| 齋藤瀏第二歌集「霧華」 序文 (原文のまま) |
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北條早雲の廿 一箇條に、歌道なき人は、無手に賎しきことなり、學ぶべし、といへる一條あり。武田信玄の家法の中に、歌道可嗜事といへるあり。朝倉敏景の家法は、その終に、今川了俊の歌一首を掲げたり。これ、古の武將が、歌道を以て修養の具とせしことを知るに足る。かつ武田信玄、毛利元就、蒲生氏郷等、皆みづから歌を詠じ、殊に薩摩の優將新納忠元のごときは、秀逸の作を留め、かつ陣中の一夜、火縄の火の光をもて古今集を讀めりしてふ逸話さへ傳ふ。 齋藤瀏君は、現代の武將たり。かって、征露の役に従軍中の作をはじめ、樺太、西比利亞等の歌を収め、歌集「曠野」を出だして、世に問はれたりき。爾來、更に旭川その他に軍務に服し、また近く濟南に出動して、幾多の作を得られたり。しかして、その作、常人の詠に異なるもの多し。それらを集め、今この一巻を成されつ。 この集、名づけて霧華といふ。霧華は、樹々の枝に霜の結ぶこと花のごときをいへり。君かって北海道より上京せられし折の一夕の宴に、かの地の自然を説きて、霧華の美觀に及びぬ。余が北海道に遊びつるは盛夏の候にして、そを見るを得ず、君が詠歌によりて、その美觀に思を馳せたりき。 古來歌集は尠からず。しかも、かく北海道の自然に眼をそそぎて、そを微細に描寫せるものはあらざるべし。況んや濟南の詠のごとき、全く他の追隨をゆるさざるもの、ひとり武將の歌集として、現時の歌壇に異彩を放つのみにあらず、昭和初期の国際的事件の一記録として、とこしへに世に傳はるべきことを信ず。 昭和四年二月 文學博士 佐 佐 木 信 綱 |
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