FORMOSA-No.47 
【1994年(平成6年)7月30日】

台湾人ってどんな民族?


PART2
 漢民族(本省人と外省人)

  湾に以前から住んでいた先住民族が33万人。現在の台湾は人口約2075万人。つまり、20      42万人は漢民族です。では、どうしてこのように沢山の漢民族が大陸から遠く離れた海上の島 ・台湾に移住してきたのでしょう?台湾の歩んできた歴史に少し触れながら、また、漢民族の内でも本省人と外省人という区別があるのかなどを今回は書いてみたいと思います。

 台湾の歩んできた歴史

 台湾は長い間、先住民族が狩猟を生業として住んでました。また古代の台湾は疫病が多くよそ者にとっては生活しにくい所のため、外敵から悩まされることはまずありませんでした。

@オランダ植民地時代(1624〜1662)

 かし、大航海時代に入り、東洋との中継貿易に乗り出したオランダは、台湾海峡の拠点として台湾を1624年に占領します。その後、スペインも台湾の北部に上陸しますが、1642年、両者の戦いの結果、オランダが台湾の植民地化に成功します。オランダは製糖業を興す為、戦乱と食糧不足に悩む中国大陸の漢民族を労働者 して募り、台湾に運んできました。これが、最 初の漢民族の台湾移住だったそうです。

A鄭氏王朝時代(1662〜1683)
 
 がて、中国大陸で満州族が漢民族の明朝を倒し、清朝を樹立します。ここで登場するのが鄭成功です。日本でも国姓爺として御馴染みですね。彼は明朝の復興を志して兵を挙げ、一時南京をも奪還する勢いでしたが、あと一歩の所で大敗。再起を期すべく 25000の軍勢を率いて台湾に攻め入り、1662年、オランダ人を台湾から追放します。鄭氏時代には明朝の復興を願う者、清朝の統治に甘んじない者が続々と渡台しました。清朝は再三鄭氏に和平交渉をしましたが、鄭氏が応じなかった為、1683年に3万の大軍を送り台湾を攻撃。鄭氏を倒し台湾は清朝の支配下に置かれたのです。

B清朝時代(1683〜1895)

 清
朝の台湾出兵は台湾領有でなく、反清勢力の鄭氏討伐が目的でした。鄭氏討伐後、清朝 は台湾を放棄しようとしましたが、台湾攻撃に功のあった海軍提督の力説により、台湾を福建省所属の台湾府として領有を決定しました。朝は、台湾への移住者が増え力を付けて大陸に害を与えることを恐れ、台湾に居住している漢民族のうち、財産・職業のない者を危険視して大陸に送還させ、また大陸から台湾への渡航は許可制とし、家族の同伴を許しませんでした。特に反清傾向の強い広東省住民の台湾渡航は決して許さなかったそうです。このように清朝は渡航制限で台湾の孤立化を図ります。この制限は緩和と強化が繰り返されました。渡航制限が緩和されると漢族系人が大挙して台湾に渡ります。それだけ台湾の対岸福建省は貧しかったのです。また、渡航制限が強化されても法の網を潜って密航者が続出しました。朝時代に、大陸より移住してきた漢人は200万人とも 250万人とも言われています。オランダ時代の移住民はその記録によると 25000人程だったそうです。鄭氏時代は 35000人余りが大陸から移住しましたから、清朝が統治以前には6万人余りが台湾に渡航していました。日本統治時代は、漢人 271万、原住民10万、日本人4万とありますから、清朝時代にいかに多くの移住民が台湾を目指したかが分かります。

C日本統治時代(1895〜1945)

 日
本帝国が台湾に投入した部隊は北白川宮能久親王と乃木希典中将率いるもので、日清戦争の3分の1に相当します。台湾住民は自発的に組織したゲリラ的抵抗運動を行ない、日本軍を苦しめました。総督府が台湾全土を掌握したと発表するまでに約1年を要しました。その間の台湾側の死者は 14000名に上りました。 
 
本は立法権を持つ台湾総督(台湾の人は総督のことを『土皇帝』と称しました)の下で厳しい植民地政策をとり、抵抗運動を武力と極刑で鎮圧していきました。反面、台湾に対する大胆な建築をも行ない、港湾・鉄道・道路等を整備し、教育制度を完成させ、衛生状態の向上も図りました。この植民地経営は、現在の台湾に多大な影響を残しています。

               

  の表でも分かるように、ここまでが台湾国内で言う本省人という区分になり第2次世界大戦以降に台湾に移住してきた人達(外省人と区別しています。余談ですが、台湾で言う本省人は一般的に世界各国では華僑の名の下で知られています。その中の客家人は特に有名で、シンガポールの大統領リークワニュ、中国の 小平、中華民国の父孫文は皆客家人です。       

 D中華民國時代(1945〜)
 連
合国側は、第2次大戦に勝利すると日本に進駐し、中華民国は連合国軍最高司令官の命により台湾を占領しました。台湾は中国に復帰したという意味でこれを『台湾光復』と言います。占領により、台湾に中華民国の官僚や役人が入ってきました。  た、1949年、中国大陸での国民党と共産党の内戦で共産党が勝利を収め、10月1日に中和人民共和国を樹立しました。破れた国民党・蒋介石は台湾に逃げ込み、最後の基地台湾を確保する為、大規模な粛正を行ないました。この時期の台湾の国防予算は中央予算の 110%を占めるという信じがたい状態でした。
 蒋
介石はずっと『中国大陸奪取』を叫び、自分こそ中国を代表する唯一の合法政府だと主張し続けていました。蒋介石は1975年に死去、その後に長男の蒋経国が総統に就任、1988年には蒋経国の死後に本省人の李登輝が現在も総統を務めています。中華民国は長い間、国民党の1党独裁でしたが1986年には台湾最初の野党・民主進歩党が結成され、台湾独立を唱えてます 

本省人と外省人ついて

湾にいると、年配の方からこちらが日本語を話していなくても日本人と分かると日本語で話しかけられることがよくあります。私の行く床屋さんの沈さんはもう65歳ですが、実に綺  麗で流暢な日本語で話します。また、校長先生が使っているタクシー運転手の王さんも日本語 が上手です。二人とも本省人で、子供の頃に日本語による教育を受けていたのです。二人に共通して言える事は、外省人を嫌っていることです。台湾の人達が、日本の植民地となり時には酷い仕打ちをされていたにも関わらず、韓国のような物凄い反日感情を持っていないのは、日本の植民地経営が旨くいったことが要因かもしれませんが、もう1つ、外省人に対する反感もある気が在台湾2年余の感覚としてあります。

 湾光復により台湾は中華民国に復帰し、当時の台湾人は新しい統治者が同じ漢民族の国中華民国だということでこの占領を大いに歓迎しました。しかし、現実に新しい支配が始まってみると、台湾の人々は中華民国の官僚や役人の後進性に驚きました。役人は平気で汚職や賄賂を行ない、要職を一族で占めるなど、日本の統治を見てきた台湾の人達にとって気分を害するものばかりでした。また、特産の米が中国大陸に続々と積み出された為、台湾島内の食糧が不足し激しいインフレに陥ったのです。

 復1年半後の1947年2月28日、台湾人は蜂起しました。二二八事件です。デモ隊は行政長官公舎に向い、それを衛兵が機銃掃射。そん なことがあり、本省人は外省人を襲ったりしました。蒋介石は2個師団を台湾に送り、台湾人への報復・虐殺が始まったのです。殺された人の血で淡水河は赤く染まったそうです。台中でも現在の省立運動場で何千人もが処刑されたそうです。殺された人は公表1万、しかし、実際には5万人とも言われています。今までこの二二八事件についてはタブーとされてきましたが 現在では国民党もその事実を認めています。同じ漢民族ですが、台湾にはこのような悲しい過去もあるのです。本省人が日本の統治時代を懐かしむのはこんな背景があるのです。

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