このお話はフィクションです。




待ち合わせは楽屋
Noguchi without a cause



 『……続きまして、先ほど入ってきた話題をお伝えします。今日早朝から現在にかけ、千代田区の国会議事堂中央玄関前に、歴史上の人物に扮した男女数名が集合し、付近住民の注目を集めています。具体的な行動に出る様子は特に見られず、単なるパフォーマンスもしくは遊びであるように思われますが、今後さらに人数が増えた場合に無届けの集会に発展することを懸念し、警備員らが目的の提示を求めています。……中継が繋がったようです。繰り返し、映像でお伝えします』

 楽屋のテレビモニターに流れ始めたニュース映像を、僕は紙コップのお茶を片手にひとり眺めていた。
 ふらふらとして定まらない画面の中に国会議事堂が斜めに映し出されている。もうじきオープンするという赤坂の派手な商業施設が、青空を背景に時折映りこんでいる。ニュースとは関係のないその建物がアングルに入らないよう、カメラマンは気を使っているのかもしれない。
 『国会議事堂、中央玄関前には……四名の男女が立っているとの情報が入っています。映像、出ますでしょうか……えー、画面には見えませんが、情報では男性三名、女性一名が……伊藤博文? えー、男性の一人は伊藤博文の扮装をしているとの情報です。他に、板垣退助の姿も見られるということです。警備員の問いかけに対しては、全員が沈黙を守っているとの……はい? 樋口一葉、ですか……えー、詳細は依然、不明です』
 昼下がりの情報番組の途中に挿入されるそのニュースを担当する中堅アナウンサーの困惑している様子に僕は同情した。そこに流れている映像の中に、ニュースに伝えられるところの四人の男女の姿は、ない。流れているのは単なる国会議事堂のある風景でしかなかった。報道のフロアも混乱しているのかもしれない。カメラがあさっての方向を向いているぞ、と。
 カメラはちゃんと対象物に向けられているんだろう。僕はそう想像した。話題の中心であるそれが、僕に心当たりのあるあれと同じものなら、おそらく。
 あれは……映らないんだ。
 ニュースの音声は現地にいつの間にか新たに一人、「福沢諭吉」が現れて合計五人になったという情報を、やっぱりどこか困惑気味に伝えていた。流れているのはあいかわらず、その場所の風景と、たまに見切れる警備員、それ以外に何も変わったものを映すことのない資料のような映像だったけれど。
 「ってことは……今日は、来ないのかな」
 お茶を片手に僕は顔を横に向け、テーブルの端にふたつ重ねて置かれている手付かずの弁当を見つめた。

 始まりは、今日いるここではない別のテレビ局での仕事の空き時間のことだった。
 仕事で疲れていたから、と言えば格好がつくけど、本当は連日お気に入りのドラマのDVDを見ているせいだと白状しておこう。楽屋が畳敷きの個室なのを幸い、僕は早速ごろりと横になって――仮眠を取れるほど時間の余裕はなかったが、仮に眠り込んでしまっても時間が来れば必ず誰かが呼びに来てくれる場所だから心配はない。小さくあくびをひとつして、僕は座布団を枕にささやかな休息に入ろうとした。
 が、休むことはできなかった。誰もいなかったはずのその部屋の畳を踏んで、男物の靴で立つ誰かの足がそこにあるのが、視界に入ってきたから――。
 (……ドッキリ?)
 他の出演者が部屋を間違えたとか、スタッフの誰かが用があったとか、もしくは楽屋ドロボーとか――自宅で空き巣に入られた経験を持つ僕の相方ならそれを最初に思い浮かべたかもしれない――いろいろ可能性は考えられたはずなのに、僕の頭がその時思ったのはその中でも最も自分にとって起こってほしくないパターンだった。困るんだよな、こういうの。あまり早く気づいてしまっちゃ企画者に悪いし、でも既に気づいてしまったものを知らんぷりしているのも気が進まないし。僕はとりあえず声を立てずにそこにいる者の様子をうかがっていた。弱ったな。どうリアクションしよう。
 っていうか、こいつ土足だよな。――すっかり眠気も飛んでしまった頭でふと思ったその時、視界にあった靴と同じ色をした男の顔が唐突に僕の目の前に現れた。
 「ふわ!!」
 リアクションとかもう計算していられなかった。アップで迫る顔の圧迫感に僕は奇声を発して飛び起き、立ち損ねて畳にしりもちをついた。見たことのない人物がそこにいた。古めかしい背広を着た中年の男。服装は地味で顔立ちも普通、とり立てて変わったところはない――とは、言えなかった。一見おかしなところはないように見えながら、だけどその男のたたずまいは明らかに異様だった。その男には色がなかった。地味な服装であるというだけではなく、顔や手足を含めた全身が、単色の印刷物のような青みがかった黒の線描で構成されていた。くせのある短髪、その下の目鼻、口髭、洋服とネクタイ、その全部が同じ色のぺンで丁寧に線描したような微妙な陰影でもってひとりの男の姿に形作られている。その男が畳に膝をつき、僕の顔をのぞき込んでいたのだった。現実の風景の中にそこだけ、人間ひとり分の無彩色な空間がぽかりと広がっているようだった。じっとしていればそれは等身大の人物画にしか見えなかったかもしれない。だけど、それはじっとしていなかった。
 しりもちをついた姿勢のままじりじりと後ずさって壁に背をついた僕の前に謎の男は無言で立ち、やおら片手を上げて西洋風の挨拶らしきものをしてみせた。言葉はなにも発さない。表情もまったく動かすことなく、ただ静かな身振りで挨拶をするその男を、僕は呆気にとられ見ているしかなかった。
 一枚の絵のように動かない表情のまま、男は軽く腰をかがめ、握手を求めるように僕に右手を差し出してきた。職業柄それを求められることは割とあるから、習慣でつい自分も右手を出してしまう。
 体温を感じないな――と思ったのは一瞬で、その温度のなさ以上に、その不自然すぎる感覚が僕を固まらせた。配色はともかく形は普通に人間の手の形をしているものを僕は握っているのに、僕の目にはそのように見えているのに、僕の手には、握っている感触も握られている感触もなかった。代わりに、右手を左右から2枚の厚紙でサンドされているような平らな感触があった。頭がぐらぐらしてくるのを我慢して僕は立ち上がり、思い切って相手の身体に触れた。
 男の身体は平面で構成されていた。どこに触れても、どこもかもが紙か板のように平たかった。向かい合った相手の肩を抱くように両手で触れる、僕の目にその様子が映る、だけど僕の手は、壁に貼られたポスターにでも触れているような手触りしか感じない。わけがわからなかった。目で見ていると三次元に見えるのに、手で触れると二次元になってしまう男。
 ぐらぐらする頭で僕は無意識に横を向き、そこで演技ではなく本気の二度見をした。横を向いた視線の先にある楽屋の姿見、その鏡に、僕の前にいる男は映っていなかった。角度からみてそこに映っていなければならないはずの男の姿は鏡の中になく、ただ、もともと色白な顔をさらに蒼白にした僕が呆けたように手を前に出している姿があるだけだった。
 確信した。テレビだろうが映画だろうが、どこの美術スタッフにも、こんなものは作れない。
 「お……オバケ? オバケなの?」
 僕の混乱を知ってか知らずか、ペンで描いたような顔の男はいまだ無表情のまま静かに頭を下げると、背広のふところから一枚の紙片を取り出して僕に差し出した。こういう場面も割と経験している。僕は名刺を持っていないから、そういった挨拶に対して自分がどう返せばいいのか、いつも迷ってしまうんだ――
 「……へ」
 習慣で動いた手が自然に受け取ってしまったその紙片に僕が見入っている間に、謎の男はするりとドアを抜けて廊下へ出て行ってしまった。こんなもの貰ういわれはない、そう言って突き返すべきだったのかもしれない。だけどその時の僕はただただ、唖然としてその場に立ち尽くしていた。渡されたのは千円札。誰もが見知った、この国の紙幣……いや。よく見ると少し違う。本物とほとんど同じデザインだけど、贋札として通用するほどそっくりではない、それはコントか何かの小道具のお札だった。どこかから持ってきたんだろうか。
 「意味わかんねえ……」
 小道具ならもとの場所へ戻しておくべきかもしれないけど、そもそもどこから来たのかわからないし……そもそも、さっきいたあれがいったい、何だったのかがわからないし。
 頭の中を疑問符だらけにして、僕はその千円札を見つめていた。確かにそれはある意味であの妙な男の名刺であるともいえた。その紙に、彼の素性のヒントがある気がした。
 千円札に描かれた野口英世の肖像。謎の男の姿形はその肖像にとてもよく似ていた。

 名刺を渡すという行為は、その相手との関係を維持したいという意思を表している。ということだったのかどうか知らないが、彼はその後もたびたび僕の仕事場にひょっこり顔を見せてはそのつど僕を驚かせた。どこでどうタイミングを計っているのか、彼は必ず僕がひとりでいる時に現れた。僕の側に人のいない時、というわけで必然的に彼が現れるのは楽屋の中であることが最も多かった。台本に集中している間にいつの間にか背後に立たれていることもあれば、ひと仕事終えて戻った時に先に入り込んでくつろいでいる彼を見つけることもあった。専用の楽屋にそんな得体の知れない男が出入りしているのを見たら何かしら対処してもらうのが本当なんだろうけど、どうしてか彼に対してはそういう気持ちになれなかった。同時に、仲間の誰かにそのことを話して情報を共有したいという気も浮かばなかった。人目につかねば成り立たないお笑い芸人という職業、プロフィールもプライベートも簡単に公開されてしまう生活。そういう生き方を今さら疎むつもりもないけど、ひとつくらいは仲間にも家族にも明かさない秘密を持ってみたいじゃないか。そういうわけで僕はその謎の男のことを誰にも話さずにいた。僕だけがその存在を知る、オペラ座ならぬテレビ局の怪人。
 「ねえ、それ、読めてんの?」
 鏡の壁の前の細長いテーブルで雑誌をめくる僕の隣で、同じポーズで別の雑誌を手にしている彼に、僕は少し呆れて声をかける。線描の絵のような彼の顔は表情が固定されていて(手足は自由闊達に動くのになんで顔だけお面みたいに動かないんだろう?)、テーブル上の本を両手で持ってそこに顔を向けていても、彼の目線はいつも若干本からずれているのだ。にもかかわらず大真面目な様子でページを繰り続ける姿がなんだか無性におかしくて、隣に腰かけながら僕は無闇と楽しくなってしまう。壁の鏡に目をやれば、そこに彼の姿はなく、宙に浮く本だけが映っているという不自然さも、最初は気になったけどいつしか慣れてしまった。完全に無表情でいつも同じ目の形をしていて、まばたきもせず、口も開かず、ものを言うこともない、そんな彼が傍らにいることを僕はいつしか楽しむようになっていたのだった。いつも同じアングルの顔――千円札の野口英世の肖像画と同じアングルの顔。実在した野口英世氏と関係があるのかどうか知る由もないけど、僕はその男のことをこっそりと、ノグチくん、と呼ぶようになっていた。
 ノグチくんが何を目的に僕の周辺をうろつくのかは皆目わからなかったけど、少なくとも危害を加える存在ではないことは早くから感じ取れた。気配もなくいきなり背後にいるといった行動パターンが僕を驚かすことはあっても、暴力的になにかをしかけてくるようなことは一切なかった。むしろ僕のほうが、驚いた拍子に職業的反射神経で彼の頭をパカンと叩いたり、線画のような身体を面白がって意味もなくぺたぺた触ってみたり、なにかと失礼な扱いをしていた感がある。そんな時でもノグチくんには怒るそぶりなど少しもみられなかった。何があろうと変わらぬ表情で、仕種はどこかとぼけていて、予測不能な行動をとっては僕を笑わせる。不思議なノグチくんを僕は気に入っていた。見た目は立体的なのに触ると平面的な身体はエッシャーの騙し絵のようで、無表情な顔で動き回っては人を驚かせるという行動にはバスター・キートン的なものを感じさせた。そのどちらも僕の好きなもので、それで僕はノグチくんに好感を抱いていたのかもしれない。

 鏡に映らないノグチくんだけど、僕以外の人間の目に見えないというわけではなさそうだった。僕と前後して楽屋を出入りする姿を見かけたのだろう、通りすがりの人があれ?という顔をしていることは時折あった。が、僕の職種がそうさせるのか、多少おかしな格好をした人物がいてもさほど人は不思議に思わないようだった。今誰かいましたよね? と尋ねられても、「うん、後輩」と答えればそれで話は済んでしまった。廊下を恐竜の子供が歩いていようがホストと貴族と宇宙海賊が同時に歩いていようが誰も気にかけない、テレビ局という職場の特殊性もあったのかもしれないが。
 なにが後輩だよ、と自分の言ったことに思い出し笑いしながら僕は楽屋に入り、先に入っていたノグチくんがテレビに映る後輩芸人のギャグを無言で真似しているのを見つけて今度は声に出して笑う。なにやってんだよ、と笑いかける僕をよそにノグチくんはギャグに夢中で、しかたなしに僕は肘掛け椅子に陣取ってそれを観察して過ごした。テレビがCMに入るとノグチくんはようやくモニターから離れ、僕の側に来てふところから携帯電話を取り出した。彼がケータイを持っているというのも意外だったが、それを手に僕とツーショット撮影を求める仕種をしてみせたのにもちょっと驚いた。
 「っていうか、映るの?」
 僕の小さな疑問をよそにノグチくんはいそいそと隣に立ち、くっつくほどに頬を寄せて撮影ボタンを押していた。保存した画面を満足気に眺めているノグチくんの後ろから僕もその画面をそっと覗いてみた。縦長の液晶画面には案の定、画面の片側に寄ってやや引きつった笑顔をしている僕の姿しか映っていなかった。

 「なんかこのごろ、お弁当たくさん召し上がってますよね」
 廊下で若いADに言われた時には一瞬、やばいかな、と思った。
 「ん、そうだっけ。ひょっとして迷惑かけてる?」
 「いえ、全然。余裕みて発注してありますし、なんにも手をつけられないよりかは、きれいに食べていただけてるほうがうれしいです」
 決して大食漢ではなかったはずの僕が急に二つも三つも弁当を完食するようになれば少しは不審に思われても無理はない。とはいえ相手も忙しかったのだろう、深く追求されなかったことに僕は内心ホッとしていた。なんだか、親に内緒で子犬でも飼っている子供の気分だった。
 ノグチくんの口はいつも同じ形に結ばれていて動くことがないのだけど、食べたり飲んだりすることは僕と同じようにやってのける。フリスクなんかも自然に受け取るし、差し入れのお菓子を勝手につまんでいることもある。ためしに楽屋の弁当を勧めてみたら僕以上にきれいに平らげて、無表情だけれどもどこか喜んだ様相を見せるものだから呆れてしまった。彼の食事風景は見ていて飽きなかった。真顔で箸をつかって彼は開かない口に食べ物を運ぶ、すると、口元まで近づいたある一点を境にその食べ物がふっと消えるのだ。口が動いている様子はいっさいないのに、箸の動きとともに順調に食べ物が減り、容器をカラにしていく。どう目を凝らしてそれを見ていても、どんなカラクリでそれが消失するのかがどうしてもわからなかった。マジシャンかよ、と僕はカラクリを理解するのをあきらめて天を仰ぎ、そして笑った。
 理解できようとできまいと、ノグチくんは今日もそこに存在している。それでいいじゃないか、と思っていた。なにかが起きるのには必ず理由があるのだろうけど、その全部を知る事ができるとは限らないのだから。ノグチくんが存在する理由は僕にはわからないけど、ノグチくんが存在するおかげで生じる楽しさを僕は享受することができる。それで充分だった。
 マジシャンのステージと同じ、カラクリを知ってしまったらかえってつまらなくなる。そんな気もしていた。それを知ることでノグチくんへの興味を失うくらいなら、僕は理由なんて知らなくてもいい。いいじゃないか、今、面白いんだから。わざわざそれを失くしてしまうようなことは、したくない。いつまでもそこにあるかどうか、わからないものなんだから。

 午後のニュースの時間は終了し、番組は再び生放送のスタジオに戻っていた。出演者たちのフリートークと平行して、さっきのニュースについて視聴者から寄せられたメールやFAXがいくつか紹介されていた。大半はその歴史上の人物とやらがひとりも放送で流れなかったことに対する苦情らしかったが、一方で、その人物らしきものを昨日は別の場所で見かけたという目撃情報も寄せられていた。MC役の俳優がそれらを読み上げていた。国立印刷局滝野川工場付近で岩倉具視を見た、財務省本省庁舎前で夏目漱石を見た、日本銀行本店前で新渡戸稲造を見た、といった類の。
 ネットのオフ会じゃないのか、コスプレの集会だろう、などとスタジオの出演者からは好き勝手な発言が飛び出している。結局それ以上の見解が出ることはなく、MCは報道センターからの続報で現場に今しがた野口英世が来たようだと短く告げて番組を次のコーナーへとつなげた。
 やっぱり、と呟いて僕はお茶を飲み干した。ということは、今日はどうやら彼には会えないらしい。なんだか知らないけど、ノグチくんはあっちに用があるらしい――仲間と一緒に。仲間がいるとは意表を突かれた気がしたけど、考えてみればお札は千円札の他にもあるんだから、他の人物も現れていてもおかしくはないんだろう。おかしくはないのかよ。と、ノグチくん的存在に完全に慣れてしまっている自分が一番おかしい気がして僕は苦笑した。
 苦笑まじりに2杯目のお茶を注ごうとして、紙コップをひっくり返した。楽屋の隅に、来た時にはいなかったはずのノグチくんが体育座りで座っているのが、視界に入ってきたから――。
 「え、いるの?」
 来ないと思ったノグチくんが来ていたことを喜びつつ、だけど同時に微かな疑問を感じて僕はノグチくんに歩み寄った。なんで、ここにいるんだよ。だって今、生放送で言ってたじゃないか、野口英世は今、千代田区永田町にいるって。ここは港区だぞ。
 「だって、だっておまえ野口英世だろ? なんでいるんだよ。あっちじゃないのかよ……それとも、あっちにいるのが野口英世なのか? だったら、ここにいるおまえは、なんなんだ……?」
 何を言ってるんだ自分は。冷静に考えると相当おかしなことを口走っていると僕は自覚していた。だけど疑問は止められなくて、その僕に何も反応せずただ横を向いて座っているノグチくんの態度が解せなくて、僕はやや声を荒げてしまった。こっち向けよ、と。
 「なあ、こっち見ろよ。ほら、これ。これ、おまえだろ? おまえの顔だよな? おまえが、これだったんじゃないのか……野口英世だったんじゃないのか」
 ポケットにその時、初めて会った日にノグチくんがくれたあの千円札が入っていたのは、たまたまあの日と同じ私服を着ていたからで、別に毎日持ち歩いていたわけじゃない。だけど僕はとっさにそのことを思い出し、取り出した千円札をノグチくんに見せるようにして詰め寄った。ノグチくんは自分の顔を隠すように両手を頬に当て、いやいやをするように軽く身をよじって座っていた。しばらくそうしていたのち、ノグチくんは静かに顔を上げて首を横に向け、両手は頬に当てたままで僕のほうを見た。そして、両手を頬に当てたまま、その手をぱたりと閉じた。
 「…ひ!?」
 悲鳴が喉に張り付いた。僕は目をむいてそれを見つめた。確かに、ノグチくんの身体は平面だ。それは知ってる。だからこんな具合に、彼の身体の一部が折り紙みたいに畳まれたとしても別に不自然ではないのかもしれない。だけど……だけど、これは有りか?
 鼻柱を中心線にしてノグチくんは自分の顔を半分に折り畳んでしまっていた。その顔でノグチくんはゆらりと立ち上がった。半分の面積になった顔の左側のほうを僕に見せるようにして、ノグチくんはじりじりと僕に近づいてきた。左半分だけのその顔は、僕がそれまでノグチくんに感じていたのとはまったく違う印象を受けるものだった。半分だけのノグチくんは、黒い。インクのような色の線描がかなり密で、どす黒いと言っていいほどの影をそこに落としている。その黒の中ほどにある片目はひどく冷たくて、闇の中からじっとこちらを見据えているような筆致で描かれている。ノグチくんが変わってしまった――いや。ノグチくんが変わったわけじゃない、その色も線も最初から僕には見えていたはずのものだ。最初から、ノグチくんの左半分はこんなふうに暗かったはずだ。右半分と同時に見ている時にはそれが気にならなかっただけで、ノグチくんはずっと、その半面を僕の前にさらしていたはず――僕が、ちゃんと見ていなかっただけで。
 どす黒い顔の中にある片目で僕を見据え、ノグチくんが近づいてくる。腰を抜かしそうな僕はそれから目をそらすことができず――近い、近いよ。そんなもの見たくないのに、近いから見てしまう――怖い、怖い怖い怖い!
 持っていた千円札が風に吹かれたように手をすり抜けた。ノグチくんの手が鮮やかにそれをつかまえ、さっきとは逆に僕にそれを見せ付けるようにして僕の顔の前にそれを掲げた。その手はさらに僕の顔に近づき、やがて僕の両目をふさぐように千円札が顔に押し付けられた。長年この業界にいてかなりいろんな仕事をしてきたけど、お札で目隠しをされた経験はたぶんまだない。
 「何すん……」
 ノグチくんの手は離れたらしい感覚があったが、千円札はしっかり貼り付けたように僕の顔から動かなかった。薄い紙幣でふさがれただけのはずの視界が妙に暗い。自分が目を開けているのか、閉じているのかも判然としなかった。何も見えない――そして、何かが見える。
 それを剥がそうにも身体が強張って動かない、そう感じたのも束の間、視界から直接脳になだれ込むようにして入ってきたある感覚に僕は支配されていた。頭の中にいくつもの何かが見える。昔々の夢のような、遠い時代の記憶のような、そして、今日の誰かのひそかな願い。大きなスクリーンに取り込まれたようなその中で僕が見たものは、ノグチくんの心の中だったのかもしれない。

 そうか……
 そうだったのか。

 「……そうだよ。僕じゃないんだ。僕はただ演じただけで、おまえを描いたのは僕じゃない。そもそもあれは映画で、おまえを生み出した人物は実在しないんだ」
 千円札に目をふさがれたまま、僕は自分にも言い聞かせるようにそう言った。ごめんよ、そういうことなんだ。残念だけど僕には、ノグチくんにしてあげられることが何もない。
 かさり、とどこかで紙の折り目を開くような小さな音がした。僕はゆっくりと目を開いた。心なしかぼやけていた景色がやがて普通の色合いに戻り、見慣れた楽屋の風景が僕を迎えた。その隅に、ノグチくんがいた。いつも通りの顔に戻ったノグチくんが、千円札を片手に軽く首を傾けて僕を見ていた。
 待てよ、と僕はとっさに口走った。ノグチくんがさよならを言おうとしている、瞬時にそう悟って僕は狼狽した。まだいいじゃないか。カラクリがばれたからって、何も今すぐに消えなくてもいいじゃないか。
 まだ少し強張っていた僕の足が一歩を踏み出すよりも早く、ノグチくんは何事もなかったような無表情のまま、バイバイをするように軽く片手をふり、いつかのようにするりとドアを抜けて行ってしまった。待てったら、とあわてて飛び出した廊下にノグチくんの姿は既になかった。いつも通りに騒々しいテレビ局のざわめきだけが僕を包んでいた。

 ネット上の噂によるとその日、国会議事堂前には最終的に九人の歴史上の人物が集結していたらしい。日没の頃までそこにたむろしていたものの、来た時と同様いつの間にかいなくなっていたということだった。一説では最後に登場したのは聖徳太子で、他のメンバーが口々に何か訴えるのをひととおり聞いたのち、和をもって尊しとかなんとか言って全員を納得させ、おとなしく解散させていた、解散した彼らは三々五々来た道を帰って行きながら霞のように空気に溶けて消えてしまった、などといったことも囁かれていた。居合わせた警備員か地元住人かには、脳に直接届くような不思議な声で、お金を大切に、というメッセージが伝えられたという話も。……どこまで本当かわからないけど。
 気持ちはわからなくもないよな、と、その日のことを思い返して僕はぼんやりとそう思う。生前の性格はさまざまだったろうが、今現在の彼らは基本的には人畜無害な存在に落ち着いているはずだ。争うことも自己主張することもなく、ただ世のため人のため、世の中を豊かにするという目的のために黙って力を貸してくれる物静かな人たちに。だけどそんな彼らにもたまには静かにしていられない時があるというわけだ。本来ならこの世を幸福にするため、自給自足と物々交換しか知らなかった時代よりも僕らをより幸福にするために先人が考え出したはずの経済というシステムが、いい加減な使い方をされているせいでなんだかうさんくさいイメージがついてしまっている、その状況が彼らを哀しませるのだ。ことに政治とお金にまつわる諸問題についてはこれまでにもいろいろと言いたいことが彼らの間にあったのだろうが、ここへきてついに彼らも黙っていられなくなってしまったのだろう。無理もない。仮に今も生きていたなら、彼らは全員が後期高齢者なのだから。
 何が一番のきっかけだったのかは推測の域を出ないが、とにかくその静かな主張を胸に彼らは一時的に実体を伴う存在に変貌した。思い思いの場所で自然発生的に彼らは生まれ、まずは紙幣である自らと関連のありそうな場所に出没し、最後は全員が国会議事堂に集まった。メンバーの中に政治家だった者がいるせいでそこが集合場所になったのかもしれない(漱石ほか文化人のほうが頑張っていたら国会図書館にでも集合したのだろうか?)
 だけどそれとは別に、ある場所でひとつの手違いが起こっていた。お金であってお金でない、千円札であって千円札でない、ノグチくんだ。
 野口英世はもちろんそのメンバーの中にいた。本物の野口氏を元にした、本物の千円札から生まれた野口英世が。だけど別の場所で、別の野口英世も生まれていた。千円札のノグチくん。僕はうっかり忘れていたんだけど、以前、僕はある映画の中で贋札を作る男の役を演じたことがある。ノグチくんが持っていたのはその時の小道具のお札だった。本物のお札たちから人物が生まれるという現象の余波で、小道具のお札からはその時ノグチくんが生まれてしまった。本物の千円札から、本物の野口英世はちゃんと生まれていたのに。
 元が贋札だったノグチくんは、他の人物とは違いお金と関連のある場所には出没しなかった。代わりにやって来たのが、僕のところ。たまたまその役を演じただけのただの芸能人。なのに、生まれたばかりのノグチくんはその男が自分の造物主だと思ってしまった。もちろん映画はフィクションで、僕が演じたのは架空の人物で、小道具のデザインをしたのは僕じゃない。もっと早く思い出せればよかった。僕が思い出さないでいるうちに、ノグチくんのほうが先に気づいてしまった。自分が間違って生まれてきたことに。自分は経済とは関係のない存在で、他のお札の人物のところへ行ったとしても仲間には入れてもらえないことに。
 行くべきところも目的もないノグチくんはそのまま僕のところにいるしかなかった。一緒にいても特に何ができるでもない、世の中に対して何ら具体的な力を持たない、ただのお笑い芸人の僕の側に。あの日々に意味なんてあったんだろうか。僕はその物珍しさをのんきに楽しんだけど、ノグチくんにとってはどうだったのか――
 少しは楽しかったか、と僕はひとり心につぶやく。あのなんの意味もない短い時間のひとつひとつを、もしも、僕と同じようにノグチくんも楽しんでくれていたのなら、無力な僕も少しは救われるんだけど。
 あの日以来ノグチくんの姿を見ることは二度となかった。仕事で個室の楽屋を与えられるたび、もしかしたらの期待をこめて僕はなるべく長くその場所にとどまるようにしていたのだけど、いつかのようにノグチくんがふらりとやって来るようなことはもう起こらなかった。他のお札の人物たちと同様に、ノグチくんもそんなに長い期間この世にいられる存在ではもともとなかったのかもしれない。
 楽しんでいてくれてたならいいのに、と僕は思った。誰も知らない時間の隙間で、限られた狭い空間で、意味もなく時を過ごして、珍しくもないものを食って、たわいもないテレビ番組を眺めて。それでも、そんな日々をノグチくんも楽しいと思ってくれていたなら、たとえ短い間でも、この世に生まれてこれたことを良かったと感じてくれたなら、いいんだけど――。

 それから数ヶ月も経っただろうか。
 今、僕はふたたび“ノグチくん”と共にいる。

 「今週も登場、ノグチくんです!」
 スポットライトと陽気な音楽、観客と共演者の笑い声の中で、元気にパフォーマンスをしている彼の姿を見て僕も笑っている。
 新番組の企画で千円という単位を使うという案が出ていると知り、やがて引き合わされた「ノグチくん」を見た時にも、僕はその意外すぎる一致を笑わずにはいられなかった。傍目には僕のその喜びようは、新番組のキャラクターの出来映えにMC役の芸人がいたく満足している姿と映っただろうけど。
 千円という単位を使う番組内容から野口英世の肖像をキャラクター化するというアイデアが生じ、「ノグチくん」という名の出演者が登場したことは、とりたてて奇妙なことでもなんでもない。野口英世の肖像画をリアルに立体化して動かそうと思えば誰が作ってもあんな感じになるだろうから、出来上がった「ノグチくん」の見た目が僕の知るあの怪人と酷似したものだったとしても、びっくりするほどすごい偶然ということではたぶんないんだろう。新番組のMCとして、ベテランの芸人として、僕はその愉快な企画を冷静に受け止めようと思った。見れば見るほどそっくりなその姿を目の当たりにしても、あの懐かしい日々のことをいちいち思い出して、そこにいる相手を彼と混同したりしないように。
 それでも当初、そのそっくりな背広姿は僕をどうしようもなく不思議な気持ちにさせた。もちろんその容姿は番組スタッフの渾身の作品であり、そこにいるのはメイクをして衣装をつけた演者であることは重々わかっている。わかってはいるけど、変な気分だった。「ノグチくん」がごく普通にスタジオ近くの廊下を歩いていたり、喫煙場所でスタッフと談笑していたり、番組の放送日にテレビの画面に普通に映っていたりするのを見るのは、控えめに言ってものすごく変な気分で、間違った反応をしてしまいそうになる。
 変な気分になるその理由を、僕は誰にも語らずにいる。それはまだ、僕の中にしまっておいてもいいだろう。それを明かせば、ノグチくんがこの世に存在した理由までもを明らかにしなければならなくなりそうだから。けれども、それを明らかにできるかどうかは、たぶん誰にもわからないから。
 あらゆることには理由がある。だけど、その全部を僕らが知ることができるとは、限らない。
 知りたいという気持ちは美しいけど、知らなくてもいいことをそのまま、夢のままにしておくこともまた美しいのだと、僕は思いたいんだ。

 メイクをして衣装をつけた演者を見る時、優しいデジャブのようなやわらかい感覚が時折僕を包む。
 あの頃と同じように自由に動いているその姿を目にしていると、彼に対して無力な自分を申し訳なく感じたあの痛みが少しずつ癒され、そして、いつかもう一度、彼に会える時が来るような気がしてくるんだ。
 もしかしたら、いつか。

 なあ、ノグチくん。

 世界のどこかにまだおまえがいるなら、いつかまた、僕の近くに来ることがあるなら――

 その時はまた、一緒に弁当でも食べよう。


 見るともなく見ていたテレビを消して、その日も僕はいつもどおりに仕事場に向かった。
 嘘か本当かわからない小ネタのひとつとして、あの国会議事堂の件の翌日にあったという出来事が番組で紹介されていた。

 『国立国会図書館前付近を、十二単を着た紫式部が歩いていたという情報が届いています。彼女は誰かと待ち合わせをしているように国会図書館前にしばらくたたずんでいたものの、やがて自分のほうが遅刻もしくは場所を間違えていたことを察したように、寂しげにまたもと来た道を帰っていったとのことです。』




おしまい。






おしながきに戻る