| 齋藤瀏第二歌集「霧華」 巻末言 (原文のまま) |
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私が歌集を出すなどとは、柄に無い事かも知りません。けれども日露戰爭當時、歌を學び始めてまう二十數年になります。第一歌集「曠野」を出してからでも、八年の歳月を經過しました。 それに此度支那濟南へ出動してあんな事件に遭遇し、彈丸の洗禮を受けました。約二千の私の部下を以て、七萬内外の支那兵に圍まれ、随分奮闘をつづけましたが、指定避難場外に出て居た同胞十數名を、狂悪な支那兵の毒手に、斃してしまひました。部下の多くも死傷させました。おもへばおもふほど此の事件は私に重大なそして深刻な體験でありました。私は何とかして是を記念したいのです。 日露戰爭は私を歌の道に入らしめました。そして私は此度の戰場生活まで斯の道を歩み續けて居たのです。斯様な私としては、「曠野」以後の歌の集をつくることが記念として最も適當のやうに思はれます。それで思ひ切って此の歌集を出す事にしたのです。 今までを顧れば、その進歩は遅々として見榮えのないにもせよ、精進は人一倍に.勵んだつもりであります。又誰にも累はされずに自己の信ずる道を歩み續けたつもりであります。それだけ私としては自己の足跡に執着も愛憐も感じますが、さて愈々整理に着手して見ますと、をぜか情ないやうな氣が致します。でも職任の關係で數々居住を轉じ、此の間随分廣く旅行もし、叉軍籍に身を置く為め、軍隊軍人生活に關し多くの歌を得て居ます。是は確かに私に輿へられた惠澤として、自ら負ふ所が無いでもありません。それで千數百首の中から半分以上を思ひきって捨てて、此の集に収めただけを殘しました。 本集出版に關しては、一切を擧げて、恩師佐佐木博士、及び山下陸奥氏にお願ひしました。軍職を田舎に奉ずる私としては、さうお願ひするより外に仕方がないのです。此の面倒を見て下されたことは、何ともお禮の申し上げやうもない次第です。 装幀は私の奠敬する畫界の権威、心の花の同人の安田靱彦氏が引き受けてくれられました。また曠野の装幀をお頼みし従來から親交を願って居た結城素明氏が、あの炎暑と危險とを冒して私を濟南に訪ねて下さった思ひ出深きものがありますので、同氏に口繪を頂きました。共に私の集には勿體ない事と、深く威謝の意を表します。 それから尚ほ此の集の出版に就いて、種々な方面で、御援助、御致示、御聲援を賜った、心の花同人の石槫千亦、前川佐美雄の諸氏、竝に窪田空穂、太田水穂、吉植庄亮、橋田東聲、宇都野研、松村英一諸先輩の御厚情に對し、茲でお禮を申し上げます。 昭和三年十一月 於 熊 本 齋 藤 瀏 |
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