*下記内容は2001年11月に公開したものです。
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全く私的なライナー・ノーツ


 録音に関わる作業は終了し、編集の準備をしていました。細かな作業が残ってはいたものの、アルバムの制作はほぼ終了したといっても良い状態で、スタジオにいるスタッフの間にはほっとした空気が漂っていました。
 その時スタジオのドアが開き、ちあきさんが入ってきたのです。そしてどうしても1曲、歌をやり直したいという提案がなされました。既に完了した作業、その曲にはさらりとした大人の叙情と哀感を込めた素晴らしい歌が収められています。求めるものはすべて込められていました。私には何に満足がいかなかったのか分かりませんでした。でも御本人が納得できなければ、完了したとはいえません。
 ちあきさんは、いつもスタジオに入るまでに歌い方のアイデアをいくつも持っていました。その中からベストと思えるものを選び、発展させていく方法論をとることが多かったのです。何か新しいアイデアが生まれたのかなと思いました。とにかくやってみようと決断したのです。
 こういうケースはそう珍しいことではありません。しかし、普通は歌い手の想い入れだけが先に立ち、テクニックばかりが耳につく臭い歌になりがちで、結局はボツ・テイクになることが多々としてあります。しかし、既に完成品は出来上がっているわけです。ここは御本人に心行くまでトライして頂き、納得してもらえたら良いと考えたのでした。
 すぐにテープの準備をして、オケが流れ始めます。その時にスピーカーから届いた歌は、私たちの想像を遥かに超えた素晴らしいものでした。さらりとした情感の奥に、渇いた凄みが加わっていたのです。一瞬の間に深夜のスタジオの空気が凍り、人生が結晶となり手渡されたような重みがありました。それでいて結晶の芯には情熱の残り火が見え、ほのかな温かみすら感じ取れたのです。ほろ苦いメロディーの次に凛とした表情があり、最後にはふくよかな肌触りが残っていました。究極と思えた表現の奥に、更なる境地があったのです。納得させられたのは私たちの方でした。この瞬間に立ち会えたことが、至福のときに思えました。それまでの業界の常識が無残に砕け散る、凄い歌を体験したのです。そこには、まさに究極のちあきなおみの歌がありました。
 『紅い花』がその曲です。現在聴くことができるちあきなおみが残した歌声の最後のものになります。その後アルバムのリリース、そして病気の御主人を気遣って日帰りができる関東だけでのツアーが終わると看病に専念、その甲斐もなく御主人は他界され、その後はマイクの前から離れられたからです。

 私が担当ディレクターとしてちあきさんと一緒に仕事をしたものはアルバム『かげろふ』『すたんだーど・なんばー』『百花繚乱』の3作品しかありません。大人のポップスを、日本のスタンダード・ナンバーを、日本のAORを目指して制作したものです。主にポップスの分野で活動されている方々との共同作業、超一流のミュージシャン、スタッフとの交流でそれなりのクォリティーを持つ作品を生み出すことが出来たと思っています。
 しかし、世間一般で捉えられていた演歌フィールドのちあき像とは趣が違っていたのでしょう。一部の音楽ファンからの高い支持は得られたものの、一般的なヒット、広い層へのアピールは叶わぬまま10年という歳月が過ぎました。その間に図らずもネスカフェ・プレジデントの美しい映像を持つCMに『黄昏のビギン』が流れたことにより、『すたんだーど・なんばー』というアルバムが持つ本来の意味が少しずつ浸透していきました。それは『ちあきなおみ 懐かしのメロディーを歌う』といった安直な企画ではなく、音楽として現代を呼吸しているものでなければ意味がないというものでした。
 オリジナルのアレンジは良いものです。しかし、素晴らしい歌には、新しいアレンジ、解釈、そして歌い方、時代を包みこんでしまう懐の深さとパワーがあります。『すたんだーど・なんばー』が今でも色褪せずに聴かれているとしたら、そうした素晴らしい歌自体が持つパワーにちあきさんの歌がちょっとだけ後押しをした成果ではないでしょうか。歳月に埋もれようとしていた歌や固まりきったイメージに縛られていた歌の数々に、独自の解釈で新たに吹き込まれた命たちは別のパワーを授かったのかもしれません。
 その大きな仕事のパートナーとなったのが、編曲をお願いした倉田信雄氏であり、服部隆之氏です。倉田氏は以前からちあきさんのブレイン的存在のピアニストであり、今では伝説となっている意欲的なミュージカル『レディ・デイ』の唯一の共演者でもありました。このアルバムにもうひとつ新しい色を加えたかった私はデビューしたばかりの服部氏とコンタクトを取り、快く参加していただいたのです。『東京ブギウギ』の作曲者であり、日本のポップスの源流である服部良一先生を祖父に、服部克久先生を父に持つ彼はまだ20代前半の若者でしたが、さすがに古い歌への理解は深く、簡単な注文にもかかわらず、あり余る才能をさりげなく具現化してくれたのです。『黄昏のビギン』がその最初のレコーディングでした。ちあきさんも、そのストリングスの響きがことのほか気に入った様子でした。彼は次のアルバム『百花繚乱』でも、倉田氏と共に思う存分に力量を発揮してくれました。現在、TVドラマの音楽などに欠かせないビッグ・ネームとなり、精力的な仕事振りをみせる服部氏の極々初期の作品が『黄昏のビギン』だったのです。

 私が初めてちあきさんのアルバムを担当した『かげろふ』には、たくさんの思い出があります。宣伝の人間として洋楽や日本のロックと主に関わってきた私にとって、歌謡畑の仕事は不慣れからの戸惑いがあり、同時にわくわくする喜びがありました。洋楽的な影響から生まれた発想が1曲の作品となっていきます。ましてやひとりのファンでしかなかった私が、あの筒美京平氏と一緒に仕事をしていたのですから喜びもひとしおでした。しかも、歌の表現は超一級品です。当然、私の想い入れも強かったのでしょう。結果、出来上がったものは当時の洋楽の匂いが強く漂ったものになりました。
 バブル期の最後の頃です。時代は「ファジー」という流行語に象徴されていました。それが『曖昧2』という曲に詰まっています。筒美京平、松本隆コンビの代表的なヒット曲『Romanticが止まらない』のC-C-Bのメンバーで、関係者には親しみをこめて「こづつみ京平」とまで呼ばれていた関口誠人氏が、軽快で不思議な雰囲気を持つ曲を作り上げてくれました。ファジー、曖昧、I my meという洒落っ気からの発想が作品になった時、最初の『曖昧に』というタイトルではしっくりこないことを感じていたのです。当時のR&BやラップでよくFOR YOUは「4U」、TO YOUは「2U」といった表記が使われていました。そこで洋楽的な表記をしてみることを思い立ちました。分かる人に分かれば良い、それが隠れキャラとして『曖昧2』のタイトルの誕生でした。
 同じ様に『色は匂へど』の作詞は『三年坂』という小説を発表したばかりの新人作家でした。既に作詞家・伊達歩として筒美京平氏とのコンビで『ギンギラギンにさりげなく』の大ヒットもありましたし、『愚か者』ではレコード大賞を獲得した人でもあります。しかし、ちあきさんへの依頼は、小説『三年坂』の印象からスタートしました。アルバムが出来上がってクレジットを作成する時、迷わず小説家・伊集院静として表記することの了解を得たのです。直木賞を受賞されたのはそれから約2年後のことになります。いまでは当然のように思えるのですが、作詞:伊集院静も当時の隠れキャラのひとつだったのです。
 全体として都市に生活する女性の深層風景を、漠然とサウンドや言葉の奥に炙り出すことが出来れば良いと思っていました。そのことで大人のポップスという命題に、少しでも近づくことができると考えたのです。それができたのかどうかは分かりません。でも今でも好きなアルバムだとはいうことができます。

 『百花繚乱』はもう少し日本的な世界に、AOR風の素材を見出したいと思っていました。ちあきさんの意向を汲み、セルフ・プロデュースの要素を徐々に加えていきたいと思っていたのです。ヴィジョンを探り、希望を語りました。お互いのそうしたやりとりの中から友川かずきの名前が登場したのです。
 白毛鳥宴会団というグループがあります。70年代半ば、レコード会社の宣伝マンや雑誌社の編集の人間で、友川かずきを応援する連中が自然に集まりグループとなったものです。実体はただ集って酒を飲み騒ぐだけでしたが、宴会の締めには自作のテーマ・ソング『白毛鳥音頭』を必ず歌う、変で愉快な仲間でした。そう、小松政夫のあの歌です。私もそのグループのメンバーなのです。ですから友川かずき作の『夜へ急ぐ人』がちあきさんによって歌われたことに驚き、紅白歌合戦も友人としてTVでしっかりと観ていたのです。
 時が流れ、ちあきさんを担当した自分が友川君と仕事ができたのです。何曲かデモ・テープが届きました。『夜へ急ぐ人』タイプの曲もあったと思います。その中からちあきさんは『祭りの花を買いに行く』という、前作とは全く違うタイプの曲を選びました。友川君の激しい表情の奥にある優しさを見抜いていたのでしょう。この曲のほのぼのとした味わいは、アルバムの中でほっと一息つかせてくれる清涼剤的な大事な役割りを果たしてくれました。残念ながら、今回の2枚組の中には収められませんでしたが、機会があったら是非聴いて欲しい1曲なのです。
 また倉田氏、服部氏には作曲にまで参加していただきました。特に服部氏は「血筋からいって、いずれ作曲依頼も多いはず。第1号はちあきさんに頂戴。」という失礼な依頼にも笑ってOKを下さいました。そして長い詞にもかかわらず、流れるような素敵なメロディーが付いてきました。倉田氏、服部氏という両輪が揃い、新たな音楽作りの基礎ができたのです。
 そうです、『百花繚乱』はこの後のちあきなおみへのスタート・ラインだと思っていました。ブレインも固まり、本当の意味での大人の音楽が生まれる予感がありました。最初に書いた強烈な思い出も、予感が実感となったことを確信したからこそ強く心に残っているのだと思います。

 ちあきさんは素晴らしい耳の持ち主でした。歌だけではなく、音質や演奏へのこだわりも大きかったのです。ビクター時代にミキシングを担当されたのは後にB'zを担当された山口さんでした。担当ディレクターの仕事としては優れたミキサーをセットするのが役割りでした。『かげろふ』ではジャニーズ関係を初めとして、筒美先生の良きパートナーとして日本のポップス・シーンを拓いた内沼映二氏に、『すたんだーど・なんばー』ではかぐや姫、ティン・パン・アレイ、細野晴臣、YMOのエンジニア・田中信一氏に、そして『百花繚乱』では、フォークの初期、ベルウッドのサウンドを支え、松任谷由実なども手掛けられていた山崎聖次氏にお願いしたのです。
 ミュージシャンも井上陽水や山下達郎といった人々のアルバム・クレジットに同じ名前を発見されるはずです。ちあきさんの歌声は、こうした人たちをも魅了していました。参加していただいたミュージシャンの中で、リズム録りに仮歌から参加して凄い歌で良い演奏を引き出すちあきさんは伝説になっていました。「次のレコーディングが楽しみ」という声が聞こえてきていたのです。

 10年が経ちました。長いお休みなのかもしれません。本当に引退したのかもしれません。それを決めることができるのは、御本人だけなのです。
 でも確かなことがひとつだけあります。それはちあきさんが声を出さずにいても、間違いなく歌っていたということです。歌に預けた心は確実に届いていました。ちあきさんを、歌を、愛する熱い魂は静かに増え続けていたのです。魂のたぎりは、古いシステムと呪縛にとらわれた業界に穴を開け、光を通しました。光は埋もれようとしていた過去の作品群に新しい輝きを与えたのです。それは目標とした大人のポップス、日本のスタンダード・ナンバー、日本のAORという夢に、ストレートに理解を示してくれたことでもありました。ひとつの方向からしか見ることができなくなった関係者より、ずっとちあきなおみの様々な表情を分かってくれていました。愛情に満ちた眼差しがあったからです。歌に預けた心に寄せる純粋な愛情が、澄んだ眼差しを作り上げました。その眼差しを感じることができるからこそ、ちあきさんは歌っていたと私は言い切れるのです。
 スタートしたばかりで途切れた新しいちあきワールドの完成形は、ちあきさんを愛するあなた方一人ひとりの心に委ねられました。今度はあなた方自身がディレクターなのです。あなた方の中だけで歌い続けていたちあきなおみが、今まさにマイクの前に立とうとしています。音が出ない、あなただけにしか聴こえないCDです。
 何万種類ものニュー・アルバムが、日本中で進行しているなんて素敵だと思いませんか。

 このページをひそかに拝見していました。そしてたまたま私が担当しただけかもしれない3作のアルバムに、強い愛着を持っておられる方々の多さを知り嬉しくもあり、恥ずかしくもありという複雑な気持ちがありました。この度、当時のものが陽の目を見るということで、勝手ながら私的なライナー・ノーツを送らせて頂いた次第です。ちあきさんを、作品を愛してくださる皆様に感謝の気持ちを贈ります。同時に私の勝手な申し入れに、快く賛同いただいたこのページの管理人・ウシオ様にも心から感謝します。
 最後に、現在はご本名で生活しておられるちあきさんが、いつの日か「ちあきなおみ」さんに戻られる決心をされた折には、馳せ参じる決意であることも書き加えておきます。

                              
佐々友成


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