日常編 作者:ベル
「琴音先輩。言われた通り、絵描いてきましたっ」
「美影せんぱいっ。綾せんぱいっ。画材持ってきました。これで足りますか?」
「あっ増田先輩。さっき鈴木先生が呼びに来ましたよ。また何かしたんですか?」
「レーイせーんぱいっ。今日も格好良いですねっ」
桐ヶ谷さんが美術部に入部して、もう一週間が経とうとしていた。 たった1人の一年生だというのに、彼女は持ち前の明るさと人懐っこさで、 もうすっかりここに溶け込んできていた。 「桐ヶ谷さん。今日も元気だね」 「ええ、本当に。見ててこっちも頑張らなきゃって思えてくるわ」 微笑を浮かべている篠原さんと言葉を交わす。 その間も、桐ヶ谷さんは美術室内をせわしなく動き回っていた。 なんだか見てて微笑ましい。 (さて、そろそろ再開するか) 僕は手元に置いてあった筆を取り、目の前のキャンバスに筆を走らせ始めた。 ここ最近は、本当に筆が良く進む。 それに、描いている時間がとても楽しい。 今日も心の赴くままに絵を描いていると、 桐ヶ谷さんが筆とパレットを持って、僕らの所に近寄ってきて、申し訳なさそうにこう言った。 「順斗先輩、裕子先輩。 あの、今日は私もご一緒してもよろしいですか? 色々教えてもらいたくて」 僕と篠原さんは、お互いを少し見合った後、桐ヶ谷さんの方に向き直り、笑顔でこう返した。 「うん、良いよ」 「こちらこそ喜んで♪」 「ありがとうございますっ」 お辞儀をした後、桐ヶ谷さんはとても嬉しそうに笑みを浮かべた。
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その後、僕らは3人で一緒に絵を描き始めた。 見本を見せながら実践してみせたり、 ちょっとしたコツを教えてあげたり、時にはそれぞれ好きなように描いてみたりと。 僕らはとても楽しんで、各々キャンバスに絵を描いていった。 もちろんその間も、会話は途切れることがなかった。 筆を動かしながら、篠原さんが桐ヶ谷さんに質問する。 「ねぇ。小明ちゃんは、絵を描くの好き?」 「はい、大好きです。よく授業中でも、ノートに落書きとかしちゃったりしてます」 そう半分照れながら返す桐ヶ谷さん。 僕もある日の授業中を思い出しながら、2人の会話に参加した。 「あー分かるその気持ち。ちゃんと聞かなきゃとは思ってるんだけど、ついやっちゃうんだよね」 「そうなんです。おかげで授業に付いていけなくなっちゃったりとか、あるあるです」 3人で笑い合う。 そして、少し間を空けた後、僕は前々から気になっていたことを聞いてみることにした。 「そういえばさ、桐ヶ谷さんが美術部に入ろうと思ったきっかけって何だったの? やっぱり、絵を描くのが好きだから?」 僕がそう聞くと、桐ヶ谷さんは少し悩んだ後、こう返事をした。 「それもありますけど……。一番の理由は、楽しそうだから、ですね」 「楽しそう? あぁ確かに」 聞き返したと同時に、僕は彼女の言っている言葉の意味が分かった気がした。 イギリスと日本のハーフ。ギリギリアウトな変態。恐ろしく声が小さい部長。 それに、柊さんと西園寺さんも、とても個性的な人達だ。 こうして整理してみると、確かに退屈しなさそうなラインナップだ。 実際、毎日が夢のように楽しいし。 「特に増田先輩は、色んな意味で楽しいです」 「同感。とんでもないこと言い出すからね、あいつは」 「もう。でも、なんとなく分かるかも」 そう篠原さんが微笑を浮かべながら言った後、 少し離れている所から、増田が声を張り上げてこちらに問いかけてきた。 「ん? 何か言ったか?」 「「「なんでもないでーす」」」 そう3人で返した後、顔を見合わせて笑い合う。 対する増田は怪訝な顔をしていた。 「? 俺、なんかしたか?」 「私達に聞くの?」 「知らない」 その後、桐ヶ谷さんは僕らにしか聞こえない声量で、こう続けた。 「こういうのも含めて、楽しそうだと思ったんですよ」 「なるほどね」 妙にすんなりと納得することが出来た。 具体例を上げてくれた増田君、ありがとうございました。 「やっぱり人生楽しまなきゃ損じゃないですか。楽しめる時に楽しんでおかないと……あっ」 言っている途中で何かに気づいたように、桐ヶ谷さんは急に言葉を止めた。 その様子を不審に思った篠原さんが、桐ヶ谷さんに声を掛ける。 「どうしたの? 小明ちゃん」 「いえ……ただちょっと……」 「?」 何ともはっきりしない返事だった。 その後、少しの間言葉を詰まらせていた桐ヶ谷さんだったが、 やがて自分からこう言葉を続けた。 「あの、先輩方に聞きたいことがあるのですが、良いですか?」 「聞きたいこと? なに?」 僕がそう返すと、桐ヶ谷さんは軽く会釈してから、再び話し始めた。 「ありがとうございます。 あの、去年この学校で、一番モテてた男の人って誰だか分かりますか?」 「一番モテてた、男の人?」 篠原さんがそう聞き返すと、桐ヶ谷さんは真剣な表情をして頷いた。 一番モテてた人か……。うん? でも去年だけなら、多分…… 「レイ君だよね?」 「私もそう思うわ。一瞬、サッカー部の高橋君かとも思ったけど」 「あー。高橋君かー。分かるかも」 あまり関わったことはないけど、僕でも良く耳にする名前だった。 確か……キャプテン、だったっけ? クラスの女の子達が話しているのを聞いたことがある気がする。 ここまで考えた僕だったが、結局最終的な答えまでは変わらなかった。 何故なら、あまりにも圧倒的過ぎるから。 「でも、やっぱりレイ君じゃないかな?」 そう言って、少し離れた所に居るレイ君を示す。 レイ君自身は、どうやら絵に集中しているらしく、こちらの様子に気づくことはなかった。 「そうですよねっ。レイ先輩かっこいいですもんねっ」 桐ヶ谷さんは笑顔を浮かべながら、そうレイ君を絶賛した。 しかしその後すぐに暗い表情になって、呟くようにこう続けた。 「……でも、私の探してる人ではなかったです」 「探してる? 一体誰を探しているの?」 僕がそう聞くと、桐ヶ谷さんは俯き気味にこう答えた。 「恩人です。私の、中学時代の……。 この学校に居るはずなんです。……もう、卒業しちゃったかもしれませんけど」 そう答える桐ヶ谷さんの表情は、とても悲しげだった。 その様子を見て、一瞬考え込んだ後、篠原さんが桐ヶ谷さんに声を掛けた。 「小明ちゃん。その人の特徴とか分かる?」 「えっ……?」 「ほら、背が高い、とか。どんな格好してた、とか」 「ゆ、裕子先輩?」 そこまでいった所で、篠原さんは桐ヶ谷さんと目をしっかりと合わせてこう言った。 「力になりたいの。もしかしたら、知ってる人かもしれないし」 「裕子先輩……」 今にも泣き出しそうな雰囲気の桐ヶ谷さんに笑いかける。 ……篠原さんは、やっぱり優しいな。 心のどこかでズキっとした痛みが感じられたけれど、 僕はその痛みを奥底へとしまいこんで、僕も篠原さんに同調するように、言葉を繋げた。 「……僕も。どこまで力になれるかは分からないけど、それでも。桐ヶ谷さんの力になりたい」 「順斗先輩……」 その時の桐ヶ谷さんの目は、微かに潤んでいた。 しかし彼女は、その滲んだ涙を自らで拭い、すぐに明るい笑顔を浮かべてこう言った。 「ありがとうございます」
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「えーっと、その人の特徴ですよね? でもすみません、私その時凄く動揺してて、よく覚えていないんです」 「何でもいいの。どんなに些細なことでも構わないから」 桐ヶ谷さんはしばらく考え込んだ後、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。 「えっと、背はレイ先輩と同じくらいだったと思います。 あと……確か髪は、黒か茶だったと思います」 「なるほど」 とりあえず知り合いにその特徴を当てはめてみる。 うーん、該当人物が多すぎる。 「ここの制服を着てたので、去年ここに居たのは確かだと思います。 でも、卒業してたらどうか分かりませんよね……」 再び桐ヶ谷さんの表情が曇る。 そんな桐ヶ谷さんを励ますように、僕はこう言った。 「大丈夫、きっと会えるよ」 「そうだと良いんですけど……」 呟くように言った後、またしばらく考え込む。 すると桐ヶ谷さんは突然声を張り上げた。 「あっ思い出しましたっ。その人、確か首に包帯を巻いていました!」 手をポンと叩いてそう言う。 「首に、包帯?」 「怪我でもしていたのかしら?」 「「うーん」」 今までの中で一番有力な情報かとも思えたが、 よくよく考えてみれば、それはその人自身の特徴とは言い難い。 それに、首に包帯だなんてそんな人居たかな……? 柊さん、じゃないよね? いやいや、そもそも男の人って言ってたからこれは違う。 これ以上は桐ヶ谷さんも思い出せないらしく、3人でしばらく考え込んでいると…… 「どうしたんだ? 揃って難しい顔しやがって」 手に新発売の缶ジュースを持って、増田が全くもって平生通りに僕らに話しかけてきた。
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「ほう。小明の恩人を、ね」 「はい。会って、もう一度、お礼が言いたいんです」 その様子からは、とても真剣な思いを持っていることがすぐに分かった。 だから俺は、それ以上余計な事は聞かずに、なるべく簡潔にこう言った。 「言ってみ。そいつの特徴」 「あ、ありがとうございますっ!」 凄い勢いで頭を下げた後、小明はその恩人さんの特徴を言葉にし始めた。
「なるほどね」 背はレイと同じくらい。黒髪か茶髪。当時、首に包帯を巻いた市村高校在学の男、か……。 「どう? 増田君。心当たりない?」 特徴を整理した所で、篠原が俺にすがるように聞いてきた。 (心当たりね……。あるには、ある。でもそれは……) 言おうか言うまいかためらった俺は、とりあえず当たり障りの無い返事をした。 「それだけじゃなぁ……」 「そう、ですか」 俺が答えを返すと、小明はとても残念そうに顔を俯かせてしまった。 心が痛む。 本当はそうかもしれないのに、俺は、そうとは言わなかった。 だってそれは、俺の中ではどうやったって推測の域を出ないものだったから。 (あれは夢の中での出来事だ……。 俺は小明と出会ってない。小明は俺のことを知らない。知らない、はずなんだ) だから小明の言っている恩人は、俺の知らない誰かだ。 状況と特徴が似通っているだけだ。 俺は自分にそう言い聞かせ、自らの口をつぐませた。 「あぁもう! こうなったら、ヤケですっ!」 「えっ?」 「あ、小明ちゃん?」 小明が勢い良く立ち上がり、声を張り上げた。 驚く俺らを尻目に、小明は再び話を続ける。 「絶対に見つけてやりますよっ! そのためにこの学校に来たと言っても過言ではないのですから。 ……という訳で、他の先輩方連れてきますね」 そう言い放つと、小明はそれぞれ作業をしていた他の奴らの所へ行ってしまった。 あまりに豪快過ぎる考え方に圧倒されてしまったが、 やがて俺らの口からは、自然と言葉が出てきていた。 「な、なんという……」 「凄い行動力ね……」 「おいおい……。てか、恩人を探す態度か? あれ」 まるで親の仇を探しているような勢いだ。 出会えた瞬間、即座にドロップキックをかますような、そんな感じ。 でもこの時の小明の表情は、とても生き生きとしていて。 強い意思を持っている目をしていた。 あの時と、同じだった。 「という訳で、連れてきました」 行動も早かった小明は、帰ってくるのも早かった。 確かに小明が示した先には、残り4人の姿があった。
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「うーん、やっぱり高橋君じゃない?」 「えー。去年モテてたって言ったら、和泉先輩じゃない? ほら、バスケ部エースの」 「和泉先輩かー。でも、もしそうだとしたら、もう卒業しちゃってるから会うのは難しいかも」 「とりあえず他にも候補を上げてみたら? その人って決まったわけでもないんだし」 「そうだね。じゃあ一旦整理してみようか」 全員が小明の話を聞き終わった後、俺らは1つの机を囲うように座って話し始めた。 流石、これだけいると候補が出る出る。 「あっ! 野球部の山川君は?」 「あぁ山川君かー。確かに、山川君ならありえるかも」 次から次へと名前が上がっていく。 考え込んでいるふりをして、この話し合いを見守っていた俺は、 最後の確認として、小明に何個か問いかけた。 「そういえばよ。お前がそいつと会ったのって、いつごろの話だ?」 「えっ? えーっと、確か2月の……下旬くらいだったと思います」 2月の、下旬ね。 「なるほど。じゃあもう1つ質問。それはどこでの話だ?」 小明は少し頭を悩ませた後、俺に答えを返した。 「えっと、市村住宅街です。そこのとある路地で、助けてもらったんです」 市村住宅街の、とある路地か……。 俺は小明に軽くお礼を言ってから、再び考え込むように口を閉じた。 (何から何まで合致する。偶然にしては、あまりにも合いすぎだ) もう他の奴だとは思えなかった。 俺がさっき突っぱねた推測は、確信へと変わってしまった。
小明の探している恩人は、俺だ。
いや、本当はもっと前に分かっていた。 俺がただ認めたくなかっただけなんだ。だって、認めてしまったら…… 「もういっそのこと、全員斬り刻んでくるか」 「お願いだからやめて。結果二度手間だから」 こいつらの存在を否定するようで怖かった。 思い出したくもないあの凄惨な出来事。それさえも、認めてしまうから。それに―― 「これだけ居れば、誰か一人は当たりそうですね。 綾先輩の言う通り……とはちょっと違いますが、総当たりも良いかもしれません」 良くねぇよ。相手の都合を考えろ。それにその中に、お前の恩人はいねぇ。 そうは言い切れないから、口には出さない。 俺が認めたくなかった、いや認めきれなかったもう1つの理由は、 小明のヒントが肝心な所だけ抜け落ちていることだ。 「桐ヶ谷さん。それはやめておいた方が良いよ。ほら、相手の都合とかあるしさ」 「む、確かにそうですね」 よく言った倉崎。流石常識を絵に描いたような男。美術部員だけに。 自分で考えておいて何だが、これはないな。
もし俺が本当に小明の恩人だったら、もうとっくに気づかれてないとおかしいだろう。 仮にも恩人だぞ? しかも数ヶ月前なんて、そんなに昔でもないし。 まぁ、今上がっている候補の内に、 本当の恩人さんが居たら、この疑問は即座に杞憂となるわけだが。
この時、俺は小明の恩人であるということを、隠していくことに決めた。
「じゃあ、この中から更に絞り込んでいこう。 小明さん、その人の特徴をもう一回言ってくれるかな?」 「はい、良いですよ」 笑顔で承知した小明は、続けた言葉の時も、終始笑顔だった。 「その人は、順斗先輩や裕子先輩のように優しくて」 「琴音先輩や美影先輩のように頼もしくて」 「レイ先輩や綾先輩のように格好良い人でしたっ!」 どんだけお世辞を言えば気が済むんだ、お前は。 ほら、みんな返答に困ってんだろうが。 どうすんだこの空気。 はぁ……他人任せの突破口なんて用意すんじゃねぇよ、全く。 「……俺は?」 「あっすいません。あまりにも恩人さんとかけ離れていたので、つい」 「つい、じゃねぇよ! そこまで言うかお前っ!?」 「えっだって、ストーカー……」 「だからちげぇって!」 俺がそう叫ぶと、みんなが一斉に笑い出した。 ここまでがお約束。小明が用意した突破口だ。
強くなったなぁ、本当に。 あの後、お前は負けなかったんだな。宣言通りに、頑張ってくれたんだな。 それだけ分かれば、俺はもう十分だ。
もし俺以外の奴が小明の恩人だったとしても、俺と同じことを思うだろう。 だから今はこのままでいい。
それに、小明の言う恩人さんは、俺なんかより余程大した奴らしい。 だったらいつかまた会えるんじゃねぇの? その良いとこ取り過ぎな王子様にな。
今も、そいつだ、いやこいつだ、と話し合いは続いている。 その話し合いは、最終下校時刻の知らせが放送されるまで続いた。
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「はぁ……」 帰り道。 一人歩く少女は深く溜め息をついた。悲しげに顔を俯かせながら、トボトボと歩いていく。 (やっぱり、そんなに簡単には見つからないよね……) すぐ見つかるなどとは露ほども思ってはいなかったが、 それでも、見つからないということはそれだけで悲しく思えてくることなのだった。 今では、うっすらとしか思い出せなくなってしまったあの人の姿。 とてもかっこよくて、凄く頼もしくて、誰よりも優しかったあの人。 今まで頑張ってこれたのは、あの人が居たから。 (どこに、居るんですか……?) 一言お礼を言いたいだけなのに、その一言が凄く遠い。 一時期は、その人がずっと傍に居てくれているような気さえしていたのに……。 あれから、ずっと肌身離さず持っているある物を手に取りながら、彼女はそう思った。 (また、会えますよね? いつか、きっと……) 空を仰ぎ、彼女はその物を胸へと当てた。 辛い時は、これがあの人のように思えた。 悲しい時は、涙を拭ってくれた。 ほんの小さな優しさで渡してくれたハンカチを、彼女は今でもとても大事にしていた。
今は、あの人と別れた時と同じ、夕暮れ時だった。 彼女の心中は、あの時と同じく強い決意に満ち溢れていた。 毎日を楽しんで過ごす。 そして、あの人と再会出来た時には、精一杯の笑顔を向けよう。 彼女は、もう一度ハンカチに目を落とした後、そのハンカチを丁寧にポケットへと入れて、 夕日に照らされた道を歩いて行った。
続
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