FORMOSA-No.43
【1994年(平成6年)7月9日】
台湾の人に愛された日本人
〜八田與一 その52回忌に参列して〜
日本統治時代の人で、死んでも尚、台湾の多くの人々に愛されている日本人がいるのを御存じでしょうか?台湾総督府初代総督・樺山資 紀?そんな筈ありません。彼は恨まれることはあっても愛されることはないでしょう。事実、 彼の墓は第二次大戦後、掘り返せれ、墓石は民家の壁になっているという噂ですし、その骨は日本に帰ることができませんでした。
台湾の人々に今でも愛されているその人の名を、八田與一(はったよいち)と言います。 第二次大戦後、台湾に数多く建てられた日本の 軍人や政治家の銅像は、樺山資紀の如くことごとく撤去、破壊され、その後には蒋介石の銅像が建ちました。しかし、現在も尚、台湾中部にある烏山頭水庫(台湾ではダムのことを水庫と言う)の端の小高い丘の上には、台湾に今でも 残る唯一の日本人の銅像、つまり八田與一の銅 像が、地元の水利組合の人々の手によって守ら れているのです。しかも、毎年5月8日の彼の 命日には、周辺の農民が神様のように慕ってい た八田與一の為に法要を行なっているのです。
平成6年5月8日、日曜日。この日は彼の 52回目の命日にあたり、法要が行なわれるということで、3年目の同僚、湊・加藤両先生と3人で参列することにしました。
八田與一技師との出会い
私が八田與一と出会ったのは、赴任して間もない1学期の放課後でした。日直で図書室を回っている時、『台湾を愛した日本人』という一冊の本が目に入りました。この本は、1980年に台湾・高雄日本人学校に赴任した古川勝三先 生が八田與一の人となりに感動し、高雄日本人学校の勤務のかたわら、その業績を広く台湾や日本の人に知ってもらおうとして一生懸命に調査し、まとめた本です。その晩、私は寝るのも忘れ、その本を読み終え、何とも言えぬ感動を覚えました。それ以来、機会があったら是非、八田技師の作った烏山頭水庫に行きたい、法要に参列したいと思っていましたが、やっと3年目の今年、丁度法要が日曜日ということで、その機会に恵まれ参列することができたという次第です。
嘉南平野の父、八田與一
では、台湾のたくさんの農民に慕われている八田與一という人はどんな人で、どんな事をやった人だったのでしょう。古川勝三先生が書かれた『台湾を愛した日本人』を参考にしなが ら、台湾の歴史や彼の生い立ち等を含めながら説明していきたいと思います。長い説明になりますが、是非読んでみてください。
●成績優秀東京帝大へ
八田與一は明治19年(1886)、現在の石川県金沢市の豪農・八田四郎兵衛の五男として生まれました。彼は地元の尋常小学校・高等小学校を卒業し、石川県立第一中学校・第四高等学校を経て、明治40年(1907)に東京帝国大学土木科に入学しました。彼はここで広井勇という教授に出会います。広井教授は『ボーイズ・ビー・アンビシャス!』のクラーク博士で有名な札幌農学校出身で、彼の生き方は八田青年を感動させました。また、広井は八田青年の非凡な発想・思考を見抜き、彼に台湾行きを勧めました。
●台湾を選んだ八田青年
広井教授や回りの人達の勧めで、台湾で自分を生かす道を選択した八田青年は、明治43年 (1910)7月、東京帝大を卒業すると同時に台湾総督府土木部の技師として、東京から2000Kmも離れた台湾へ向け、東シナ海を渡ったのです。
台湾に渡っての八田技師の手掛けた仕事は衛生工事係として、都市の衛生設備を担当しました。当時の台湾はマラリア・アメーバ赤痢・コレラ・ペスト等の伝染病が蔓延し、毎年多くの死者が出ており、その撲滅が台湾の開発・近代化と切っても切れない切実な問題でした。衛生工事係は、飲料水の確保と汚水を処理する下 水道の整備です。若かりし八田技師は、主に台南上下水道工事に従事しました。 その後、大正5年(1916)に土木課監査係となり、発電灌漑工事を担当しました。当時の台湾では、内地への食料供給源として米の増産を図ることが急務であり、八田は水田の適地を探し、灌漑施設を施す計画を任されたのです。その最初の計画が、台北の南・桃園の高原22,000fを完全な良水田に変えるもので『桃園土卑土川計画』と名付けられ、総統府でも認められ着工されました。桃園土卑土川の工事と並行して、彼は他にも水田の適地となる地域を台湾中、自分の足で歩き、調査しました。そして、その結果は、大正5年(1916)に総統府に提出されました。
●壮大な灌漑計画
彼が選んだのは『嘉南平野』でした。この平野は、現在の嘉義市と台南市に跨がる台湾最 大の平野です。ただ、雨季には洪水、乾季には干魃と塩害の三重苦の不毛の地だったのです。ここに灌漑設備を設ければ、嘉南平野150000f(香川県の面積に匹敵する広さ)が水田に変わり、今まで苦しい生活を余儀無くしていた農民達も救われるのです。総統府に於ける4年にわ たる幾多の議論の末、大正9年(1920)8月、8代総督・田健二郎はこの工事にゴーサインを出したのです。そして、同年9月1日、東洋一の規模を誇る灌漑設備であり、嘉南平野の農民が待ち望んでいた『嘉南大土川』の工事が開始したのです。
この工事は田畑に水を送る給排水設備も大切ですが、もっと大切なのが嘉南大土川の心臓部となる貯水池設備です。香川県の面積に送るだけの水を一年中湛えておく貯水池、それが『烏山頭水庫』なのです。このダムは、山と山の間の扇状地に堰堤を築くセミ・ハイドロリックフィル工法という東洋で未だかつて試みられていないものです。そのスケールの大きさは、全長1273m、底部幅
303m、頂部幅9m、高さ56m、使用土砂礫量
540万m3 という数字からも分かるでしょう。
●遂に完成、烏山頭水庫
昭和5年(1930)5月10日、『嘉南大土川』の竣工式が水を満々と湛えた烏山頭水庫を見下ろす丘の上で行なわれました。計画以来13年、着工から10年の歳月が流れ、八田技師は44歳となっていました。工事期間中の犠牲者は,従業員で70名、その家族等を含めると
134名にものぼりました(家族の場合は病気等による者が多かった)。工式会場には日本人3000名、台湾人
600名が参加し、三日三晩続けられました。そして、5月15日。嘉南大土川の通水式が行なわれました。ダムに設置されたニードルパイプ6門を全開すると、轟音を立てて水飛沫が上がり、それは照り輝く太陽の光の中で虹を架けました。その放水を見て、多くの人が涙を流したことは想像にかたくありません。放水された水は、3日間もかかって 嘉南平野全用水路に行き 渡ったそうです。この水 利により、三重苦に泣か せれて続けていた不毛の 地は、名実共に『台湾の 穀倉地帯』へと生まれ変 わり、嘉南60万人に経済 的な恩恵を与える事がで きたのです。この時から 八田與一の名前は嘉南の 農民の心の中に刻み込ま れ『嘉南平野の父』とし ていつまでも消える事が なかったのです。
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