< ねえ、ちょっと聞いて >
■ 少数派 ■ 「小さいけど力ある存在」と骨折の治り方
■ 余談ですが、実はこの頃が危ない
■ 喘息自体を個人の中の少数派とみなして‥‥
【10-1】ねえ、ちょっと聞いて
■ 少数派
あなたは多数、少数意見の両方ががあるとき、少数意見も聞く方ですか?
私は大学生の頃まで自分のことを保守的な人間だと思っていました。
実際そういう行動をとっていたと思います。
そういえばあの頃学生運動が盛り上がってきていました。
学生運動活動している人たちの思想は私にはよくは分かりませんでした。
ただ、主張をハッキリ表に出していくあり方には少なからず力を感じました。
よくもまあ、あれほどはっきりとした態度がとれるものだと。
最初は少数派的な活動だった学生運動が大きな社会的事件にまでなっていったときに私には次のような思いがありました。
一体このように大きく意見の食い違いがあるとき、それを取り扱う良い受け皿、方法はないものかと。
このメルマガで紹介しているメンタルなワークは「少数派」とか「一部分」は重要なキーワードとなります。
これは喘息、気管支炎に限らず全ての症状についてのことです。
そして、
【 全体にとってその一部分(少数側)をどのように価値化したらよいかに焦点があります。 】
ここでは詳しく述べませんが、過食癖とチョコレート依存があった人が一度ワークを行ないましたら、チョコレートを全然食べたくなくなるのと同時に2キロ痩せてしまいました。
これも実はチョコレートを食べる行為の中に潜伏していたあるエネルギーを価値化した結果でした。
気がつかずに味わっていた何らかを心理的に味わい直し、持ち主に還元したのですから、部分から全体(中心)への価値化です。
■ 「小さいけど力ある存在」と骨折の治り方
このメルマガの創刊号に、私が今年(2004年)の正月開けに左手首を骨折した話を載せたのを覚えていらっしゃるでしょうか。
あの骨折と、私は以下のような付き合い方をしました。
最初は痛くて、手首が「ぎゃーっ」と叫んでる感じで、気持ちをよそへ向けようとしても、よほど面白い映画やTV番組でないとそれは無理でした。
仕方なく腹に力を入れながら痛みに耐えていました。
私の心とからだ全体からしたら、ケガとその影響を受けているのは肘から先です。
そう、全体に対して一部分であり、言い換えればやっかいな少数派です。
ソイツにもう注目を集めるしかなかったとしかいいようがありません。
そのうち、整体の仕事をしているのに手首を壊すなんて不用意にも程がある。
手首にすまない、どうしてこんなことに、といった気持ちが交錯してきて、わけもなく泣けてきました。
それは痛いから辛くて泣けるというのとは違っていました。
単純な悲しさでもありませんでした。死ぬほどの痛みではありませんが、もういろんな感情が交錯していて、自分に対しての愛情もありました。
と、不思議なことにスッと痛みが引いていったのです。これには驚きました。
「癒す」という言葉がありますが実感としては「 癒(ゆ)る 」だったと思います。
そのままストーンと眠りに落ちました。
眼が覚めたら痛みはもう小さくなっていて痛みとしての存在感はありませんでした。
あの痛みを、自分を虐めるような感覚で強情我慢していたら結果は違ったように思います。
次に感じたのは、痛みはないけど肘から先の不自由さです。
トイレに入る、駅で切符を買うなど何せ不便で、つい「コイツさえなければ‥‥」と思ってしまう。(笑)
ところが、細かく観察していると心のどこかでニコッと笑っている自分があることに気づきました。
で、更にそっちの方に意識を向けると本当に顔までニコニコしてしまうからオカシイ。
誰かに施術をしてもらったわけではありませんでしたが、以前と立場が違って自分がある意味で患者の側に回っている気がして、それが可笑しかったのです。
癌を治す方法として京都のある医学的研究所では落語を聞かせているそうで、それをするとリンパ球が癌を食べに行き、癌抑制効果が実際にあるとのこと。
このことは、ニコニコ笑っていた自分からはそれなりに分かる気がします。
確かに笑っている方が気持ちに余裕ができるし、骨折にも良いように感じるのです。
意識的に笑ったことよりも、小さな存在だけど心の奥のどこかで笑っていたのを見つけたのは幸せなことでした。
もちろん注意して自分を観察していないときっと見逃したと思います。
実際、最初のうちはこのことに気づいていなくて難しい顔をしていました。
この小さいけど力ある存在、この価値は見逃せない。これを再確認しました。
そこで、以下のように進めました。痛みが無くなってくると、ケガの部分ではなく肘周辺が返ってその範囲での小さな一部分に感じます。
余分に動きあるからだと思われます。
それで肘周辺に蒸しタオルを当てました。ケガ周辺にも当てるのですが、意外とそこは快感がなくて、肘の上下に当てた蒸しタオルの気持ちよさといったらありませんでした。
だから手首よりも手前の腕の裏表と肘をよく温めました。
ただ、手首の少し手前に温めても温めても赤い色が指してこない部分があり、そこは軽く指を当てて、手首が弛む角度を保持しておいて、じぃーっと気もちを集中すると、
手首が中からふうーっと弛んで温かくなるのです。ぽかぽかとなんとも心地良いのです。まるで手がシアワセーって言ってるみたいで、ニコニコでした。
可動不能となっている肘から先の中のまだ可動性のある部分に蒸しタオル、蒸しタオルをしても赤くならないしかも鈍ったところの中の敏感な小さな小さな一点、これらが価値をもってしまうシクミ、とにかくその現実がありました。
ケガをして約2週間くらいだったか、それまで固まっていた指が突然動き始めました。
その変化はデジタルな変化だった。這い這いしていた赤ちゃんが突然立ち上がる、あれと似ていました。
3週間目でしたか、今度は急に手首が動き始めました。カクッて。
4週目からは肘から先がまとまって動かせるようになりました。
もうその頃は、子ども達は私のことを怪我人と認めていなくて、何かの折に手首を意識しないで無理に手首をひねって「イテテテ」など言おうものなら、
「あー、そういえばお父さん手首を骨折してたんだよね。からっきし忘れてたよ」などいう。
失礼です。
■ 余談ですが、実はこの頃が危ない
本当に壊した周辺をサポートしていた筋肉が弛んできているこの時期、手首感覚を確かめるととても危うい感触があります。
ガードが解けてくるということは、他の動きには連動した動きが取れてくるのですが、細かい面での無理があることに対しては注意を向けにくく、うっかり能力を超えた動きをさせてしまいかねない。
それこそ、この時の患部は体全体からしたら超少数派になっているのです。
だから「 再び気を入れて注意しなければならない 」そう思いました。
このときは難しいです。過剰にこわごわとしていると、開いてきた能力を伸ばせなくなるし、うっかり無理をすると治りが悪くなるという微妙な葛藤状態ですから。
「 どんな症状でも治りかけは慎重であった方が良い 」と覚えておくと良いでしょう。
ここまで具体的に書くと、なんだか骨折の治し方を説明みたいですが、
しかし、それは私の目的ではありません。
自然現象の中にある生々しい原理を汲み取っていただきたいのです。
■ 喘息自体を個人の中の少数派とみなして‥‥
喘息の話にフォーカスします。
喘息という症状は、その人全てではありません。
その人、その子においては一部分です。
となると、骨折と同様に見立てるなら、少数派としてそれをサポートすることは無価値ではありません。
喘息の奥に「ねえ、ちょっと聞いて」の言葉があることは十分考えられます。
かまって欲しい、甘えたい、不満を言いたい、
ではなく、
臨床例がそうであったように、それはUFO(未確認飛行物体)みたいだけどちゃんと対話すると具体的な価値を提供してくれるのです。
あくまでもこれは私の解釈だけど、表出してくる価値が何であれ、それは自然治癒力、ホメオパシー、恒常性欲求、これらととつながっていると私は信じています。
学生運動のように社会的な勢力となるとそれと全体とを対話させるのはとても難しいです。
人の体に起きている部分と全体との扱いは、その人がその気になりさえすればまだ扱い易いです。
紹介した臨床のように症状の中にその人にとって既に価値があるなら、それもポジテルブシンキングの中に入れてもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
■ あとがき ■----------------------------------------------------
日曜日、三男の運動会が雨で流れて、月・火曜に分けてやったけど時期が変。
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