メディア規制法案の反対に反対


 今国会中の成立が期待或いは危惧されている、いわゆる『メディア規制3法案』と『有事関連3法案』。これらのうち、『メディア規制法案』に関して、僕の思う所を少し。(『有事関連法案』のほうは、また別の機会に書きたいと思っとります。)

 数日前、民法各局で活躍中の有名キャスター7名(田原総一郎、筑紫哲也、鳥越俊太郎、安藤優子など)が、記者会見を開いて「『メディア規制3法案』に反対する!」と訴えていたけど、僕は、結論から言えば、反対に反対です。(^^;)つまり、『メディア規制法案』に、本当なら賛成したくはないけど、賛成せざるを得ない、と。いうのが僕の考えです。その理由をちょこっとだけ、述べてみます。

 テレビ屋・雑誌屋といった(本来なら『ジャーナリスト』と呼ばれるべき)人達が、今のように、全く無制限に傍若無人に番組作りや雑誌作りを行っている以上、そして現状を自ら反省し襟を正そうとする姿勢も見られない以上、悲しい事だが権力によってある程度のチェックは入れざるを得ないんじゃないか、と。僕は、そう思ってしまいます。例えば、テレビならNHKだけが、比較的まともな番組を作っている(←民法に比べ視聴率の呪縛から或る程度フリーだというのも大きいでしょう)と思いますが、民法各局などは、酷いの一語です。オカルト番組やトンデモ番組が多いのはまだぎりぎり許せる(あんなのに騙されるのは馬鹿以外の何者でも無いわな(^^;))としても、事件報道のあり方などは、到底許せるレベルではないと思いますね。特に『ワイドショー』と総称される類のものが一番イカンと思いますが。『ワイドショー』報道で、犯人扱い・犯罪者扱いされた為に(その後無実と分かっても)被害を受けた人達が今までに一体どれだけ居た事か。一例を挙げれば1994年夏の『松本サリン事件』の容疑者とされた河野義行さん。河野さんが、当時製薬会社に勤めていた事や、サリンによる死者4人が出たアパートのすぐ隣に住んでいた事などから、警察が彼を重要参考人として扱い、それを受けてワイドショーは連日、面白おかしく河野さん(←一部メディアを除き実名ではなかったが)のプライベートまで暴きたてて、視聴率を競ってましたわな。結局、あの事件は、オウム真理教の仕業だった事が、後に判明したからまだ良かったものの、もしオウムが『地下鉄サリン事件』を起こさなかったら、河野さんはどうなっていたか。そして、それ以上に重要なのは、河野さんを犯人扱いした報道をしてしまった事に対して当時のマスメディアはどう言っていたか?「警察が河野さんを犯人であるかのような発表をしたから、我々もそれを信じて報道してしまった」と開き直ってましたからね。ここが重要です。確かに、警察の捜査方法や軽率な発表も非常に問題だったけど、警察はあくまで『重要参考人』と発表していたはずで、『容疑者』に格上げ(?)した事は最後まで無かったと僕は記憶しています。つまり、容疑者扱い(≒犯人扱い)したのはあくまでマスメディアのフライング、暴走だったという事。そして、その事に対して当時報道に関わったメディア側のうち、多くは「反省(猛省)する」「お詫びする」とは言った(或いは書いた)ものの、「謝罪する」とは明言していない社が大多数だった事。

 同じような、被害者なのにマスメディアによって非常に名誉を傷つけられた例としては、1999年10月に起きた『桶川駅前ストーカー殺人事件』も然り。刺殺された猪野詩織さんは、一時期メディアによって「風俗店でアルバイトしていたらしい」とか、滅茶苦茶な書かれ方をしていたのは記憶に新しい所です。結局は、偏執狂的な(と言うより気狂いやね)ストーカー男に逆恨みされた挙げ句刺し殺されてしまった、何の落ち度も無い被害者であった事が分かったのに、猪野さんやその遺族に対して明確に「謝罪」記事を掲げたり「謝罪」会見を開いたりした社が一体どれだけあったか?僕の記憶では皆無では無いにしても数えるほどしか無かったはずです。(この事件では埼玉県警上尾署の調書改竄の事実までもがおまけで(?)発覚してえらい騒ぎになりましたが。それを言うと、新潟の『少女9年間監禁事件』でも、事件が解決した当日に県警幹部が監察官と雪見マージャンをしていた事がバレて、騒ぎになりましたね。(^^;))

 これらの事を考えると、場合によってはメディアに対して何らかの規制をかけざるを得ないのではないか、という意見が出てくるのも已むを得ない事だと考えます。先日「メディア規制法案反対」の会見を開いた7人のキャスターの方々は、「メディア側の自主規制案」みたいなものを代案として提示してました(注1)。彼らのレベルでは一応、今のメディアには確かに問題もある、だから権力から規制される前に自分たちの自浄作用のある所を示して、何とかメディアが権力から規制されるのを避けたい、という姿勢がありました。その分、彼らはまだぎりぎり『ジャーナリスト』と呼べるかも知れません。

 でも、残念ながら大多数のマスメディア(テレビ屋・雑誌屋)は、ジャーナリズムとはほど遠い所にあると、僕は認識しています。ジャーナリズムには、報道の公平さを保つ為と真実を報道してもらう為に、最大限の自由が無ければならないとは思いますが、それとて「責任の無い自由は無い!」ですよ。「国民の知る権利」を大義名分に、無節操な報道を繰り返し、その上取材方法も暴力行為まがいのやり方が横行し、挙げ句報道した事による影響の大きさには何の責任も持とうとしない今のメディアでは、規制されても仕方無い。残念だが僕はそう思います。

 結局、誰から言われるまでもなく自分の事をきちんとやってる人は、決して他人からガミガミ言われる事は無い。きちんとしてない人が、他人からガミガミ言われる。そういう当り前の事です。メディア側(の報道姿勢)が、今までも外からさんざん言われてきたのに、今以て姿勢を正すつもりがないと判断されたからこそ、とうとう「仕方無い、規制をかけましょうか」という話に(権力側で)なってしまったんであって、こうなってから慌てて「メディア側の自主規制・自粛のガイドライン」なんてものをぶち上げても、遅きに失したと言わざるを得ないですね。文字通り、自業自得です。

 ただ、付け加えておくなら、僕が『メディア規制法案』に条件付きで賛成なのは、あくまで上記で述べた通り「メディアによる人権侵害が甚だしい現状では已むなし」が理由であって、権力側による、下手をすれば恣意的に利用されかねない、「恣意的なメディア規制」ならば僕は勿論反対です。今まではマスメディアが悪すぎた(し、いくら言ってもききわけが無かった)から、最後の手段、お上によるお仕置きとしてメディア規制法案なんてのが出てきた訳で、それは仕方無いと思いますが、この法案には「随時見直し」の条項を入れてほしいと僕は思います。例えば2年ごとに、メディア側の姿勢を評価し直して、改善されたとなれば、規制法案そのものを廃止する、とか。そういうのは必要だと思います。

PS.さらに付け加えます。今までマスメディアが暴走しすぎていたから、規制論が出てきたんだ、というのはその通りなんですが、じゃぁメディアをそこまで暴走させたのは何か、と言えばテレビなら視聴率、雑誌なら購買数なんですね。間違いなく。つまり、余りにも下らない、有る事無い事書き立てるプライバシー暴きの報道が、視聴率・購買数という形で国民に受け入れられてきた(とメディア側は考えた)からこそ、メディアは自ら歯止めをかける事も無く暴走してきた訳です。つまり、今や「第四の権力」となったマスメディアをここまで増長させてしまった責任は、下らない報道を喜んで(?)見ていた国民にある、と言わざるを得ない訳です。これは、今後の政治家・今後の政策を選ぶべき選挙に於いて、1票を投じるのと同じ責任です。「今の政治家は金まみれで汚い奴ばっかりだ」と言ってみても、そういう奴らを落選させずに選んでしまっているのは主権者である私たち国民であるという厳然たる事実は忘れるべきでないはずです。

(注1)代案云々とは違いますが、安藤優子が「情報公開が充分でない現状では内部告発によって不正が明るみに出る場合が多い。その内部告発の機会を法によって規制してしまう恐れのあるこの法案には反対である」と言ってましたね。僕もその点は同感です。『メディア規制法案』はあくまで「人権擁護」を唯一最大の目的とすべきであって、犯罪行為の内部告発まで規制してしまおうとする(可能性のある)条文が盛り込まれるなら、そういう条文は絶対削除させねばならないとは思います。