華やかなスポットライトに涙が光る・・・喝采
最后の電話

1972年9月10日発売
(EP)P-183



ご存知、ちあきさんの代表曲。そして日本の歌謡曲史上に今も輝き続ける名曲です(←決して過言ではないと思います)。

1972年の『日本レコード大賞』の大本命だった小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を大逆転、9月のシングル発売から年末に向かうに従ってチャートを急上昇し、その勢いを保ったまま3ヵ月あまりでレコ大受賞に至りました。NHK『紅白歌合戦』にはこの曲で3回目の出場を果たします。
オリコンチャートでは1972年の年末から1973年に渡り、なんと12週連続で2位を記録(当時ぴんからトリオの「女のみち」が1位を独走)。81万枚近くを売り上げました。

前作「禁じられた恋の島」がヒットしなかった悔しさをバネに吉田旺・中村泰士コンビが作り上げたこの曲は、当初吉田先生が書いた「幕が開く」というタイトルの歌詞を元に、中村先生がその内容と全く違うメロディーを作曲。それに合わせて吉田先生が再度歌詞を作り直したそうです。

この曲からちあきさんのディレクターに東元晃氏が就任。東元氏がディレクターになった事により、ちあきさんはそれまで在籍していたコロムビアの文芸(歌謡曲・流行歌)部門からポップス制作部門に移りました。その後、東元氏は1992年のちあきさんの活動休止まで長年に渡りちあきさんの音楽制作を支える事となります。

発売当時、この曲はちあきさんの実体験を基にして作られた「私小説歌謡」として売り出され、今もそれを疑わない人が多いのですが、実は全くのフィクション。歌詞が出来上がってからその内容に近い体験をちあきさんがしていたと分り、それを「実体験」として売り出したのが本当のところです。出来上がったばかりの歌詞を読んだちあきさんは、実体験に近い内容の「喝采」を歌いたがらなかったそうですが、結果的に大ヒットに結びつきました。

1970年代、コロムビアに在籍していた時はテレビ番組などでも頻繁に歌っていましたが、その後、1980年代に入りビクターに移籍。音楽活動のスタイルを変えたこともあって、ステージでも披露する事はほとんどなくなりました。
しかし、1988年にテイチクに移籍し歌謡曲・流行歌のフィールドで活動するようになってからは、再びコンサートやディナーショーで歌うようになります。ただテレビ番組で披露される事は非常に少なく、1989年に関西地区だけで放送された、ちあきさんの単独2時間番組『情け歌』で披露された中村先生とのデュエットや、1991年のバラエティー番組『夜もいっしょうけんめい』で出演者と一緒にサビだけ歌った事を除けば、1992年4月放送のNHK『愉快にオンステージ』で歌ったのが唯一となりました。

なお、2005年11月に発行された『歌謡Gメン あのヒット曲の舞台はここだ!(テリー伊藤・著)』では、この曲を作曲した中村先生が、この曲が出来た経緯を語っています。