アントニオ猪木名勝負選 - その2 -


 いやぁ〜、前回からまた随分と間隔が開いてしまいました。前回が5/10だから、約4週間開いた訳か。こういうシリーズものは、早いペースでやらないと、いつのまにか本人も、シリーズものだということを忘れてしまいますからねぇ(苦笑)。何せ、仕事がメチャ忙しかった(←過去形にしたけど、まだ続いてるんだよなぁ)上に、プライベートでもやること多すぎ状態だし...って感じで、全然時間が取れませんね、ほんと。

 まあ、いつもの如き言い訳はともかくとして、では早速「思い出の猪木名勝負選/プロレスリング編・第二回」をお届けします。それでは、どうぞ。
第10位:藤波辰巳戦(1988年8月8日、横浜文化体育館/IWGPヘビー級選手権試合・60分1本勝負)
  ◎ 藤波(時間切れ引き分け)猪木
 『炎の飛龍』藤波辰巳が、ニューヨークはWWWF(当時。今のWWF)のジュニア・ヘビー級チャンピオンの座に就き、颯爽と凱旋帰国したのが1978年の初め。その年のMSGシリーズで猪木と藤波が初対決して以来、この両者も何度も対戦を重ねてきてましたが、この試合の前までの戦績は、全て猪木の勝ち。引き分けすら、なかったと記憶してます。(そもそも藤波は、引き分け狙いのセコい戦法(両者リングアウトとか)をとるようなレスラーでもなかった。)初対決以来、だんだん地力の差はなくなりつつあるような試合内容にはなるものの、最後は猪木の魔性の粘り(?)にやられる、って感じで、どうもあと一歩、半歩で藤波は師匠には勝てずにおりました。

 ただ、この試合の前の3〜4年間は、猪木−藤波戦というのは行われてなかったはずで、この間に藤波はすっかりヘビー級として通用する力量になっていたし、立場的にも、いつのまにか、チャンピオンの藤波に猪木が挑戦するという形に変わっていた。(猪木が足首の骨折で返上したIWGPのタイトルを、藤波とビッグバン・ベイダーが争い、藤波が新チャンピオンになっていた。)だから、この試合の時点では、もう藤波が猪木に勝っても何ら不思議でなかったし、逆に言えば、あのベイダーをも正攻法で破った藤波が、(ケガから執念で復活してきた)猪木を迎えて、どんな試合を見せてくれるか、どう料理してみせるか、が興味のポイントでしたね。ちなみに、この時、猪木45歳、藤波34歳でした。私の予想では、4−6で猪木不利。猪木には、「負けたら引退」のムードも漂い、試合前から緊張感がありました。

 で、試合のほうは、(猪木は大試合ではしばしばやるんだが)開始早々に猪木の奇襲攻撃(あびせ蹴り→スリーパー・ホールド)で、藤波がいきなり失神(注*1)。しかし、リング下に転落した藤波がセコンドのビンタで目を覚ましたあとは、実にプロレスリングらしい、オーソドックスかつ激しい展開。藤波は猪木の必殺・延髄斬りを腕でブロックして、何とジャイアント・スイングで猪木を振り回す張り切りよう。このあたりは、藤波の「もう、パワーではアンタに負けないよ」という自己主張が伝わってきましたね。グランドではバックを取り合い、腕・足を取り合うものの、両者とも身体が柔らかい上にスピードもあるので極まらず、ならばと藤波は(実は奥の手?)足4の字固めで、しつこく足殺しを狙う。猪木も、挑戦者らしく、積極的に攻めにでて、バックドロップ、(久しぶりに見せる)ジャーマン・スープレックス、それにブレーン・バスターも卍固めも、惜しみなく繰り出し、(ジャイアント・スイングで振り回されたお返しに?)アルゼンチン・バックブリーカーという力技まで繰り出して藤波を追い込んだけれど、藤波はこれらを全て受けきって、王者の貫 禄を見せた。最後は、猪木の卍固め→藤波のコブラ・ツイスト→猪木のグランド・コブラとなったところで、時間切れのゴング。

 結果的には、「藤波が猪木に引導を渡す」ところまではいかなかったけれど、両者とも技と力を出し尽くした感じの、大熱闘だった。この試合で、猪木の全ての技を受けきった藤波もチャンピオンとしての株を上げたし、猪木も引退ムードを完全に払拭できて、ほっとしたのではないか。この試合で、猪木のレスラー生命は5年延びたと、私は思ってます。(結果的に、引退試合を行ったのはこれの約10年後ですが。)

(注*1)この後の、1992年の馳浩戦でも、1994年の天龍源一郎戦でも、猪木はこの開始早々に「(チョーク・)スリーパーで相手を失神させる」戦法を使っているんですが、いつも私が思うのは、チョークかどうかの判断が極めて難しいってことですね。プロレスリング・ルールでなら、もしチョークなら反則なんだから、ソッコーで反則負けになっても文句は言えない訳でしょ。試合開始早々だろうが何だろうが。この辺、猪木に限らず、スリーパー・ホールド(裸締め)の名手、例えばバーン・ガニアとか、マーク・ルーインとかの試合でも、よく「チョークだ」「チョークじゃない」でもめてたのを、思い出します。(←古い話だねぇ〜(笑))
第9位:長州力戦(1984年8月2日、蔵前国技館/60分1本勝負)
  ◎ 猪木(寝技式アバラ折り、29分39秒)長州
 猪木−長州の試合も、猪木−藤波戦以上の回数、行われてきてましたが、この前年あたりからの長州は、それまでとは明らかに立場が違ってきてたので、この試合の勝敗は、本当、どう転ぶか分からなかった。この前年までの猪木−長州戦なら、「良い試合にはなるだろうが、最後は猪木の勝ち」というのが、見えてたから、さほど関心も持てなかったでしょうが、この時の長州は立場が違っていた。この約1年半前、メキシコ遠征から帰国した長州が、藤波に対して「俺はお前のかませ犬じゃない」という名台詞を吐き、藤波(及びその背後の新日本プロレスという会社)に反逆の狼煙を上げてからは、長州はいわゆる革命軍(維新軍)の首領におさまって、正規軍と互角の勝負を繰り広げてたので、この試合は、いわば正規軍の首領・猪木と維新軍の首領・『革命戦士』長州の一騎打ち、決着戦だった訳です。だから、猪木と長州はこの段階で互角の立場だからこそ、(それまでの社長対社員の対戦と違って)長州は本気で猪木の首を取りにいく感じがあったんですね。また、長州は、藤波や坂口征二と違って、本気で猪木を倒しにいける性格の人だったし。私の予想は五分。パワーと勢いの長州か、技とスタミナと戦 術の猪木か、全く勝負の行方は分かりませんでした。この時、猪木41歳、長州32歳でした。

 この試合、これまでの経緯からすると、荒れるかと思われたのとは裏腹に、実に正統的なレスリングの試合になり、私の危惧を吹き飛ばしてくれました(注*1)。長州も、パワーばかりがクローズアップされるけれど、元々はミュンヘン・オリンピック(1972年)のアマチュア・レスリングの日本代表ですからね。その気になれば、レスリングの技術でも猪木に引けを取らない訳です。

 試合のほうは、とにかく長州は徹底的にサソリ固めにこだわり、猪木に3度4度サソリ固めをかけて、苦しめ抜いた。試合時間のうち、半分以上が、サソリ固めで締め上げてる時間だったんじゃないか。しかし、猪木の身体の柔らかさと耐久力も、とても40歳を越えた人のものとも思われないぐらい凄かった。(耐久力は、日頃の練習の賜物でしょうけど、身体の柔らかさは、持って生まれた資質でしょうね。身体の柔軟さは、レスラーとしては最大の財産でしょう。)最後は、やや攻め疲れた長州がラリアットにいったところを、さっとかわしてコブラ・ツイストからそのまま引きずり倒してピンフォール。長州はピクリとも動けず3カウント。レスリングの元日本代表を、レスリングの寝技で、完璧なピンフォールで押さえてしまうんだから、猪木の底力は、凄いと改めて思いましたね。

 やや余談になりますが、蔵前国技館でプロレスリングの試合が行われたのは、この時が最後。両国国技館が、この時点でほぼ完成してましたから、この1ヶ月後の大相撲9月場所が終わった後、蔵前国技館は取り壊されました。その意味でも、蔵前で最後に行われたプロレスリングの試合が、場外乱闘の全くない、クリーンなレスリングの試合になってくれて、良かったです。

(注*1)私、プロレスリングに限らず、格闘技の凄みは、テクニックの凄さに尽きると思ってます。荒れた試合(例えば流血戦などが典型)というのは、一見派手で、(特に素人の)目を引くでしょうが、そういう試合が凄い試合とは思いません。尤も、本気で「喧嘩」を見せてくれるなら、荒れ試合でも勿論凄いと思いますが。でも、プロが、本気で「喧嘩」をやったら、レスリングだろうとボクシングだろうとK−1だろうと、死人・不具者が続出するでしょうね。
第8位:ブルーザー・ブロディ戦(1985年4月18日、両国国技館/60分1本勝負)
  ◎ 猪木(両者リングアウト、26分20秒)ブロディ
 この試合に至るまでは、色んな経緯がありました。前年、猪木との大将対決に破れた長州が、(革命の限界を感じたのか?)維新軍のメンバーを引き連れて新日本プロレスを離脱した為、一時あれほど豊富な人材を誇った新日本プロレスが、一気に人材不足に陥り、経営危機も囁かれるほどに落ち込んでしまった。元々、長州達の離脱の前に、前田日明、高田伸彦、藤原喜明らを、UWFへ流出させてしまっていた新日本プロレスは、本当にこの頃倒産の危機にあったと言われてます。その経営危機を救った(?)のが、このブルーザー・ブロディの移籍でした。(外国人レスラーに対して、移籍という表現は妥当ではないかも知れないが。)この、誰もが認める(一部では世界最強の声も)実力者・『超獣』ブロディと、猪木との初対決ということで、プロレスリングの試合としてはこけら落としの両国国技館は超満員。この約一ヶ月前の、後楽園ホールでの初遭遇で、ブロディが「猪木の目にバーニング・スピリットを感じた」という名台詞を吐いたのも、このレスラーのセンスの良さ・頭の良さを感じ、私も期待感を盛り上げていたのを、思い出しますね。ちなみにこの時、猪木42歳、ブロディ39歳です。(印象か らすると、もっと離れているかのように思いますが、3歳しか違わないんですよね。)私の予想は、4−6で猪木不利でした。(この当時が全盛期のブロディと下降線気味の猪木だから、こういう予想にならざるを得ない。)

 肝心の試合のほうはと言うと、試合前にブロディが控え室の猪木をチェーンで襲撃して、左腕にケガを負わせるという、何か、「期待ぶち壊し」の試合になりそうな、いやな感じだったんですが、猪木のそれこそ「バーニング・スピリット(燃える闘魂)」が、きちんとした試合にしてくれました。ブロディは、どういうつもりで試合前の猪木を襲撃したのか知らないが、この試合に限っては、猪木の気迫にやや押され気味だった。尤も、猪木も必死で攻め込んではいるものの、コブラ・ツイストも卍固めもあっさりはね返され、ブロディのナチュラル・パワーを見せつけられることにはなった。「勝つ為の」必殺技・延髄斬りすら、ブロディには(2〜3歩ふらつかせるものの)膝をつかせることもできず、本当に、ブロディは難攻不落の超獣だった。最後は、どちらから誘うともなく、場外戦になり、両者リングアウト。

 結果の両者リングアウトに関しては、「明らかに勝負を付けるのを嫌って」の両者リングアウトとは違って、この時は両者とも持ち味を存分に見せてくれたし、最後は両者とも疲れてた感じだったから、まあ仕方ないかな、ってとこですね。この後も、この年から翌年にかけて、猪木−ブロディは何試合か行われ、特にこの翌年(1986年)には、大阪城ホールで、60分時間切れの熱闘もあったりしましたが、私の印象ではやはりこの初対決が、一番見応えありました。

 そのブロディも、その後全日本プロレスに舞い戻り、(当時日本人最強の呼び声高かった)ジャンボ鶴田からタイトルを獲ったりしたあと、1988年夏に、プエルトリコで刺殺されてしまいました。本当に残念です。ただ、ごく最近(多分今年)、ブロディの未亡人と息子が、とあるプロレス雑誌に(インタビューを受けて)登場してましたが、ブロディの息子、凄く背が高くなってましたね(16歳ぐらいだが、既に190cm以上あるらしい)。顔も、父親に似てきて、精悍な顔つきです。10年前のブロディ追悼集会で日本にきた、あの小さな子が、こんなに大きくなって...って感じで、感無量です。いずれにせよ、ブロディ亡き後も、夫人・息子とも元気なのが分かって嬉しかったです。
 
第7位:スタン・ハンセン戦(1980年9月25日、広島県立体育館/NWF認定ヘビー級選手権試合・61分1本勝負)
  ◎ 猪木(逆さ押さえ込み、10分49秒)ハンセン
 猪木とハンセンの初対決は1977年でしたが、この時はまだハンセンはパワーだけの荒削りのファイターて感じで、洗練された猪木のテクニックとインサイドワークを切り崩せる雰囲気はなかった。ハンセンが(今の言葉で言えば)ブレイクしたのは、この前年の1979年で、この年の新日本プロレスのMSGシリーズで、ハンセンは何とアンドレ・ザ・ジャイアントを押さえて、外人側トップで優勝戦へ進出したのでした。優勝戦では、日本側トップで上がってきた猪木に敗れたものの、このシリーズのハンセンは、公式戦で坂口征二も上田馬之助も必殺のウェスタン・ラリアットでピンフォールするという大暴れで、一気に株を上げたのでした。そして年が明けて1980年2月、猪木のNWFタイトルに(何度目の挑戦かは忘れたが)挑戦した『不沈鑑』ハンセンは、場外戦からエプロンに上がってきた猪木に、対角線を走ってウェスタン・ラリアットをぶちかますという破天荒な戦法でとうとう猪木を破り、タイトル獲得。その後、4月に、NWFタイトルは奪回されたものの、この頃のハンセンは、既に猪木にとって、屈服させがたい天敵になっていた。実際、この年(1980年)も、この試合の前までに、猪木−ハンセン戦は、MSGシ リーズ優勝戦や、NWFタイトル戦として行われ、どれも猪木の辛勝という感じで、試合後はハンセンに余力があり、猪木は疲れ切っているってパターンだった。

 そんな中で行われたこの試合だから、ハンセンが再びNWFタイトルを奪取する可能性は、充分すぎるほどあった。(この時点で、猪木37歳、ハンセン30歳。)何せ、荒っぽさやパワーだけでなく、猪木からインサイドワークも盗んだハンセンは、本当に度し難い強敵に成長していた(注*1)。それに、ハンセンは、ブル・ファイターではあるけれども、ケレン味のない、気っぷの良い試合ぶりだったので、非常に人気は高かった。(私もハンセンは好きだった。)そういう流れ・雰囲気を当然猪木も察知していて、この試合には期するものがあったみたいです。

 試合自体は、意外にも、荒れ試合にならず、オーソドックスな流れで進み、猪木のチョップや、ハンセンのエルボーバットが炸裂したのが、若干派手な程度の、本当に不気味に静かな展開。その流れが一気にヒートアップしたのは、ハンセンが、エルボーバットとみせかけて、ラリアットをぶち込んでから。ダウンした猪木を引きずり起こして、フィニッシュのラリアットを狙ったところへ、何と、猪木のほうが一瞬早くステップ・インして、逆にラリアットをぶち込んで、ハンセンをダウンさせた。肉体的なダメージよりも、(多分)一瞬訳が分からなくなった状態のハンセンを、一気に逆さ押さえ込みで、3カウントのピンフォール。(ハンセンは、ピクリとも動けなかった。)この頃の猪木−ハンセン戦では、久しぶりに綺麗な形で、フォール決着が着いた試合だった。

 1979年〜1981年にかけて、猪木−ハンセン戦は、新日本プロレスのドル箱カードだったから、多分この3年間で、30試合以上行われたんじゃないかと思いますが、あまたあるそれらの中で、この試合が、猪木−ハンセンのベスト・バウトだと私は思います。そして、この試合の持つ、もう一つの意外な意義は、この試合以降、「一流レスラーでも、他人のオリジナル技を、平気で使うようになった」ということでしょうか。ウェスタン・ラリアットと言えば、勿論スタン・ハンセンの専売特許だった訳ですが、その技を、超一流の猪木が、「勝つ為に」使ったということは、猪木もそれだけ必死だったんでしょうね。これ以降、例えば、藤波が長州の得意技サソリ固めを、長州に仕掛けたり、と、「掟破り」が横行する(笑)ようになった訳で、今では当たり前のことでも、この当時は凄く新鮮でしたね。

(注*1)ブロディにしてもそうだが、ハンセンもまた、インサイドワークを身につけて(早い話が、頭を使うようになって)から、一流レスラーにのし上がってきたと言えるでしょうね。まあ、これはどんなスポーツでも言えることだけれど。