
 これまでと同じ人を。これまでと同じように。


 カフェのガラスのドア越しに、通路の最寄の角を小走りに曲がる兄の背中を見つけた。
 例え全速力で逃げて行こうと、いまの祐希が昴治の足に劣るはずは元よりない。
 数瞬で間近まで追いつき、そこで---引き止める術を思いつけない自分にようやっと気
付き、祐希は激しい動揺のあまり立ち止まった。
 何故?この期に及んで、何を躊躇する必要がある?
 待ってくれ、と。ただ一言で事足りるはずなのに。そう、自分の中の「幼い弟」が叫ぶけ
れど。早く、でなければ行ってしまう。祐希を置いて、昴治はどこまでも自由に遠くへ、と。
 途端に脳裏を駆け巡り始める、過去の数多の情景。
 いつでもそうだった。
 兄は駆けていく。自分の行きたい処へ。自分のペースで。
 追い縋る祐希はどこまでもお荷物で、昴治にとって単なる妨げに他ならなかった。これ
までは。
 (違う---もう、今は違う。俺は、兄貴の助けになれる・・・!)
 そうだ、ずっとそうなりたかった。
 追い越したいわけじゃなかった。まして見下すつもりなんかなかった。自分はただ---
兄に必要な、特別な何かになりたかったのだ。
 「・・・ケーキっ!」
 込み上げる様々な想いが入り乱れ、とにかく何か、と手探りした挙句の「呼び掛け」だ
った。
 思わず足を止めた。声を発した祐希も、それを投げつけられた昴治もともに。
 なに、と小さく呟く兄の心情は痛いほど分った。そんな言葉一つだけ渡されて、一体他
にどんなリアクションがとれるだろう。
 己の迂闊さに恥じ入りながら、出来のいい頭をフル稼働させて、祐希はこの場に最適
で心の篭った台詞をその語彙から選択することを試みる。が、
 (・・・ケーキ、塩っぱいなんて嘘だ。どっちかってーと甘過ぎるくらい・・・じゃ、なくてっ)
 浮かぶのはそんな途方もなく、どうにもならない言葉ばかりなのだった。
 昴治が自分を呼び止めたまま、苦虫を噛み締めるような表情で黙り込んだ弟の態度
をどう受け取ったかは分らない。
 けれど今や何にしても臆することのなくなった兄は、暫しの逡巡の後、意を決したよう
に一度だけ小さく頷いて居住まいを正した。そうして、
 「誕生日、おめでとう・・・祐希」
 屈託ない、懐かしい笑顔で真っ直ぐに祐希を見つめて言った。
 「・・・で、ええと---これ・・」
 渡す機会を探して持ち歩いていたのかもしれない。兄はジャケットのポケットからシガ
レットケース大の包みを取り出した。
 おずおずと差し出されたのは、祐希の為に選ばれたに違いない何か。一体どんな力の
作用がこんな奇跡を生むのだろう。今朝方の夢で見た、安易に勝手に絶望した同じ情景
が、いまここに在った。
 反射的に伸ばした手で、その緊張に震える指で、祐希は兄の手から自分だけの為の
それを受け取った。
 自分で示しておきながら、昴治は弟の行動に驚いたように目を丸くする。こんなに簡単
に授与が為せるとは、そう思ったことは想像に難くなく、また兄にして至極順当な感想で
あっただろう。
 眩暈がするような甘美な既視感におそわれながら、祐希はいつもの意地も、照れ隠し
の雑言も、今日こそは決して口にしたりしないと改めて固く心に誓う。
 心もとなげな、それでも静かな眼差しを向けていてくれる唯一の存在に、今度こそ正直
に想いを伝える為に。

 大きく一つ、深呼吸をして。
 祐希はいま、漸く真意の言の葉を綴り始める------。




<end>

またまた一週間おくれの、祐希お誕生日おめでとうSSとなりました。
今回は自覚前の兄弟です。もう少し切ない感じに(祐希が)しようかとも
思ったのですが、折角誕生日なのに、可哀想かなあ・・・と、思い直して
仲直りの余韻ありにもっていきました。ぬ
、温過ぎでしょうか? いや、
うちの話ですから今更ですね(^_^;)
 ともあれ、祐希くんおめでとうvv