| ――旭川ゆかりの短歌人―― シリーズその5 | ||||
| 小熊 秀雄(おぐま ひでお) | ||||
![]() 旭川新聞社時代の小熊秀雄
![]() 旭川常磐公園に建つ詩碑
![]() 2007.5.12 第40回小熊秀雄賞贈呈式 斎藤紘二「直立歩行」
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小熊秀雄は明治34年に小樽で生まれた。稚内で小学校に入るが、秋田に転校、伯母のもとに預けられる。大正2年、樺太泊居に移住した父三木清次郎(秋田出身)のもとにもどり高等小学校を出るや、ほとんど独立に近い生活をおくる。ここでの時代を「農奴時代」と自ら名付けている。 3歳の時、養女にだされ身売りされたという姉を訪ねて旭川で16年ぶりの再会を果たす。20歳の徴兵検査で取り寄せた戸籍には母小熊マツ(新潟出身)の私生児として入籍されていないことを知り、怒り、以降小熊姓を名乗る。その後、姉ハツ(異父姉)の世話で見習記者として旭川新聞社に入る(21歳)。 大正11年から昭和3年までの7年間に2回上京するが、生活が成り立たず舞い戻り、そのたび姉の口利きで旭川新聞社に復職する。 ここおける彼のマルチな才能は記者としてまた詩や短歌をはじめ文芸、絵画、演劇、評論とその活動範囲は広く、痩身に長髪の印象で人々の目に映じた。 大正15年11月、旭川歌話会の結成に参加し幹事となる。この年、詩人詩『円筒帽』の創刊にも加わる。 昭和3年、3度目の上京で旭川を離れる。貧困生活のなか、昭和10年『小熊秀雄詩集』、『飛ぶ橇』と続けて発刊。13年に旭川に帰省、『旭川風物詩』などで2ヶ月ほどの間スケッチやデッサンを数多く残している。 東京で住まいしていた界隈を「池袋モンパルナス」と称して画家たちとの交流をもち、自ら個展も開いている。戦争の気運上昇時で発表の場を失い、大学新聞などに寄稿。旭太郎のペンネームで漫画台本『火星探検』なども著している。 昭和15年11月20日、結核で亡くる、39歳。 41年後、昭和56年有志により多摩霊園に墓碑が建立される。 一家の期待をかけた一子・焔君は終戦直後の昭和20年、19歳で病没。 小熊秀雄の没後27年、昭和42年に詩碑建立となり除幕式に未亡人つね子も迎えている。来旭した中野重治、壺井繁治らの賛同を得て小熊秀雄賞の創設となり、43年に第1回授賞式を行ない平成19年で40回を迎えた。 夫人は、昭和57年1月31日、79歳で亡くなり多摩霊園の秀雄墓碑に葬られる。 |
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| 旭川歌話会とのかかわり | ||||
| 旭川歌話会に父齋藤瀏と共に出席した史(18)が、幹事の小熊秀雄のことを描写して歌を作っている。(昭和2年1〜2月の作と思われる) 「長髪の小熊秀雄が加わりて歌評はずみきストーヴ燃えき」 |
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| 昭和2年3月、旭川歌話会顧問の齋藤瀏が熊本の第11旅団長として栄転することになり、3月19日の第5回旭川歌話会を送別歌会として齋藤親娘に歌を捧げた。 「 かりそめの別れと思へど向ひゐて寂しさつひにきわまりにけり 」 酒井 広治 「 歌によき霧華の街のうすぐもり春に先だちいゆく人かな 」 小熊 秀雄 「 こよひかぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどひなるかも 」 齋藤 瀏 「 深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別るる時となりにけるかも 」 齋藤 史 |
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