♪過去の雑談♪(単なるゴミ箱ですσ(^o^ゞ)

◎ 2005.06/05 -
既に数日前になりますが。
5月31日に、元大関・貴ノ花の二子山親方(本名:花田満)がガンで死去しましたね。享年55歳。(今の平均寿命を考えれば、まだ全く若いですね)
ともかくまずは合掌。

その二子山親方の通夜や葬儀・告別式を通じて、その息子である花田勝(元横綱・三代目若乃花)、光司(元横綱・貴乃花、現在の貴乃花親方)兄弟の確執が今以て修復不能な状態である事を改めて露呈した、とか言われているようで、ワイドショー的には話題に事欠かなかったようですけれど(^^;。

私個人的には、他人の家庭の問題には余り興味ないですが、ただ思うのは、
「貴ノ花自身は人気・実力を兼ね備えた名大関と言われ、
 かつ若くして(※20歳の時)美人女優と結婚し、
 現役引退後も、仲の良い2人の息子が共に横綱にまで登り詰める
 という史上初の快挙を成し遂げ、
 『角界随一、いや日本で一番の幸せな家庭』のように
 見えた花田家にも、内部には人に言えない苦悩や葛藤や確執が
 きっとあったんだねぇ」
という、ごく陳腐な感想だけですね(^^;。

若貴兄弟の確執が表面化し始めた頃(1990年代終わり頃?)から、ほぼ時を同じくして憲子夫人と別居→離婚へと。しかも離婚した憲子元夫人からは暴露本まで出されていますし。(※私はその本の内容を全然知らないのですが)
二子山親方としては、この数年間は心休まる日も無かったんじゃないですかね。勿論、家庭での出来事の結果責任は家長(←表現が古いけど(^^;)である二子山親方が負うしか無い訳ですから、厳しい言い方をすれば自業自得なのですが。

さて、そういった「花田家の光と陰」みたいな話はさておき、現役時代の貴ノ花にまつわる思い出を一つだけ挙げるとすれば。
そう、多くの相撲ファンが今でも覚えているであろう、あの一番。
1972年(昭和47年)初場所の、横綱・北の富士と、当時小結の貴ノ花との、大もめにもめたあの一番です。当時の私は、その春に中学校入学を控えた小学6年生でした。学校から帰って、たまたまテレビで相撲を見ていたら、あの一番を目撃したのでした(^^;。

あの取組を、今、思い出しながら簡単に説明すると。(※判定が割れた大相撲だったけど、勝負時間自体は大して長くなかったハズで、せいぜい十秒ちょっとだったと思う)

両者とも、まわしをがっちり取って、引きつけ合い、寄り合い。しかし、体格と地力に勝る北の富士が、土俵中央付近で、強引に体をあびせるように貴ノ花にのしかかる。普通の力士ならここで「あびせ倒し」で決着するんだが、『驚異の粘り腰』の貴ノ花は、腰を思い切り反らしながら、うっちゃり気味の投げを繰り出す。この投げを食らった北の富士は思わず咄嗟に、右手を土俵に突いてしまう
この突き手の瞬間をきちんと見ていた立行司・木村庄之助は、「北の富士に突き手あり」として軍配を貴ノ花に挙げた。その直後、勝負審判の誰かから物言いがついて、土俵上で協議に

普通、大相撲で物言いがついて協議に入ると、審判長が、ビデオで「勝負の決まる瞬間」を見ているモニター室からの無線報告を受けつつ、取り直しが妥当か、或いは軍配通りか、或いは差し違えか、をみんなで決める程度なので、そんなに時間は掛からないのが通例。
しかし、この時の協議は、異常に時間が掛かっていました。
その理由は簡単で、この時の物言いは、単純にタイミングの問題ではなく(※タイミングで言えば北の富士のほうが早く手を突いているのは明らか)、「つき手」か「かばい手」かの論争だったからです。

審判団は全員が、北の富士のつき手は「かばい手」だと主張していたそうです(←これは後日の新聞等で判明)。一方、立行司の木村庄之助は、北の富士のつき手は、土俵の土が眼前に迫って来る恐怖から咄嗟に出たもので、決して「かばい手」などではない、と強硬に主張したそうです。
この協議の中で、木村庄之助が、顔を真っ赤にしながら、身振り手振りで、審判達に激しく説明をしていた姿を、私は今でも鮮明に覚えています。
物言いがついての協議で、あれほど、口角泡を飛ばすほどの白熱した論戦を見たのは、後にも先にもあれきりです。

結局最後は、多数決(?)だったのか知りませんが、木村庄之助の主張は退けられ、「行司差し違え」で、北の富士の勝ち、という事で決着しました。
翌日、木村庄之助が相撲協会に辞表を提出した、という記事を見て、また驚きました。
「立行司が軍配差し違えをした以上、責任を取らせて頂きます」
という庄之助のコメントに、立行司という、行司の最高位にある者の責任の重さを思い知らされたものです。あんな、誰が見ても判断の難しい「つき手」か「かばい手」かの判定で、たまたま結果的に差し違えとされてしまっただけなのに、と。それでも、辞めて責任を取るんだなぁ、と。何て厳しい世界か、と。

更に言えば、三役格の行司が「脇差し」という短刀を腰に差しているのは、差し違えをした時に切腹する為である、なんていう由来も、まさにあの取組をきっかけに読んだ記事か何かで知ったものです。

ところで話が前後しますが、北の富士が「かばい手」で勝ったあの一番は、私としては本当は最初の軍配通り、北の富士の負け(=貴ノ花の勝ち)ではないかと思っています
これは、私が貴ノ花を好きだからとか、北の富士を嫌いだからとかいう理由では勿論なく(^^;(※私は貴ノ花も好きでしたが、北の富士も好きでした。両者とも、当時としてはスマートなイメージ(←体格・顔立ちから)でしたから)、相撲に於ける「死に体」の考え方からしたら、そうなんじゃないか、と思う訳です。

あの一番で、あびせ倒されそうになった貴ノ花が捨て身の「うっちゃり(気味の投げ)」を繰り出した時、貴ノ花の腰はまだ充分残っており、北の富士が突き手した瞬間には、まだいわゆる「死に体」の状態では無かったと思います。
貴ノ花のあの投げは、レスリングでいう「フロント・スープレックス」、「居反り投げ」に近い投げ方であり、決して「死に体」の人間が繰り出せるような代物ではないです。「捨て身」と「死に体」は全く別物です。

ただ、あの時の貴ノ花(そして木村庄之助にも)にとって不運だったのは、当時、あれほどまでに驚異的に、最後まで腰が落ちずに粘れる力士が居なかった為に、当時の相撲の常識としては、「腰が反ってしまっている」というだけで「死に体」と見なされても已むを得ない、という考え方だったって所ですね。
今の時代なら、あの北の富士−貴ノ花の一番は、「貴ノ花の勝ち」と裁定されるような気がします。
モンゴル相撲出身の朝青龍、朝赤龍や、アマレス出身の琴欧州、黒海、露鵬などが活躍する今の時代には、旧来の「伝統的な」相撲に無い動きをする力士がどんどん出てきていますからね。

世の中の常識が時代と共に変遷するのと同じように、一つの格闘技に於ける「ルール解釈の常識」もまた、時代と共に変わる、という事でしょうね。
貴ノ花が北の富士戦で見せたあの「居反り投げ」は、時代として20〜30年、早すぎたって事でしょう。

何れにしましても、かつての名大関・貴ノ花、二子山親方のご冥福をお祈りする次第です。
<(_ _)>
◎ 2005.07/23 -
前回の更新から一ヶ月半以上空いてしまいました。ごく個人的な事ですが、職場(部署)が異動になったりして、落ち着かなかったものですから。

それはそうと、もうかなり前になりますが。
7月7日(現地時間)に、英国の首都ロンドンで、同時多発テロが起きてしまいましたね。今回は朝の通勤・通学時間帯の地下鉄とバスが標的にされたようですが。そういう点では、昨年3月(でしたっけ)のスペインでの列車爆破テロと手口の類似点はありそうですね。
更にはその2週間後の7月21日(現地時間)にも、同じくロンドンでまた同時爆破テロが起きました。規模では7/7のそれを下回ったみたいですが、それにしても、英国民・ロンドン市民の不安はいかばかりか。

犯人(容疑者と言うべきか)グループは、アルカイダ系、またはアルカイダのシンパ(→まぁ要するに『イスラム原理主義過激派』の一括りで充分でしょ。あんな気狂い連中、細かく分類する値打ちなど無い\(^o^)/)である事は疑いが無いでしょう。

それにしても、このテロを受けての英国当局の反テロ法改正に向けた素早い動き(※与野党で早くも基本合意)や、内務省や警察が容疑者を次々と拘束している事実を見るにつけ、日本だったらこんなに素早い対応はできんだろうなぁ、と残念ながら思ってしまいますね。
イスラムのテロリストどもは、イラクに自衛隊を派遣している日本を標的の一つと明言しているし、日本にとってロンドンのテロは他人事じゃない訳で、この辺の危機管理体制、更に言えば社会的コンセンサスも含めて、社会システムを今よりも遙かに(物心両面で)しっかりしたものにしないと、いざ有事、となった時に、とてもまずい事態になりかねませんよね。

例えば、今回のロンドンのテロでは、(テロを未然に防げなかった事を当局が非難されるべきかどうかは別として)ロンドン市街の至る所に張り巡らされた監視カメラが、容疑者割り出しに大きく貢献していますよね。ロンドンに限らず、英国は、「監視カメラ社会」であるのですが。
このような監視カメラ社会である事に対して、英国民は、「犯罪防止や犯罪摘発に極めて有効である以上、個人のプライバシーよりも優先される」というコンセンサスを得ている訳ですよね。

ところが日本ではこうはいかないんですよね(^^;。
勿論地域にもよりますが、例えば、「せめて(犯罪の多い)繁華街には監視カメラを設置しましょう」というごく常識的な多数意見が、一部の「人権派」(爆笑)と称する連中の少数反対意見によって、封殺されてしまう事が珍しくない。
と言うのは、国会や県議会・市議会あたりで最後は多数決で決める決め事(つまりは法律や条令など)と違って、地域社会でいわば「規則」として設けようという決め事の場合、「全員一致が原則」という考え方が日本には古くからあるからなんですよね。
だから、少数反対意見であっても、「反対!」を唱える連中の声が(物理的に(^^;)大きければ、多数派の賛成意見が反対意見に押し切られて潰されてしまう、という結果にしばしばなる訳です。

勿論、「全員一致を以てよしとする」は本来的には理想ですし、古き良き時代の伝統ではあるのですが。
ただ、今の時代のように(思想も習慣も全く異なる)外国人居住者が増え、更には人権屋と言われる怪しい連中も跋扈する時代にあっては、議論を尽くすも尽くさないも、全員一致は事実上不可能ですよね。
となれば、ここはやはり民主主義の大原則である「多数決」を、『隣組』のような(地域社会の)会合の議決に於いても、採り入れる以外に無いでしょう。全員一致に拘ってると、いつまで経っても何一つまともに物事を決められませんよね。
勘違いしている人が多いのですが、民主主義の大原則はあくまで「多数決」です。『最大多数の最大幸福』こそが、民主主義の根本思想であるという事を、日本社会の中できちんと根付かせないと駄目ですね。

まぁしかしそれにしても。
私、こういう事件が起きるたびに繰り返し言っているのですが、結局、テロリストの屁理屈なんぞには、世界の大多数は同調してくれないんだよね。
理由は(これもいつも言っている事ですが)簡単で、テロリストの心理ってのは、結局の所、ヨソの家庭(※米欧に代表されるキリスト教文化圏)の幸福そうな姿(※米欧の繁栄)を許せないだけなんだよね。つまり、単純に妬み・羨み・嫉妬なのであって、それ以外の何でも無いんです。
イスラムの敵だからとか、アラーの敵だから、ってのは、(自分達がたまたまイスラム教文化圏に生まれ育ったから後付けで付けた)全くの手前勝手な屁理屈に過ぎんのですよ。

異教徒が我々を搾取し収奪している。だから殺して良い。殺して逆に全財産を奪ってしまえ。要するにそう主張している訳ですからね(^^;。
そんな主張のどこに説得力があるんでしょうか?ある訳が無い。
また、更に言えば、こんな馬鹿げた過激派思想を、きちんと論理的・倫理的に論破するだけのロジックを持たないアラブのイスラム教指導者達は、はっきり言って終わってると思いますね。
ましてや、過激派思想を説き伏せ、たしなめるどころか、逆に過激派を煽る指導者達も掃いて捨てるほど居る訳ですから。ほんとにもう、イスラム教は死につつありますね。
こんなぶざまな体たらくでは、イスラム教はこの先加速度的に衰退していくでしょうね。
(衰退、とは、地球上での人口比などの事ではなく(それも含みますが)、科学技術力・経済力・政治力・軍事力等、あらゆる意味での力に於いての衰退、という事です)
◎ 2005.07/24 -
これも既に旧聞に属する話題でアレですが。
7月11日に、『破壊王』橋本真也が急死しましたよね。享年40歳。死因は脳幹出血だそうですが、若すぎる突然の死に、正直ビックリです。

橋本真也と言えば、かつては武藤敬司、蝶野正洋とともに新日本プロレスで『闘魂三銃士』と言われた存在。ちなみに『闘魂三銃士』というネーミングはプロレス・マスコミが付けたものでしょうけど、アントニオ猪木がこの3人を、早くから見込んでいたのは紛れもない事実です。
さすがに『燃える闘魂』から『神』へとニックネームが進化した(?)猪木の見る目は確かだった訳で、その後のこの3人の実績はココで改めて書き連ねるまでも無い事です。

この3人の中でも、実は、猪木は橋本を最も見込んでいた、という噂もあります。
猪木と橋本は、その後、かなりの確執があったので、意外に思えるかも知れませんが、猪木は3人の中でも橋本の「格闘技指向」を、最も買っていた、と言われています。

『天才』武藤敬司、『業師』蝶野正洋と比べると、体型的に最も「ぷよん」とした体つきで、マッチョマンの多い新日本の中で、らしくない雰囲気の橋本ではありましたが、実は格闘技指向が(当時の)新日本の中ではかなり強いほうだったと言われています。実際、前田日明、高田伸彦、山崎一夫らが1988年に旗揚げした『新生UWF』から、橋本はかなり強く誘われたらしいし、本人も移籍かどうかでかなり悩んだようです。最終的に新日本に留まった訳ですが。

橋本と言えば、その性格同様に、小細工無しの真っ向勝負を好むタイプで、そういう点で私も橋本は好きなタイプのレスラーでしたね。
例えば、ビッグバン・ベイダーあたりの超大型レスラーと対戦する時、猪木や藤波なら攻めさせておいて一瞬の逆転技を狙う、という試合運びになる訳ですが、橋本はああいう巨漢との対戦でも、あくまで「攻め」の試合運びでしたから。ベイダーに対してもあくまで重爆キックの連打、袈裟切りチョップ、三角締めといった、けれん味の無い、気っぷの良い試合運びでしたね。橋本の重爆キック、袈裟切りチョップと、ベイダーのメガトンパンチ(←ベイダーはレスラーになる前はプロボクサーだった)、ビッグバン・クラッシュの激突は、まさにヘビー級プロレスの醍醐味でした。

また、橋本はその一本気な試合運びゆえに、一瞬のポカから逆転負けを食らってしまう事も時々ありましたね。
この類の試合で一番印象に残ってるのは、1993年の『G1クライマックス』での馳浩との対戦ですね。
ジュニアヘビー級の馳より体重で約40kg上回る橋本は、重爆キックやパワーボム、DDTで馳を半死半生の状態にまで追い込んだけど、「死んだふり」の馳は、橋本がフィニッシュのDDTを狙って馳の首に手を掛けた瞬間、逆転の裏投げ一発。後頭部からマットにメリこんだ橋本は、もがきながらも肩だけは上げられず、3カウント。馳の大逆転勝ちとなった一戦でした。
試合後に馳が「橋本に勝つにはコレしかないと思い描いた一発逆転パターンが、自分でもまさかと思うくらい、鮮やかに決まってしまった。こんな事もあるんだねぇ」と語っていたのがとても印象的です。

まぁ、思い出せば色んな試合が思い浮かびます。『柔道王』小川直也のプロデビュー戦の相手を務め(※試合形式は異種格闘技戦)、しかも送り襟締めでまさかの負けを喫したのも、橋本らしいと言えばらしい出来事です(^^;。
その後は小川とは因縁対決を何度か繰り返し、引退を賭けると公言した一戦で敗れて、一旦は引退したものの、一人の少年ファンの『復帰嘆願万(←千ではない)羽鶴』から復帰ロードが始まり、いくつかの経緯を経て、最終的に引退を撤回し復帰しました。(この時点ではまだ34歳位でしたからね、引退は確かにもったいなかった)
しかしその後、せっかく復帰したのに『神』猪木に逆らった為に新日本を解雇されたり、自らZERO-ONEを設立したり、宿敵・小川と組んで活躍したり。最近では『ハッスル軍』を結成し自らは『ハッスルキング』を名乗り、高田モンスター軍との抗争でエンターテイメント路線に注力したりしていました。
但し、ハッスル軍総大将の橋本自身は、リングには去年の夏頃以降、上がっておらず、今年の春に肩の手術(8時間以上掛かった大手術だったそうです)を終えて、復帰に向けてリハビリ中の、急死。さぞや、無念の思いをこの世に残したのではないでしょうか。

ちなみに話が多少逸れるのを承知で書いてしまいますが、私は、プロレスや格闘技ではガチガチのストロングスタイル支持者かというと、意外とそうでもなくて、アメリカのWWEや日本ならハッスル軍や高田モンスター軍に代表されるような、エンターテイメント路線も割と好きです。\(^o^)/
だって、プロスポーツってのは、どのジャンルであれ、結局、お金を払って見に来てくれる(※ペイパービューでも同じ)お客さんを喜ばせてナンボのもんでしょう。て事は、エンタメ路線もアリって事です。
おっと、これ以上はちと長くなるから、この場ではやめておきましょうか。

何れにしましても、橋本真也氏のご冥福をお祈りする次第です。
<(_ _)>

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