11月20日(日)天保水滸伝!

 

 千葉日報からの案内は来ていたが忙しくて電話できなかった。しばらくしてから参加申し込みの電話をした。もちろんキャン待であった。

 そして急遽の参加ができたのである。

 11月19日土の18時からのNHKの「道中でござる」は酒飲んで自宅の座敷で寝転んで見ていた。内容は飯岡のとある会館が生中継でヤクザの争いごとが演じられていた。なんとなく飯岡の助五郎らしいストーリに見えた!

 そして当日の朝は寒いが晴れのお出かけ日和である。千葉駅前の集合場所から一路小見川から東庄町の笹川に向かった。バスは諏訪神社に入って下車し、地元の観光協会会長や郷土史の専門家が我々の案内をしてくれた。

 江戸末期天保時代のヤクザの争いが講談や映画や歌で有名になったが実際の史実にあった話しである。

 

 なにしろ有名な「利根の川風〜〜〜〜」である。まず笹川の繁蔵の墓から案内された。延命寺である。途中にある「十一屋」と言う重蔵の男を上げた花会の料亭は史跡のみで現存していないが場所を教えてもらった。そして寺は檀家減少でさびれているが重蔵の墓だけはとにかく立派である。重蔵の両脇には子分で仕返しに失敗した勢力富五郎と用心棒平手幹の墓である。真ん中はもちろんサイコロであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*墓はに平手幹・勢力富蔵・真ん中が笹川の重蔵である。

 

 

説明では天保水滸伝で有名になった講談師や映画会社などが寄進して立派にしたそうである。また平手造酒(ミキ)は飯岡助五郎一派の襲撃時に事前キャッチして反撃の時に体が蝕まれていてもなまじ腕に自信ありすぎたために深追いしすぎ、一人になったところを助五郎一派に囲まれて切られたという事であった。この襲撃の犠牲者は飯岡側多数で笹川側は平手一人であったと言われる。いずれも重蔵は醤油つくりの生家を持つものが相撲取りを目指して成らず一年で帰郷して戸根の川港周辺で男を上げて地元諏訪神社に野美宿禰の命の碑を寄進しその記念に天保の飢饉に苦しむ農民の救済目的の花会を開き関東一円の親分集を集めて成功させ、病気を理由に代わりの者を参加させた助五郎にはじをかかせたといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 










 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左が資料館にある複製の手配書きで、境内に野美宿禰の命(相撲の神様)の碑・土俵がある諏訪神社である。

 

 

 



















 

*野美宿禰の命の記念碑の説明!この手前の土俵には高砂部屋も練習(けいこ)に毎年きているそうです。

◆*簡単にストーリ−を言えば飯岡との間のヤクザ同士の干潟町を挟んだ子分同士の争いが大きくなって片方や十手持ちの助五郎は銚子の番所からの逮捕状を持っての大勢での襲撃、数少ない笹川組が圧倒的に勝っても役人に逮捕されてしまう立場(犯罪人)なのである。当時はお上に逆らって故郷を捨てた笹川の人気が高く飯岡の助五郎は十手を持ちながらのヤクザなので庶民には悪人扱いであった。

 

 


 

昼は銚子のウオッセで昼食して休憩!

 

 飯岡に向かった。光台寺である。この寺は江戸時代になって千姫の死によってその御殿を解体して一部を江戸から運んで建立した寺である。(柱など)

助五郎の墓はそのほぼ正面にあって末裔も敗戦後まで近くに住んでいたがヤクザ関係者が墓石を削って持ち去ったので正面部分が薄くなっている。しかし読み取りはできる。

墓石の真後ろが正妻・脇に妾の名前が刻んであった。(現在末裔は地元に居住していない)

また、正妻には網元の家を、そして妾には組みの家を継がせて67才で大往生とあった。

年齢は笹川より18歳年上であり、首が届けられたときは泣いて供養したと伝えられる。

重蔵の胴体は利根川に捨てられたが銚子で見つかり笹川で供養したが戦後首は返して貰って手打ちとし、笹川方の墓に入れられたと聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*飯岡助五郎の墓である。地元の研究家(     )が説明してくれた。

 

 

そして、その墓の近く300mほどのところには故郷をすて3年後に笹川に戻ったところを見助五郎の子分に見つかり十一屋の近くの川のほとりの妾の家の近くで首を取られた繁三の首塚がある。

これも大きくて目立つ墓であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*重蔵の首塚の説明の    さんと近くにある助五郎が寄進していた諏訪神社です。

 なお神社の上にある彫り物は「石田かんじ」作のものでかなりの彫り物でした!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


*助五郎の記念碑です!手前の石は60貫(     )キロあって若者の力だめしに使ったといわれる。

 

 

 そして助五郎の資料館であるが三浦から相撲取りを目指していたが一年で師匠急死のため作田浜(九十九里町)で漁師となって飯岡で男をあげ縄張りをもつ銚子の五郎蔵の子分となって飯岡の縄張りを譲り受け貸し元になり一本立ちした。

船を7艘もつ漁師であったが地元の神社の戸籍では農民となっていたそうだ。

ヤクザとしての顔は飯岡の船が遭難して漁業が全滅しそうなときに三浦から若集を呼んで漁師にさせて世帯を持たせて定住化を図ったが一人身で稼いだ金を持って帰りそうなものには賭場に誘って負けさせて定住化させた。

 地元では玉前神社の寄進など近隣の寺にも寄進したほかもめごとの仲裁・海岸侵食の護岸工事・相撲興行などで男をあげ、お上から青差し(長刀)と十手を預かる身分であったのである。

 

 というわけでケンカした両方のやくざの共通点として相撲取りを目指して挫折してヤクザになったことであった。

きっと大男であったと推測される。そして方や十手持ちの身分である。あだ討ちに敗れて自害した勢力富蔵は現在の「東庄県民の森」の中に塚が残っているそうである。

 

 というわけでバスの中を見回すと年齢層が高かった!要するにリタイヤした身分と思われるものばかりの日帰り旅行でした。

ただ自分としては地元郷土史家のお話を聞いたことが収穫でありました。(*^_^*)