| ――旭川ゆかりの短歌人―― シリーズその4 | |||||||||
| 酒井 広治 (さかい ひろじ) | |||||||||
![]() ![]() 昭和29年10月歌集 「雪来る前」 |
明治27年4月27日〜昭和31年1月30日(1894〜1956)、福井県生まれ。 明治31年父と共に旭川に来住。大正元年(1912)、庁立上川中学を経て東京歯科医学専門学校卒。7年、日本橋で歯科医院を開業する。 (註・明治43年、中学時代に旭川初の歌誌『冷光』第3集に作品掲載) 「校庭のさびしく立ちし鉄棒に秋のゆふ日のうすくながるる」 北原白秋に師事して「地上巡礼」「アルス」「煙草の花」「朱樂(ザンボア)」の歌誌に参加する。 大正10年、父の意志により旭川に帰り、昭和12年旭川信用組合理事、26年初代旭川信用金庫理事長になる。帰旭してからは北原白秋、生田蝶介、若山牧水、小川千甕らの来旭をうながし短歌について懇談する。 大正15年、旭川歌話会を創設してリーダーとなり月例歌会を開く。同人として齋藤瀏、齋藤史、鬼川俊蔵、小熊秀雄、小林昴、山名薫人らがおり、旭川歌壇の基盤を作る。 昭和10年、「多麿」第一部会員、14年「香蘭」第一部会員。 24年、第一回旭川市文化賞受賞。 27年「多麿」解散における重要協議会の一人として招聘され協議。 翌28年、宮柊二の「コスモス」創刊より第一部会員として参加。 29年、第一歌集「雪来る前」を刊行。 31年、旭川で小林孝虎主宰の「北方短歌」創刊にあたり顧問として参加。性温厚にして歌壇の表面に立たず、歌誌を主宰することもなく歌人の育成につとめる。(1月30日、62歳で没) 33年、旭川市嵐山弓成山に 「わが観るや川筋ひかる野のかなた照りしづもりし遠の街屋根」の歌碑が建立された。 〔北海道文学事典・江口源四郎〕 |
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| 昭和33年6月15日建立 旭川市嵐山歌碑除幕式
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<旭川における詩歌の文芸誌> 明治43年11月3日、旭川で最初の歌誌『冷光』を創刊(5号までらしい)。その後小林昴、花輪による『呼吸』には七師団の露西亜語教師の米川正夫、中原悌二郎らも作品を寄せた。大正初期の文芸誌では『歌誌・樹海』『詩誌・毒木矢』『歌誌・高原』『歌誌・地の精』があった。(大正3〜9年) 大正15年11月3日、旭川歌話会創立の発起人会。※大正天皇15年12月25日崩御。昭和と改元、7日だけの昭和元年。明けて昭和2年3月19日、齋藤瀏、史送別歌会。「旭川歌話会第1歌集」を齋藤瀏出詠の「霧華」に因み記念号を『霧華』と命名して贈る事に決め、昭和3年12月1日第1巻第1号『霧華』が創刊される。会誌はそのまま『霧華』となり5号までつづく。 |
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