アントニオ猪木名勝負選 - その1 -


 いやぁ〜、本当に長いこと、お待たせしました。(って、誰が待ってたんでしょうか(笑))やっと、本当にやっと、スポーツColumnを更新する機会を得ることができました。前々から予告していた通り、「アントニオ猪木引退記念スペシャル/思い出の猪木名勝負選」をお届けします。尚、言うまでもないことですが、名勝負かどうかの基準は、全て私の独断です(苦笑)。要するに、私の心の中に印象として強く残っている試合ほど、より上位にランクされるという、とても分かりやすい考え方です(笑)。

 さて、実は、私にとっての猪木名勝負選、沢山ありすぎて、今回だけでは到底書ききれませんので、便宜上、「プロレスリング編」と「異種格闘技編」とに分け、さらに、「プロレスリング編」は、印象深い試合の数も多いので、3回に分けて掲載しようかと考えます。今回は「プロレスリング編」の第一回とあいなる訳です。それでは、どうぞ。
第15位:天龍源一郎戦(1994年1月4日、東京ドーム/時間無制限1本勝負)
  ◎ 天龍(エビ固め、15分56秒)猪木
 第15位から始まった訳ですが、この試合は、私の選ぶ「猪木名勝負(プロレスリング編)15番」の中で、唯一の1990年代の試合になります。(結果的に。)この時点で43歳で、まさに脂の乗り盛りの『風雲昇り龍』天龍と、既に50歳で、いつ正式に引退するのか(或いはなんとなくいつの間にか引退してしまうのか)だけが興味の的だった猪木とでは、普通に考えれば勝負の行方は明らか...なはずなんですが、猪木という人は、いわゆる「一発必倒」の技を持っていて、特に体力的にキツくなってからの晩年は、「一発必倒の逆転技」を好んで使っていました。具体的には、三十代後半くらいから延髄切りを多用するようになり、四十代半ばくらいからはさらにチョーク・スリーパーも使いだした(注*1)ので、「いかに天龍といえども、一瞬でも気を抜いたら、やられるかも」という感じはありましたね。事実、これより丁度2年前(1992年)の1月4日の東京ドームでも、猪木は馳浩と対戦してますが、戦前の予想を裏切って、猪木が勝利を収めてますから(チョーク・スリーパーで失神させてペースを崩し、最後は延髄切り→卍固めでフィニッシュ)ね。猪木という人は、そういう、魔性の 力のある人ですから、素直に予想すれば「3−7で猪木不利」となるものの、実際には「何かが起こる?」という興味は必ず抱かせてくれる人ですよね。そういう意味でも、プロ中のプロと言えるでしょうね。

 で、前振りが長くなりましたが、流石に、相手がこの時点で「実力日本一」の呼び声高かった(注*2)天龍では、猪木の魔性戦術も、最後は体力差でねじ伏せられたって感じでした。試合開始早々に、チョーク・スリーパーで天龍を失神させたまでは良かったんだが、チョーク自体がプロレスリング・ルールでは(微妙な部分もあるが)反則なので、天龍が覚醒するのを待って、試合再開とされてしまったので、まあハッキリ言って、この時点で勝負ありだった。あとは、パワーやスタミナの勝負となってしまう(流石に天龍がチョーク・スリーパーを2度も食うことはない)ので、そういう「まともな展開」では50歳の猪木に勝ちはなかった。最後は、天龍のパワー・ボムを食らって、そのままエビ固めで押さえ込まれての負け。

 でも、猪木の負け試合ですが、反則がらみの曖昧な決着になるのを最も恐れていた私としては、3カウントのフォールで決着が着いて、安心しました。この試合が、猪木がコンディション的に「プロのレスラー」としてリングに上がれた、最後の試合だと私は思ってます。

(注*1)チョーク・スリーパーという技そのものは、大昔から、道場では使っていたはずだが、「お金を取って客に見せる」試合で使うようになったのが(目立つようになったのが)、この頃からという事。
(注*2)UWF系のファンの中には、「この当時なら前田や高田のほうが強かったはず」とリキむ人もいるかも知れない(苦笑)が、私に言わせれば、UWF系の試合は、プロフェッショナル・レスリングではない。従って、彼らの強い・弱いは除外して、天龍を「実力日本一」とここでは言っている。
第14位:マサ斎藤戦(1987年10月4日、巌流島/時間無制限1本勝負)
  ◎ 猪木(TKO、2時間5分14秒)斎藤
 この頃、猪木は藤波辰巳や長州力たちと世代闘争を繰り広げていた...はずなんですが、そんな中で突如実現した、同世代同士のこの試合(この時点で猪木44歳、『仕事師』マサ斎藤45歳)。試合場が、宮本武蔵と佐々木小次郎の一騎打ちで有名な巌流島(正式には山口県下関市大字彦島字船島というらしい)になったのも、話題づくりの上手い猪木ならではのものとは言えましたね。

 で、話題だけかと思いきや、さにあらずで、試合内容自体も、この頃既にあまり見られなくなっていた、グラウンド・レスリング主体のオーソドックスなスタイルで、(意外にも)進行するんですね、これが。多分、猪木の意図としては、世代交代を迫る藤波や長州に、「お前らにこういう試合が出来るか?」ということを言いたかったのではないか。同年代のマサ斎藤もそのへんを敏感に察知して、猪木の意図通りに(?)正統的なレスリングの試合で応戦したんでしょう。最後のほうは、流石に両者ともかなり疲れて、殴り合い・蹴り合いの原始的な戦いに変わり、両者大流血の果てに、猪木が渾身のスリーパー・ホールドで斎藤を締め落としてのTKO勝ち。

 44歳と45歳の戦いなので、「若さ溢れるイキの良い対決」と言う訳にはいかないけれども、熟年レスラーがレスリングをじっくり見せてくれた、良い試合でした。
第13位:ハルク・ホーガン戦(1983年6月2日、蔵前国技館/IWGP優勝戦・60分1本勝負)
  ◎ ホーガン(KO、21分27秒)猪木
 この試合は、特にプロレス・ファンでない人でも、覚えている人は多いのではないでしょうか。そう、猪木が『超人』ホーガンのアックス・ボンバーを(ロープ際で)食らって、場外転落→失神KO負け(→即病院直行)という、予想もしなかった衝撃的な結果になった、あの試合です。猪木にとって長年の夢だった「プロレスリングの世界タイトルの統一」という一大野望である、IWGPの、それも優勝戦という晴れ舞台で、まさかの失神KO負け。IWGPの話題を盛り上げる為に、全日本プロレスからアブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー戸口、ディック・マードックまで引き抜いて(注*1)、新日本プロレスという会社の命運を賭けたイベントの、最後の最後での衝撃的なKO負けだけに、新日本プロレスの受けた打撃は相当なものだったのではないでしょうか。

 で、そういう背景はともかく、試合内容はというと、これが、実はハッキリ印象に残っているシーンが、あまりないんですよね。(最後の結末は勿論別として。)結末の衝撃に、プロセスを全部忘れてしまったのかと言えば、多分そうではなく、私の中で、「優勝戦に残った相手が、もしアンドレだったら、キツい試合になっただろうが、ホーガン如きでくの坊が(ラッキーにも)優勝戦に勝ち上がってきたから、猪木は確実に勝てる」と思っていた為に、あまり集中して試合を見てなかったのが、最大の原因でしょうね(苦笑)。少なくとも、あの当時のホーガンなんて、目の肥えたファンには、「デカさとパワーだけのでく」と映っていたからね。猪木の負ける相手とは、到底思ってなかった。(ちなみに、この時点で、猪木40歳、ホーガン28歳でした。)

 あの試合(の結末)は、ハッキリ言えばアクシデントです。ただ、いくらアクシデントとは言え、「あの猪木が病院送りにされた」という事実は動かしがたい事実であって、このときをきっかけに、「猪木限界説」が急激に浮上してきたのだから、プロの格闘家とは本当に辛い商売です。たった一つの敗北が、「強い」イメージを地に落とすんですからね...そして逆に、この試合で妙な自信をつけてしまったハルク・ホーガンのほうは、米国に帰ってから、じきにスーパースターに登り詰めてしまうんですから、勝者と敗者の明暗くっきりです。

(注*1)その代わり、タイガー・ジェット・シン、それにスタン・ハンセンを、報復措置として引き抜かれたが。
第12位:ルー・テーズ戦(1975年10月9日、蔵前国技館/NWF認定世界ヘビー級選手権試合・60分1本勝負)
  ◎ 猪木(岩石落とし固め、17分40秒)テーズ
 この時点で、猪木のほうは32歳で、タイガー・ジェット・シンからもタイトルを奪回して絶好調、一方の『鉄人』テーズは何と59歳(ルー・テーズは1916年生まれ)。いくらかつて「20世紀最強のレスラー」と言われた人でも、59歳ともなれば全盛期をとっくに10年以上過ぎてしまってるはずだし、試合の風格とか気品には期待できるとしても、勝負の行方はあまりにハッキリしているので、勝敗自体には興味がない...と最初は思っていました。『栄光の鉄人』ルー・テーズが今でもどの程度の強さを維持しているのか?だけが、私の興味の焦点でした。

 が、いざ試合が始まってみると、私のそういう考えはなくなってしまった。テーズさん、思いっきり「勝ち」を狙ってきてるんだもん。試合開始早々に放ったバックドロップは、とても「様子見」なんてレベルじゃなく、本当にダメージを与えるのを狙ってた。事実、「まさか試合開始早々にいきなり必殺技を出してこまい...」と思ってた(と思う)猪木は、虚をつかれて、この一発でかなりのダメージを受けていた。これが効いて、最後まで、猪木は自分のペースを掴めないまま、ズルズルとテーズのペースで試合を運ばれてしまったんだから、テーズのインサイドワークは絶妙だったね。カナディアン・バックブリーカーまで繰り出したテーズを見たのは、このときが初めて(勿論その後もない)。テーズにしてみれば、同じ「本格派ストロング・スタイル」の猪木を相手に試合できて、嬉しささえ感じていたんじゃないだろうか。最後は、ペースを掴めなかった猪木が、それでも意地の「掟破り」バックドロップから、ブロック・バスター・ホールドで押さえ込んで、何とかタイトルを防衛した、という試合。

 「力道山も尊敬していたレスラー」「20世紀最強のレスラー」という名前だけでの、猪木のタイトルへの挑戦かとも思っていた私は、恥ずかしかった。年を取っても、スタミナ以外は衰えてなかったです。やっぱり、ルー・テーズは素晴らしかった。
第11位:カール・ゴッチ戦(1972年3月6日、大田区体育館/時間無制限1本勝負)
  ◎ ゴッチ(体固め、15分40秒)猪木
 この試合は、知る人ぞ知る、新日本プロレスの旗揚げ試合です。晴れの旗揚げ試合の会場が大田区体育館となってるのも、テレビ放映のつかないまま、見切り発車せざるを得なかった、猪木(及び新日本プロレス)の苦しい立場を物語ってます。猪木は前年の暮れに、日本プロレスを追放(社内クーデタの首謀者ということだったらしい)されていて、でも引退する気は全くないので、自ら興した会社が「新日本プロレスリング(株)」だった訳ですね。そして、その自分の会社の旗揚げ興業のメイン・エベントが、この試合だったということです。カール・ゴッチと猪木は、公式試合としては初対決だけれど、この数年前から、ゴッチは日本プロレスの若手のコーチを務めていて、そのゴッチ教室の最も熱心な生徒の一人が、他ならぬ猪木だったので、道場ではいやというほど手合わせをしていた仲であり、手の内はお互い知り尽くしていたと言えます。ちなみに、この時点で猪木29歳、ゴッチ48歳(のはず)です。

 私、この当時、丁度小学生から中学生になる頃ですが、「アントニオ猪木が新会社を設立し、試合をする」「旗揚げ試合の対戦相手は『神様』カール・ゴッチ」などとスポーツ紙などで見たりするごとに、「ああ、猪木が復帰するんだ」と嬉しく思ったのを、今でも良く覚えてます。ただ、予想としては、「ゴッチって人は、相当強いらしいが、可愛がってた弟子の旗揚げに、応援として駆けつけるんだから、花を持たせてくれるんじゃないか」と、(子供らしくもなく)思いました。この頃は、私もゴッチというレスラーを、よく分かってなかったと言えます(苦笑)。何しろテレビ放映されなかった試合なので、スポーツ紙で結果を見ただけ(十数年後に、ビデオでこの伝説の試合をやっと見られたが)だったけど、猪木が負けたという事実だけで、何となくこの団体の方向性が、子供ながら納得できたものでした。つまり、「師匠も弟子もない。その時点で強い者が勝つ」という(本来当り前だが、ことプロレスの世界では当り前とも言えなかった)方向性が。

 で、ビデオで見た試合内容は、オーソドックスな首や腕や足の取り合いでせめぎ合い、グラウンドでもスタンドでも両者休むことなく動き続け、最後は猪木の仕掛けた卍固めを、すっと外したゴッチが、強烈なリバース・スープレックスで叩きつけて、そのまま押しつぶしてのピンフォール。花を持たせようなどという気の全くない、厳しい攻めだったし、終わってみれば15分があっという間だった。やはり、間違いなく名勝負です。この二人の試合は、この初対決も含めて、1972年〜1974年に全部で5試合行われ、猪木の2勝3敗と、流石に師匠の壁はかなり厚かったと言えます。この二人が戦えば、全部名勝負ですが、やはり個人的に思い出深い(当時、この試合を見たくてたまらなかった)この一戦を対カール・ゴッチ戦の代表として選んでおきます。