| ――旭川ゆかりの短歌人―― シリーズその2 | ||||
| 齋藤 瀏(りゅう) と 長女・史(ふみ) <2> | ||||
![]() 旭川第七師団参謀長から 熊本第11旅団長となる 齋藤 瀏(さいとう りゅう) 少女時代を旭川過ごし 三重の津から小倉へ そして再び旭川に 短歌を志した時代 齋藤 史(さいとう ふみ) 昭和15年(31歳) ![]() 第1歌集「魚歌」 第2歌集「暦年」 を出した頃 ![]() ![]() 齋藤 史 昭和51年『ひたくれなゐ』 |
瀏は、旭川第七師団の参謀長から昭和2年春、少将に栄進し熊本第6師団第11旅団長として転任することになった。3月19日、第5回旭川歌話会の例会は齋藤瀏、史親子の送別歌会となり、小熊秀雄が霧華を織り込んで出詠。別れに齋藤親娘は次の歌を残している。 「歌によき霧華の街のうすぐもり春に先だちいゆく人かな」 小熊 「こよひかぎり歌語りする日もなけむ心寂しきつどひなるかも」 瀏 「深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別るる時となりにけるかも」 史 昭和3年5月3日、済南事変勃発。齋藤瀏は警備司令官として任地に赴くが多くの犠牲を被った。帰国後、責任者として退役し予備軍人となって熊本市大江町に蟄居する。 大正10年の歌集「曠野」につづく第二歌集として、昭和4年4月、北国の冬、凍てつく朝の霧と光の交差を「霧華」と称して九首を詠い入れ標題を『霧華』と名付け、佐佐木信綱の序文を得て刊行。巻末には、済南事件の深刻な体験を通しての記念として、また『曠野』以来8年間にわたり作り溜めた中からこれに収めたと記している。旭川時代強く印象に残っていたの情景を「霧華」と言い表わしたのは、齋藤瀏をもって嚆矢とする説があるのはこの由縁であろう。 ・東明のあかるむ霧にほのかなる光あつめてさく霧華かも ・霧華さく秀群はにほへしののめのあかりいまだし森に徹らず 熊本から東京に移り、大森区池上町の住まいに度々訪れる北原白秋等の文人たちと交遊をふかめた。昭和9年に講演で旭川に来ている。 ※かって娘の史が通った旭川北鎮小学校の校歌を作詞している(昭和8年9月2日制定)、昭和36年の開校60周年に新しい校歌が制定されるまで歌われていた。 昭和11年、二・二六で連座して投獄、金鵄勲章剥奪、軍人恩給の停止。かって自宅に出入りしていた青年将校の栗原、坂井らは処刑された。13年に仮出所、翌年「短歌人」を主宰創刊する。15年に「悪童記」「獄中の記」を出版。 17年11月20日発表「愛国百人一首」は奈良時代の柿本人麻呂から幕末までの和歌の中から愛国の情熱を詠いあげた秀歌を選んだ。佐佐木信綱ら12人の選定委員に齋藤瀏も名を連ねている。18年、鉄道省の主催による講演で来旭、酒井広治が層雲峡に案内。瀏がかって旭川在任中に師団の工兵隊により切りひらいた層雲峡温泉の道路と、荒井初一と交渉した陸軍転地療養所設置寄付を条件に温泉分与した話などを回顧談として語っている。(悪童記) 終戦前に長野北安曇野郡池田町に疎開、26年に「二・二六」を出版、28年7月5日、長野市東鶴賀の史の家で死去74歳。歌集5冊他17冊の著書を残している。
昭和55年10月10日、53年ぶりで旭川を訪れた史が、少女時代過ごした往時を偲んで詠った。 「牧水も来て泊まりたる家のあと大反魂草は盛り過ぎたり」 を残している。そのあと著書のサイン会に応じている。
|
|||
|
壺屋のき花に戻る 霧華のトップページ 霧華の始まり |
||||